第4話

文字数 3,383文字

 駆け込んだ作業場は、ヘッドライトの明かりが窓からかろうじて差し込んでいた。足を止めてぐるりと見渡す。広い空間に、高い天井から鉄の柱がいくつか伸びているだけで、閉鎖する時に綺麗に片付けたのかと思うほど何もない。だが、どうやら違うようだ。向かって右の壁際に、鉄骨で組まれたむき出しの階段が設置されており、その上り口に脚立やドラム缶が積み上げられている。わざわざ移動させたらしい。
 あそこか。紺野は舌打ちをかまして駆け寄った。
 二段に積まれたいくつかのドラム缶タワーが目の前を塞ぎ、その前に脚立や事務椅子が雑多に置かれている。バリケードのつもりか。どこかに非常階段があるはずだが、そちらも何か細工をしているのだろう。だが、警察に見つかるとは考えなかったのだろうか。こんな細工は逃走時に邪魔になるのに。それとも、よほど見つからない自信があって、近藤を逃がさないためのものだろうか。
「面倒臭ぇことしやがって……っ」
 紺野はぼやきながら次々と脚立や椅子を放り投げた。ぶつかり合う金属音が、がらんとした空間に派手に響き渡る。次はドラム缶だ。ドラム缶風呂などに使用される、二百リットルのものだ。中身が入っていれば積めないだろうから、おそらく空。上段のドラム缶二つの縁に手をかけ、体全体を使って後ろへ引き倒す。ドゴンと鈍く重厚な音を響かせ、ごろごろと床を転がって脚立や椅子にぶつかった。向こうにもタワーが現れた。下段のドラム缶をかき分けるようにして避け、同じ要領で上段を引き倒すと階段の上り口が見えた。
「ごほっ」
 薄暗くて見えないが、かなりの埃が舞い上がっているのだろう。紺野は咳き込みながら口と鼻を腕で塞いでドラム缶の間に体をねじ込み、階段を一気に駆け上った。
 天井が高いため、急で長い。そして上り切った先には、奥へ長い廊下が伸びていた。右手は一面壁だが、左手にはいくつか扉と窓が並んでいる。倉庫が二部屋に洗面所、更衣室、休憩所。さらに奥の窓から赤い光が漏れ、廊下を赤く染めていた。
 潰れた段ボールや台車、紙クズなどが転がる廊下を、紺野は全速力で駆け抜けた。あの光はおそらく精霊だ。さっきは男たちの足止めが目的だろうが、今度は違う。男たちと揉めた上に、これだけ派手に音をさせれば犯人は助けが来たことは分かっただろう。時間稼ぎ。つまり、近藤が危険だ。
 薄汚れた窓の向こうは棚らしき影が映っており、隙間から赤い光が漏れている。そして、掠れた文字で「事務所」と印字されたプレートが貼りつけられた扉。
 本来、飛び込むのは非常に危険だ。扉の向こう側で犯人が待機している危険性が高い。しかし、悠長にしている時間はない。
「近藤ッ!」
 叫びながら突き飛ばすように扉を開けてノブから手を離し、ほんの一瞬だけ待ってから飛び込んだ。
「紺野さん、避けてッ!」
 目の前の光景に驚く暇もなく、近藤の鋭い声が響いた。ハサミを持った全身黒づくめの男が、こちらへ向かってくる。その顔には見覚えがあった。下平から送られてきた写真の男。拉致計画の被疑者だ。さらに、周囲に黒い煙が漂っている。邪気。
 部屋から赤い光が引くように消え、ライトの明かりのみになった。
 窓越しに見えたのは、巨大な鳥だった。廊下を照らしていたのは、精霊ではなく変化した左近だったのか。ここで引くのか、これ触って大丈夫かなどと考えている余裕はない。紺野は両手を肩ほどまで上げて構え、脇を絞めた。と、邪気が逃げるように男から離れた。
 しまった、悪鬼化したか!
 悪鬼は、生み出した本人が恨む相手、つまりこの状況なら近藤を襲う。だが、男を放ってはおけない。何せ、悪鬼を生んだにもかかわらず、まだ男は邪気を纏っている。しかもこちらは丸腰。以前明は、「すぐに同化するわけではない」と言っていた。ならば、例え食われても多少の時間なら持ち堪えるだろう。そうなったら左近を呼ぶしかない。
 紺野は素早く突き出されたハサミを左へ避けると、左腕で男の腕を弾いて軌道を変え、そのまま背後に回り込んだ。男が踏ん張って立ち止まり、振り向きざまに腕を横に振り上げた。それを右手で掴んで止め、同時に左手で男の右肩を鷲掴みにし、外側へ強く捻りながら自分の方へ引き寄せる。
「うあっ!」
 男が短く呻き声を上げた。前かがみに体勢を崩し、痛みから逃れようと千鳥足で右へ回る。紺野はしっかり腕と肩を固定したまま、体勢を崩さないように動きを合わせる。まだ放さないか。捻った腕を少し持ち上げるとやっと手からハサミがこぼれ落ちた。即座に遠くへ蹴り飛ばす。
「く……っ」
 男が苦悶の表情を浮かべ、しかし往生際悪く右足を引いて蹴った。紺野はとっさに手を離して後ろへ飛び退く。当たっていれば脛に直撃だ。腕はかなり痛かったはずだが、なかなか根性がある。などと感心している場合ではない。
 男が移動したため、二人の立ち位置が初めに戻った。紺野が扉側だ。男の背後に浮かぶ悪鬼をちらりと一瞥し、訝しげに眉を寄せる。動いていない。まるでこちらの様子を窺うように、天井付近でふわふわと浮いて動く気配がない。確かに男から離れたように見えたが、悪鬼ではないのだろうか。だとしたら、あれは何だ。
「何だお前……気持ち悪ぃな」
 男が肩で手を押さえながら、言葉通り顔を歪めた。どういう意味だコラ。
 隙を狙って睨み合いながら、ふと気付いた。瘴気の影響を受けていない。邪気を纏う男に直接触れ、どう考えても悪鬼であろう黒い煙もいる。一瞬寒気は走ったが、廃ホテルの時のような吐き気はない。
「護符か……」
 紺野は口の中で小さく呟いた。男の失礼な言動は護符の影響を受けたものらしい。邪気を抱えているのなら当然。ということは、あの黒い煙は悪鬼であるはずだが、未だ動きを見せない。
 紺野はきゅっと唇を結んだ。何にせよ、近藤を襲う様子はない。ならば制圧が先だ。幸いにもロープが転がっている。
 男が、じりっと後ろへ下がった。近藤を盾にするつもりか。だが、この距離なら確実に追いつける。紺野も足を滑らせて距離を縮めた。
 極度の緊張感と緊迫感。今にも弾けて割れそうなほど張りつめた空気。一般人がそう長くは耐えられまい。うすら寒いはずなのに、男の額から汗が流れ落ちた。
「うう……、ううう……」
 早々に限界が来たらしい。男が食いしばった歯の隙間から不気味な唸り声を漏らす。呼応するように邪気の質量がわずかに増した。
「うわああああ――――ッ!」
 自分を鼓舞するように、男は雄叫びを上げながら突っ込んできた。姿勢が高ぇんだよ! 紺野は人知れず指摘し、すっと両手を上げて構えた。
 一切の迷いも躊躇いもない動きだった。
 紺野は、雄叫びと一緒に振り上げられた右拳を避けながら腕を左手で掴むと、素早く反転して背を向けつつ、右腕を男の脇に下へ差し入れた。肘の内側でがっちりと固定する。そして、お辞儀をするように勢いよく上体を前に倒しながら、脇の下へ入れた肘を起点に抱え上げる。と、ぐわっと男の体が浮いた。次の瞬間――ドオンッ! と轟音が部屋中に響き渡った。床と空気がびりびりと震える。
「がは……っ」
 男が目を剥いて苦悶の声を吐き出した。これが畳ならばこんなに音は響かなかっただろうし、ある程度衝撃も吸収されただろう。だが、勢いがあった上に床はコンクリートだ。骨折はせずとも、かなり激しく打ち付けたはず。しばらくは動けまい。顔を歪め、うう、と呻き声を上げている。
「すご……」
 瞬きをする間の、一瞬の出来事だった。残響の中、近藤が茫然と呟いた。
 そして当の本人は、男から手を離したはいいが、叩きつけた勢いで舞い上がった埃を頭からかぶっている最中だ。腕で口と鼻を塞いでげほげほと咳き込みながら、手で埃を扇いでいる。
 自分で言うのもなんだが、見事な一本背負いだった。中学から習い始めて二十二年。これだけ清々しいほどに決まったのは数えるほどだ。相手は素人なのだから、自慢にはならないが。まあそれはいい。それはいいのだが。
「てめぇ……っ」
 紺野はふわふわと舞い落ちてくる埃の中で、こめかみに青筋を浮かべて肩を震わせた。
「こんな時に紛らわしい事件起こすんじゃねぇ! また埃だらけじゃねぇか、誰が洗濯すると思ってんだッ!」
「え、怒るところそこなの?」
 近藤が複雑そうに顔を歪めて突っ込んだ。

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