第13話

文字数 1,784文字

      *・・・*・・・*

 朱雀二体を放った直後、一瞬で視界は暗闇に覆われた。
 春平は、ゆっくりと瞼を持ち上げながら安堵した。左手に感じるのは、熱いくらいの温もり。痛いくらいしっかり握られている。この年で弘貴と手を繋ぐことになろうとは。などと思う資格は、自分にはない。
「悪鬼の中って、ほんとにこんな感じなんだな。春、大丈夫か?」
 この状況でのんきな感想だ。しかし、聞き慣れた声にますます安堵する。春平は顔を上げた。
「うん、大丈夫」
「よし。それにしても、この距離で相手の顔すら見えねぇのな」
 弘貴の大きな手が、感触を確かめるように何度か動く。しっかり手を繋いでいて、すぐ側に気配もある。それなのに姿が見えないほどの深い闇。春平は周囲を見渡した。
 迷子事件の時の大河の報告を思い出し、春平はその場で何度か軽く足踏みをした。確かに感触がある。何とも不思議な空間だ。
「って、のんきにしてる場合じゃねぇな。春、脱出するぞ」
「了解」
 頷いて霊符を構えると、不意に声が聞こえた。
 ――憎い。
 低い低い、男の声だ。
 ――許さない。
 女の声が重なった。と思ったら、それを皮切りに次々と別の声が重なってゆく。
 ――呪ってやる。
 ――恨んでやる。
 ――死ね。
 ――苦しいよ。
 ――殺してやる。
 ――寂しい。
 ――痛いよ。
 若い声に、年配の声。子供の声も混じっている。抑えきれない感情を変換したような、禍々しくもあり、悲しくて悲痛な声。ありとあらゆる声と言葉が重なり合い、やがて聞き分けられないほどの雑音に変わる。
 手が小刻みに震え、春平は弘貴の手をぎゅっと握った。完全に閉鎖された空間で、マイクを通した無数の声を大音量で聞かされているような感覚。声という形のないものに囲まれ、思考も、自分という自我も、手から伝わる温もりや感触も、全て飲み込まれ支配されそうなほど圧倒的な、他人の負の感情。
 ――どうせ俺なんか。
 突然その声だけが鮮明に耳に飛び込んできて、春平は目を丸くした。
 ――どうせ俺なんか。どうせ俺なんか。どうせ俺なんか。どうせ俺なんか。どうせ俺なんか。どうせ俺なんか。
 何度も何度も何度も、自分への卑下を繰り返す。まるで、今の自分の心を見透かしたような言葉。春平は小さく頭を振って顔を強張らせ、ぐっと唇を噛み締めた。
「ごめんな」
 不意に卑下の声を遮ったのは、弘貴の声。一瞬思考が途切れた。今、誰に謝った?
 顔を上げてゆらりと見上げると、見えないはずなのに、弘貴が酷く悲しそうな顔をしているのが分かった。
「苦しかったよな。辛かったよな。好きで人を恨む奴なんかいないし、初めから死にたいって思ってる奴もいない。誰だって本当は生きたいし、自分のこと好きでいたいよな。でも、俺らにはもうどうしようもないんだ。ごめんな、こんなことに巻き込んで。すぐに解放してやるから」
 子供に言い聞かせるような優しい弘貴の声に、安堵と同じくらい、ぎゅっと胸が締め付けられた。
 春平は痛みを堪えるように目を細め、ふと、どこを見るでもなく視線を上げた。あれだけ重なり合って響いていた声が、一つ一つ消えてゆく。言葉が鮮明になり、声量も小さくなっていく。一体、どうして。
「春」
 唖然としていると名前を呼ばれ、春平ははっと我に返った。
「大丈夫か? やるぞ」
「あ、う、うん。大丈夫」
「よし」
 推測はあとだ。闇の中、二人は改めて霊符を構えた。
「オン・シュチリ・キャラ・ロハ・ウン・ケン・ソワカ――」
 頭の中で、弘貴の言葉が繰り返し再生される。
 誰もが持っていて当たり前の負の感情。でも、初めからそうだったわけじゃない。色々な体験をして、様々な感情を知って、たくさんの人と出会う中で芽生えてしまう。感情を持って生まれた以上、避けては通れない。他人への悪意、自分への卑下、この世への不満や不安。そんな感情自体に、そんな気持ちを抱えている自分自身に嫌悪し、苦しむ。けれどもう、悪鬼と成り果てた彼らをどうすることもできない。話しを聞いてやることも、励ますことも。ならばせめて、完全に消滅するわずかな時間でも忘れることができればと願う。
 そして、そうすることができるのは、陰陽師だけ。
帰命(きみょう)(たてまつ)る、邪気剿滅(じゃきそうめつ)碍気鏖殺(がいきおうさつ)久遠覆滅(くおんふくめつ)――」
 いつもの調伏の真言を唱える時とは違った。祈りを捧げるような、そんな唱え方だった。
急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)
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