第7話

文字数 5,259文字

 グランツから店を数軒挟んだ先の路地に入ると、ナナは摘まんでいた袖を離し、至極真面目な顔で下平を見上げた。
「お願いがあるんです。さっきの、草薙の息子のことで」
「うん?」
「噂なんですけど、あいつに何人か酷い目に遭った子がいるって」
「酷い目?」
 何だそれは、と言外に問うと、二人は顔を見合わせて口をつぐんだ。なるほど、小さい芽どころか大輪の花を咲かせていたか。しかも強烈な毒花だ。自然と眉根が寄った。
「いい、分かった。それで?」
 煙草を取り出し、火を点けながら促す。
「お客さんの中にキャバクラで働いてる子がいて、その子からの情報なんです。あいつ、前までは色んなキャバクラに顔を出していて、女の子にしつこく迫って出禁になったお店がいくつかあるそうです。それで最近クラブに河岸替えしたらしくて。今のところ、クラブのお客さんの中でセクハラ以外の被害に遭ったって話は聞いていませんけど」
 それでもセクハラ被害者はいるわけだ。下平はネットでのアヴァロンに対する評価を思い出した。ナンパしやすい店だと。
「アヴァロンには来てんのか?」
「いえ、まだです。でも大丈夫ですよ。話を聞いた冬馬さんが、客に被害が出てからじゃ遅いからって言ってすでに出禁にしてるので」
「へぇ。冬馬が?」
 下平は驚いたように目をしばたいた。本当かどうか分からない噂話で出入り禁止を決定したのか。セクハラは事実だとしても、判断が早い。
 もし息子が知ったら、それこそどんな仕打ちをされるか分からないだろうに。普通の感覚ならば身から出た錆だと思うが、話を聞く限り息子が改心した様子はない。となれば、一介のクラブごとき、どこからどう手を回されて閉店に追い込まれるか分からない。だからグランツも甘んじて受け入れているのだ。
 しかし冬馬は、その危険を冒してまで客の安全を取った。昨今の政治家より判断力があるのではないのか。
「そういう人なんですよ、あの人。色々噂は聞きますけど、あたしたちは信じてないです」
「うん、全然信じてない。冬馬さん、嫌な客とかにはすっごい怖いけど、あたしたちには優しいもん」
 ね、とリンが顔を向けると、ナナは笑顔で大きく頷いた。
 怖いけど優しい。また、違う印象だ。
 不敵な笑みを浮かべて人を煙に巻く彼と、真面目に店の経営に勤しむ彼と、優しいと慕われる彼と。一体、どれが本当の冬馬なのだろう。
 だが、彼女たちはそれでいいのかもしれない。どれが本当であれ、数ある噂が真実だったとしても、彼女たちにとって「優しい人」ならば、それで。
 そうか、と下平は煙草に口を付けた。
「それで、無理を承知で調べて欲しいことがあって。噂が本当なら、被害届か犯歴がないか知りたいんです。もちろん、外部に漏らしちゃいけないことは分かってます。でも、もし何かあった時に、出禁にした正当な理由があれば有利なので。あるかないかだけで構いません。冬馬さん以外には絶対に言わないので、お願いできませんか」
 話の途中で、リンがなるほどと言った表情を浮かべた。
 犯歴がある者や被害届が出されている者を警戒するのは、店側として不自然ではない。ましてやそれが女性に対する屈辱的なものならばなおさら。クラブには多くの女性が出入りする。しかし、だからと言って、警察官が個人の犯歴を他人に漏らすことは言語道断だ。
 真っ直ぐにこちらを見据えてくる二人の目に、下平は困ったように眉尻を下げた。
 どこぞのあの二人に少し似ている。迷いも濁りもない目。本音を言うと、他の客より冬馬に近しいとはいえ、客である彼女たちがここまでしなくてもいいのにと思う。それほどまでに店に思い入れがあるのか、それとも冬馬へか。
 視線を逸らそうとしない二人に根負けし、下平は呆れ気味に息を吐いた。次第に懲戒免職の足音が近付いているような気がする。
「息子のフルネームは?」
草薙龍之介(くさなぎりゅうのすけ)
「分かった、調べてみよう。ただ、今ちょっと面倒な事件抱えててな。時間がかかるかもしれんがいいか?」
「構いません。ありがとうございます。連絡先、教えておきましょうか」
「ああ、そうしてくれると助かる。分かったらすぐに連絡入れる。いいか、絶対に他に漏らすなよ。俺のクビがかかってるからな」
「はい、お約束します」
 下平とナナが携帯を取り出すと、リンも「ずるいあたしも」と非難しながら携帯を突き出してきた。何がずるいのかよく分からない。
「それにしてもナナ、お前よく気付いたな」
 店で大騒ぎをしている姿や、リンと一緒に馬鹿話をしているところは目にしていたが、こうして真面目な会話をしたのは初めてだ。意外な発見だ。
 下平に応えたのはリンだった。
「だって、ナナ看護師さんだもん。医療関係の人って頭いいんだよ、人の命を救ってるんだから、すごいんだよ」
 自分のことのように自慢気な笑みを浮かべるリンに、ナナがはにかんだ。下平はやり方を何とか思い出した赤外線通信で連絡先を交換しつつ、へぇと嘆息する。
「お前、看護師だったのか」
「ええまあ」
 名前を呼び捨てにするほどの顔見知りとは言え、何か問題が起きれば聞くが、この二人は特にこれと言って何もないためプライベートまで会話が及ぶことはなかった。
「白衣の天使が夜な夜なクラブ遊びか?」
「下平さん、発想が古いですね」
 通信完了の確認をし、嫌味混じりに言ってやると、ナナは間髪置かずに平然とした顔で切り返してきた。看護師は気の強い女性が多いと聞いたことがあるが、納得だ。
「やかましい。どうせ昭和生まれだよ」
 平成を数年過ぎた頃の生まれのお前らからすれば、昭和は古いだろうよ。そんな意味を込めて卑屈に言い返すと、ナナは小さく笑った。
「仕事は好きですが、人様の命を預かってるんです、ストレスくらい溜まりますよ。プライベートで多少羽目を外すくらいは構わないでしょう」
 携帯をバッグにしまいながら、ナナは溜め息交じりにそうぼやいた。なるほど、だからあのはしゃぎ様か。下平は携帯を上着のポケットにしまい、紫煙を吐き出しながら低く笑った。
「ねぇ、ナナぁ」
 リンが携帯で口を覆うようにして、ねだるような上目遣いでナナを見上げた。
「冬馬さんの話したら会いたくなっちゃった。アヴァロン行こ?」
「ほらぁ。言ったのにリンが拗ねるから」
「だってぇ、冬馬さんあれからぼんやりしてさ。相手にしてくれないんだもん」
「いつものことじゃないの? それ」
「ひどっ! そんなことないもん!」
 果たしてリンが冬馬を陥落する日は来るのだろうか。ナナ酷いー、ごめんごめん、とじゃれ合う二人を微笑ましく眺め、下平は何の気なしに尋ねた。
「冬馬がぼんやりって、珍しいな。何かあったのか」
 新たな印象を知ったとは言え、あの冬馬がぼんやりしている姿は想像がつかない。癪に障る余裕の笑みと、飄々とした態度しか思い浮かばない。
「樹、だっけ?」
 突然飛び込んできた名に、下平は銜えかけた煙草を口元で止めた。
「一昨日? 昨日になるのかな? 樹って人が冬馬さんを訪ねてきたの。それでVIP追い出されちゃって。ムカつくーって思ってたんだけど、めっちゃイケメンだったから許した」
「あたしは昨日行ってないので見てませんけど、それかららしいですよ、冬馬さんがちょっとおかしいの」
「……それ、本当か」
「うん。あの変な噂と同じ名前だったから、間違いないよ。だからね、噂のイツキの正体あの人なのって聞いたの。そしたら違うって、あいつは関係なかったって言ってた。でも、じゃあ誰だったんだろう、あの人」
 樹がアヴァロンに行ったかどうかの確認はどうするか、と思っていたのだが、意外なところで証言が取れた。
 冬馬さん並みのイケメンだったんだよ、それ冬馬さんに言っていい、やだやめてよぉ、とまたじゃれ合う二人を横目に、下平は煙を吸い込んだ。
 冬馬は、関係ないと判断したのか。
 実際のところ、取り巻き連中や自分よりも、冬馬が一番樹のことを知っているだろう。一時期、樹は冬馬の自宅にも出入りしていたと聞いている。決して他人を自宅には入れないらしい彼がそこまで許していたのなら、かなり親しかったのだろう。その冬馬が、樹と直接対面し関係ないと判断した。おそらく間違ってはいない。ただし、嘘をつかないという性格が変わっていなければ、の話だが。
 下平は煙と共に重苦しい息を吐いた。
 やっぱ、行ってたか。
 自身の弱さに勝てなかった自分の責任だ。今さらどうこう言うつもりはない。
「お前ら、そいつ以外で噂に関して何か知らねぇか? 出所とか」
「下平さん、噂のこと調べてるんですか? 前も調べてませんでした?」
「俺が聞いた時より広範囲で回ってるって聞いてな。詐欺だったらまずいだろ、念のためだ」
 うーん、と唸りながら首を捻る二人を見やり、下平は最後に一度煙を吸い込んだ。
 この二人にとってアヴァロンがどういう場所なのかは知らないが、先程のナナの調査依頼といい、かなり大切にしていることは分かる。贔屓にしている店が詐欺に利用されるかもしれないという危機感から、何か喋ってくれるかもしれない。
 二人の純粋な気持ちを利用しているようで気が引けるが、人の命がかかっている。勘弁してもらおう。
 携帯灰皿に吸い殻を押し込むと、リンが顔を上げた。
「そういえば、同じ日にイツキを探しに来た男の二人組はいたよ。一人は若かったけど、もう一人はおじさんだった」
「また?」
 うん、とリンが頷いた。
「その二人組が噂のこと言ったら、(とも)くんと(けい)くん、怖い顔してその人たちを非常階段に連れて行ったの。冬馬さんにそのこと伝えたら、冬馬さんも行っちゃって。その後に樹って人が来たの」
 智くんと圭くんとは、智也(ともや)圭介(けいすけ)だ。樹がアヴァロンに出入りする以前からの冬馬の取り巻きであり、そして、樹が出入りするようになったきっかけを作った二人でもある。
 リンが見たという二人組はおそらく紺野と北原だろう。おじさん呼ばわりされた紺野は気の毒だが、見た目の印象と非常階段に連れて行かれたという状況も一致している。
「それ以外で何かって言われても……」
「あたしも、特にこれと言ってないですね……」
 困り顔で見上げられ、下平はそうかと息をついた。個人的に意外な収穫はあったが、噂については何も分からずじまいか。
「じゃあ、何か思い出したら連絡くれ。悪かったな色々聞いて」
 言うや否や、リンがぱっと顔を明るくした。
「全然! 草薙の件ありがとう、何か思い出したら連絡するね」
 まるで内緒話をするいたずらっ子のような笑みを浮かべ、ナナの腕に絡み付く。
「ナナ、早く行こう!」
「ちょっとリン、分かったから」
 下平は、リンにせわしなく腕を引っ張られるナナの後に続き、路地を出た。
「下平さん、無理なお願いを聞いてもらってありがとうございます。あたしも何か思い出したら連絡します。じゃあ」
「おう、気ぃ付けて行けよ」
 顔だけこちらに向けて会釈をしたナナと、大きく手を振ったリンに言ってやると、はーいと元気な返事が往来に響いた。徒歩十分だし、この時間は人通りも十分ある。危険なことはないだろう。
 下平はきゃっきゃと笑い声を上げながら小さくなっていく二人の背中を眺めながら、息を吐いた。
 リンとナナは、タイプが全くの逆だ。確か、アヴァロンで出会って仲良くなったと聞いている。何がきっかけで意気投合したのかは知らないが、アヴァロンに対する思い入れは同じなのだろう。
 不意に、これまで耳にした冬馬に関する噂話が脳裏をよぎった。
 クスリの売買から売春斡旋、暴行、恐喝、傷害、そして殺人。ノブは冬馬に反発した連中が流したのではと言っていたが、はっきりしたことは分からない。それもこれも、冬馬がまるで他人事のように放置しているせいだ。
 何度目の噂だっただろう。また噂聞いたぞ、と問い詰めると冬馬はいつもの飄々とした口調でこう言った。
『前も言ったでしょう、くだらないって。言いたい奴には言わせておけばいいんです、俺は興味ありません。調べるのならご自由に。何なら協力しますよ』
 不敵な笑みを浮かべた冬馬に、深々と溜め息をついたことを覚えている。
 自分の噂は無関心、だが店に関する反応と判断は早い。場数を踏んで培われた余裕なのか、それとも、自分に興味がないのか。何にせよ、
「あいつらを裏切るなよ、冬馬」
 あれほどの酷い噂が流れる男を優しい人だと慕い、自分たちなりに店を守ろうとするリンとナナを裏切るような真似だけは、絶対に。
 下平は携帯を取り出して紺野の番号を呼び出した。待ち構えていたように二度目のコールで出た紺野に、俺だ、と応えながら、最寄駅へと足を向けた。
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