第15話

文字数 3,569文字

 目の前で、樹の体が宙に浮いた。
 静止画のように一瞬だけ止まったように見えたあと、消えた。
 そのまま悪鬼に飲み込まれると思っていたのに、触手は樹の体をするりと放し、本体を追うように縮んでいく。
「ッ!」
 島でのことが脳裏に蘇り、息が止まった。身を切り裂くような、心をぺちゃんこに潰されたような、酷い恐怖に襲われる。
 あの時と同じだ。何もできずに、目の前で大切なものを奪われるのをただ見ているだけの、無力な自分。
「大河ッ!」
 突然鋭く名を呼ばれ、大河は我に返った。怜司の声だ。
「捕縛の術を行使しろ! 紫苑、大河を頼んだ!」
 怜司が宗史と晴に援護されながら、襲いかかる悪鬼を切り裂きつつ真っ直ぐ大窓へ向かっていた。それを目で追いかけて、まさかと驚愕する。
「怜司さ……っ」
「加減しろよ!」
 怜司は一切の躊躇なく飛び降りながら、思い出したように付け加えた。
「大河、術を行使だッ!!」
「急げッ!」
 宗史と晴から切羽詰まったように急かされ、大河は弾かれるように駆け出した。すぐ側で紫苑が援護に入る。
 そうだ、あの時とは違う。今の自分にはできることがある。そのための訓練、そのための力だ。
 何をするつもりなのかとか、加減できる自信だとか、内通者がどうとか、そんなことを考えている暇はなかった。ただこの高さから飛び降りた怜司の行動が、全てを語っていた。
 信じろ、と。
「オン・ビリチエイ・ソワカ! 帰命(きみょう)(たてまつ)る、地霊掌中(ちれいしょうちゅう)遏悪完封(あつあくかんぷう)阻隔奪道(そがいだつどう)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!!」
 駆けながら唱えた真言に反応し、大窓から膝をついて下を覗き込んだ大河の視線を辿るように霊符が一直線に下降した。まだ二人とも落ちている途中。真下にあったはずの枝葉が無残に折れ、障壁の残骸が山を作っている。
 山がもぞもぞと動いたと思ったら五本の棒状に分かれ、放物線を描きながら伸びた。そして二人の周囲を囲むと、霊符と共に雑巾を絞るようにきゅっと縮み、動きを止めた。煙突のようだ。
 術の現象は、茂に渡されたメモに書かれてあったから何となく想像はできていた。その名の通り、対象を捕縛する術だ。
 ここでやっと気が付いた。一旦捕縛の術で速度を殺し、中から霊刀で切り裂いて脱出すれば、七階から落ちるよりは助かる可能性が高いと判断したのだろう。けれど下手をすれば、身動きが取れずに窒息死する。
 飲み込まれたまま二、三秒、音沙汰のない煙突に大河の顔が青ざめた。加減を間違えたか。
「ッ!!」
 助けに行かなければ、と前のめりに飛び降りようとした時、硬質化しているはずの煙突に罅が入った。ピシピシと音を立てて広がり、同時に何故か根元から折れた。破壊されたことで術が解け、徐々に瓦解しながら傾いでいく。直後、煙突の真ん中辺りが真横に切り裂かれ、勢いよく土の塊が飛び散った。
 隙間に霊刀を振り抜いた格好の怜司と、さらに下には樹の姿がある。怜司の手から霊刀が消えた。
「樹さん! 怜司さん!」
 煙突が大量の土煙を上げながら崩壊していく。二人がいるのはおそらく三階辺り。七階よりはマシだろうが衝撃は避けられないし、このまま落ちると降り積もる土に埋もれてしまう。
 と、下から何かが飛び出してきた。土煙の中、塊を足場にして器用に飛び跳ねながら上へ上がってくる。手を伸ばして樹の腕を掴み、続けてすれ違いざまに怜司を肩に担ぐと、そのまま塊を蹴り飛ばして大きく跳ねた。
 唖然とした顔で下を覗き込んでいた大河の頭上を軽々と越え、それは軽やかな所作で着地した。


 大窓の外で宙に浮いた樹を見て、時が止まった。
 一連の事件の全ては樹に繋がる。やはり目的は樹でもあったか。
「宗史くん、晴くん、援護を頼む!」
 唐突な怜司の頼みに、二人は我に返った。
「怜司さん何を……っ」
 返事を待たずに駆け出した怜司の後を、咄嗟に追いかける。
 さすがに四方八方から襲いかかる悪鬼全てに対応はできない。正直なところ、これまでこの数の悪鬼を相手にしたことがなかった。心霊スポットになっている調査でも十体、多くても二十体ほど。椿との訓練の成果を発揮する時ではあるが、あれは全方位をカバーできない。構えている間に隙ができる。いくつかカバーできる術はあるが、まだ男たちがいる以上行使するわけにはいかない。彼らもまとめて攻撃してしまう。
 昼間に宗一郎から伝授されたあの術。あれが使えれば、もっと早く対処できていた。
「つ……っ」
 捉え損ねた触手に頬を深く切られ、生ぬるい血が頬を伝った。
「大河ッ! 捕縛の術を行使しろ! 紫苑、大河を頼んだ!」
 怜司の指示にそうかと納得する。大窓の下には瓦解した障壁の土が山になっているはずだ。脱出したあと、地面までの距離が短くて済むかもしれない。
 ただ、紫苑に大河を任せたのは少々意外だった。怜司は、紫苑は大河を守ると判断したのか。紫苑も驚いたようで、目を見開いて怜司を見やった。宗史と晴が飛ばした命令に我に返り、大窓へ向かう大河を追いかける。背後で男たちの悲鳴が中途半端に途切れた。
 大河を背に守る形で、宗史、晴、そして紫苑が並ぶ。
 地天の真言が響き、土の蠢く音が聞こえた。晴の脇を、悪鬼が隙をついてすり抜けた。しまった、と視線で追いかけると、横から腕が伸びて悪鬼を鷲掴みにし、そのまま握り潰した。
「悪ぃな」
「貴様のためではない」
 平然とした顔で一蹴した紫苑に、「ああそうですか」と晴が拗ねたようにぼやいた。
 触手から大河を守った時もそうだったが、あの時紫苑は、二人の男を見殺しにして大河を助けた。また今も、目の前で男たちが悪鬼に食われようと眉ひとつ動かさない。ただひたすら大河だけを守っている。
 それ以前に下平が男たちを逃がした時は、男たちを援護するような動きを見せていた。つまり、紫苑は切り捨てるべき時を見定めたのだ。冷酷に。
 鬼ゆえの潔さなのか、それとも、それほど紫苑にとって――引いては柴にとって、大河は守るべき存在なのか。
 守るべきものを守るために、切り捨てなければならないものがある。それは以前、自分が大河に言った言葉だ。切り捨てるべき時を見誤るな、と。
 宗史は歯を食いしばった。
 陰陽師は、正義の味方ではない。ましてや万能でもない。それは、六年前からよく分かっているはずだ。
 実際問題、正確な数は把握し切れないが、男たちの数はおそらく足りていない。何人か逃げ出しているが、それでも食われた数の方が多い。初めの時点で救い出せなかった男たちは、おそらく十人近い。さらに食われ、救出が間に合わず悪鬼と共に調伏された者もいるだろう。
 分かっていても、救えなかったという現実が自分の未熟さを浮き彫りにする。宗一郎ならどうするだろうと、情けない考えが脳裏をよぎった。
 余裕の笑みを浮かべてこちらを見下ろす顔がありありと想像できる。この程度で根を上げるのか? などとのたまうのだろう、あの男は。
 宗史は忌々しげに舌打ちをかました。
 先程まで途切れることなく増え続けていた悪鬼の数が減ってきている。窓からはもう新たな悪鬼も入ってこない。打ち止めか。
 とは言え、一体一体調伏するにはまだ骨が折れる数だ。椿と志季も水塊と火玉の数が減ってきている。限界が近い。
「ぎゃ……っ」
「うわあぁぁっ!」
 扉付近で逃げ遅れた男たちが悪鬼に食われた。咄嗟に志季が放った火玉が命中し、燃やし尽くす。転がり落ちた男たちが、一瞬見えた炎に泡を食って体中を叩きまくる。だが「焼けてねぇよ、早く行け!」と叫んだ下平の声に我に返り、へっぴり腰で逃げ出した。志季と椿が悪鬼の中を突っ切るようにしてこちらに向かった。
 目の前にいる悪鬼たちの中にどれだけの男たちが食われているのか分からないが、今を逃せばこのまま持久戦になる。これ以上はもたない。
「晴、尖鋭(せんえい)の術で一気に叩くぞ!」
「了解! 陽、九字結界で頭守ってろ! 一瞬だけ耐えろよ!」
 声を張って陽へ指示を出すと、了解の声が返ってきてすぐに真言が響いた。
「椿、結界を強化しろ!」
「はい!」
 合流するなり、椿は志季と共に頭上の悪鬼を一掃すると、間髪置かずに下平たちを隔離する結界へ視線を投げた。結界の周囲を渦巻いている水の量と速度が増し、もどかしげに結界に張り付いていた下平が驚いて飛び退いた。
 背後で、ザッと砂を擦る音が微かに届いた。
「ありがとう、助かった」
 怜司の声。どうやら無事だったようだ。
 宗史はわずかに首を捻って現れた男を一瞥し、正面を見据えた。

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