第1話

文字数 5,395文字

 幸いと言いたくはないが、先日大量に食料を買い込んだおかげでメニューには困らない。だからといって少々睡眠不足の状態で手の込んだ朝食を作ってやるほどお人よしではないので、紺野(こんの)は無難なメニューを頭に思い浮かべながら、身支度を整えてキッチンへ入った。いつもは先に洗濯機を回すのだが、今日は後回しだ。
 1LDKの間取りは横長で、玄関を入って右手に水回り、正面にリビングへの扉がある。入ってすぐにカウンターキッチンとリビングダイニング。隣が寝室だ。仕切りは横にスライドすれば開け放てる仕様になっており、夏の間はエアコンが一台しかないため開けっ放しにする。カウンターの前には小さなダイニングテーブルがあって、向こう側にソファとテーブルとテレビ。ソファの端からにょっきりはみ出た近藤(こんどう)の足は、非常に不本意だがもう見慣れてしまった。
 トーストにオムレツにベーコン、温野菜サラダを付けて、あとはコーヒーでいいか。エプロンを着けて必要な材料を冷蔵庫から出しながら、ふと気が付いた。そういえば、近藤から和食をリクエストされたことがない。朝もパンがいいと言うので、いつも洋食だ。母親が小料理屋をやっている影響だろうか。
 温野菜は専用の容器に入れてレンジで一発。その間に、ボールに卵を割り入れて塩コショウで味付け、泡立て器でかき混ぜてザルで漉す。換気扇をつけ、フライパンに火を入れてバターを投入。全部溶けたところで卵を入れ、フライパンをゆすりながらヘラで半熟になるまでかき混ぜる。ザルで漉すひと手間と、熱を通した時に塊が偏らないようにするのが綺麗に仕上げるコツだ。
 もうすっかり慣れてしまった手順で調理をしながら、紺野は今日の予定に思考を巡らせた。自宅謹慎であるにも関わらず外出したのは捜査本部に筒抜けだ。一課長から叱責の電話が来るかもしれない。けれど、ここでじっとしていろという方が無理だ。
 とりあえず病院に行って、それから――それから?
 さっき寝起きに寝室のカーテンを開けた時には、アパートから少し離れた場所に昨夜見た捜査車両が停まっていた。熊田と佐々木がまだ監視の体を装って張り付いているようだが、そろそろ交代の時間だろうから再捜査に行きたくても行けない。そもそも警察手帳は府警本部のロッカーにある。習慣というのは怖い。さて、どうするか。
 フライパンの柄をリズムよく叩いて巻いたオムレツの表面は、焼き色もなく見事につるんとしている。上出来だ。
 紺野は自画自賛しながら調理を進めた。
 昨夜の事件において、東山署は防犯カメラの確認と同時に北原(きたはら)の交友関係を調べるだろう。遺留品は、財布、鍵、ハンカチに携帯、お守り、あとはペンといったところだ。近藤いわく、携帯は壊れていたらしいし、メモ帳はこちらにある。府警本部の一課も当然関わってくるから、北原がメモ帳を持ち歩いていたことは知られる。近藤によると防犯カメラは現場になかったらしいし、もし犯人がメモ帳を奪ったのなら近藤と監視の捜査員から証言が出ると判断し、現場の捜索に加え、本部のデスクと自宅、おそらくこちらにも確認の電話が入る。あとはお守り。どう見ても手作りだから家族と彼女に聞くだろうが、携帯が壊れている以上、彼女の連絡先は分からない。北原が自宅で手帳などに残していれば――いや、そんなマメなことをしているとは思えない。メモ帳の行方と共に、それも出所を探るだろう。
 あとは携帯の通話・通信履歴。近藤のこともあって、下平(しもひら)とは連絡を取り合っていたかもしれないが何とでも言い訳はできる。(あきら)への連絡はいつも自分だったが、念のために確認した方がいいだろうか。問題はメッセージアプリだ。あの会社は、警察の照会でも審査がかなり厳しい。照会で北原のアカウントの登録情報は開示されても、通信履歴などは裁判所の令状がなければ開示されない。すぐに令状を請求するだろうが、開示されて相手のIPアドレスが分かっても、そこからさらにプロバイダーに開示要請をして回答を待つことになる。時間がかかりすぎるのだ。とはいえ、明たちのことが知られる可能性が――いや待て。あの会社は確か――。
 紺野は真っ白な皿に並んだ二つのオムレツにケチャップをかける手を止めて、息をついた。昨日、明に報告した時、携帯の復元は無理らしいことも伝えた。すると明は、平然とかつ暢気に言ったのだ。
「でしたら、通信履歴を調べますよねぇ」
 と。やけに落ち着いているなと思っていたら、このせいか。
 メッセージアプリを提供している会社は、エクシード・グループの子会社だ。エクシードの開発部門に所属していたエンジニア数人を中心にアプリ専門の新会社が設立され、今ではコミュニケーションアプリをはじめ、動画やGPS、趣味、ファッション、ビジネス、勉強・教育、健康管理まで、多種多様のアプリ開発・提供を行っている。
 廃ホテルの事件の時、宗史(そうし)大河(たいが)が言っていた。会合に出席していた越智稔(おちみのる)はエクシードの副社長だと。
 紺野は無心でケチャップを握った手を動かした。そしてカリカリに焼いたベーコン、ほくほくしたブロッコリーとニンジンとじゃがいもの温野菜サラダを盛り付ける。
 よし、気付かなかったことにしよう。紺野は色鮮やかな皿を眺めて一人頷いた。
 さてそろそろ近藤を起こすかとソファに目をやると、ごそごそと布擦れの音がした。
「いいにおーい」
 間延びした暢気な声がソファの方から上がり、近藤が爆発した髪を手櫛で整えながら体を起こした。ソファの背もたれに顎を乗せて鼻をひくひくさせる。
「起きたか。もうすぐできるから顔洗ってこい」
「んー」
 これっぽっちも覇気のない返事をし、近藤は気だるそうにのっそりと立ち上がった。ふらふらとキッチンの横を通り過ぎた近藤の姿勢は、相変わらず猫背だ。これで本当に空手をやっているなんて信じられない。
 トースターに食パン二枚と、コーヒーメーカーにマグカップをセットしてボタンを押す。そして皿をダイニングテーブルに置いて、窓際へ歩み寄った。開けたカーテンの向こう側に見える空は、一面灰色の雲に覆われて、今にも降り出しそうだ。微かに聞こえるのは、いつも通りの住宅街の喧騒。
 昨日のことが嘘のような、平和な朝。
 ふと気分が沈みかけ、紺野は小さく首を横に振った。
 コーヒーメーカーの音が止まり、踵を返す。もう一杯コーヒーを淹れてトーストをそれぞれ皿に乗せ、フォークやドレッシング、バターと共にダイニングテーブルに並べたところで、近藤が戻ってきた。
「あー、降りそうだねぇ」
 すっかり目が覚めた様子の近藤は、窓の方を見てぼやきながら椅子に腰を下ろした。
「降るんじゃねぇか?」
 ローテーブルには、近藤の携帯や鍵や財布が散乱している。リモコンでテレビをつけると、残念ながら芸能ニュースが流れていた。とりあえずそのままにしてエプロンを外し、紺野も食卓につく。
「いただきまーす」
「いただきます」
 手を合わせて紺野はコーヒーをすすり、近藤はオムレツを口に運ぶ。
「うん、やっぱり美味しい。一家に一人、紺野さんだよねぇ」
「人を家電みたいに言うな」
「紺野さんさぁ、この近くでもっと広い所に引っ越す気ない?」
「ねぇよ」
「なんでー」
「今以上にお前が私物持ち込んで居座るからだ」
「バレたか」
「バレバレだろ。つーか私物持って帰れ」
「やだよ。泊まった時どうするのさ」
「なんで泊まる前提なんだよ。前も言ったけど、お前が部屋借りればいい話だろ」
「面倒だからやだ。それに、僕が一人暮らししたらどうなると思う?」
「……考えたくねぇ」
「でしょ?」
 科捜研の個室を考えれば、どうなるかなど想像するまでもない。勝ち誇ったような笑みを口元に浮かべた近藤に嘆息し、紺野はバターを塗ったトーストにかぶりついた。
『次はお天気のコーナーです』
 テレビから届いたその声に、揃って顔を向ける。
『――西から天気は下り坂、早い所では昼頃から降り始め、夕方には雷を伴った激しい雨になるでしょう。お出かけの際は傘を忘れずにお持ちください――』
 増水した河川には近付かないようにと注意喚起したところで、CMが挟まった。
「かなり降るみたいだな」
「みたいだねぇ。今日の夕飯は麻婆豆腐がいいなぁ」
「気が早ぇ。言う相手間違ってねぇか」
「間違ってないよ」
「お前のとこ母一人子一人なんだろ。あんまり心配かけんな」
「それは大丈夫」
「なんで」
「信用されてるから」
「諦めてるの間違いだろ」
「失礼だな。僕はできた息子だよ?」
「あー、まあ、店の手伝いしてんのは偉いよな。そういや、店の名前なんていうんだ」
「教えない。紺野さん絶対来るでしょ。言っとくけど、北原くんは口止めしてあるし、所長たちにももう一回念を押しとくから聞き出そうとしても無駄だよ」
 読まれていたか。あからさまに舌打ちをかました紺野に、近藤が「もう」とぼやいて膨れ面をした。
 近藤はこう見えて好き嫌いがないようで、出した料理は綺麗に平らげる。科捜研の個室や怠惰な姿からは想像できないくらいには、食事の作法が綺麗だ。母親に躾けられたのだろう。いっそ家事も躾けて欲しかった。
 朝食を済ませ、片付けを終えたのが七時過ぎ。血痕が付いた近藤の服はとりあえず水洗いをし、洗面器で酸素系漂白剤に浸けておいたが、果たして綺麗に取れるだろうか。
 今日は天気も悪いし乾燥機頼りだ。病院に行く前に洗濯機を回しても、帰ってくる頃にはまだ終わっていないだろう。皺にならなくていい。そんなことを考えながら、洗面所で近藤の黒いパンツを確認する。
「……落ちてる、か?」
 洗剤液はうっすらと赤く染まっていたから落ちていると思いたいが、他の洗濯物と一緒にして色移りすると困る。別洗いだな、と思ったところで脱力した。
「……なんで俺は、朝っぱらから……」
 近藤なんぞの服を洗ってやらねばならんのか。食後の洗い物の手伝いはしてくれたが、当の本人はすでにソファで一息ついているというのに。
 紺野は長く深い溜め息を吐き出して、八つ当たりよろしく適当に洗い、今度は洗濯洗剤に浸けて放置した。
 洗濯機をセットし、歯を磨いてからリビングに戻ると、近藤はテレビをつけたままでうつらうつらと舟を漕いでいた。いいご身分だこの野郎。
「おい近藤、そろそろ支度しろ。遅刻するぞ」
 苛立ちに任せて頭を叩いてやると、近藤は我に返ったようにはっと頭を上げた。
「あれ、僕寝てた?」
「いいご身分だな。自分の服くらい自分で洗え」
「落ちそう?」
「さあな。落ちなかったら捨てる」
「んー、まあしょうがないよねぇ」
 近藤はあくびをしながら洗面所へ向かった。
 その間に紺野は寝室のクローゼットを開けて、引き出し式の衣装ケースから近藤の服を一式取り出す。パジャマ代わりのスウェットから私服、下着、靴下まで揃っているため、一段丸々近藤の私物が占領しているのだ。その上、洗面台の下には使い捨ての歯ブラシとひげそりが常備してある。本当になんでこんなことに。つい仏心を出してしまったあの瞬間に戻りたい。二度目の溜め息をついて腰を上げ、ソファに置いてやる。くしゃくしゃのタオルケットを畳んでひとまず背もたれにかけた。
 やれやれと、自分へか近藤へか分からない辟易をして、紺野は寝室へ戻った。サマージャケットをパソコンデスクの椅子に引っ掛けて、携帯や財布、お守り、メモ帳と一緒にまとめて置いている腕時計を着ける。
「紺野さん、僕の服……あ、もう用意してある。さすがー」
 近藤の称賛は明と同じくらい有難みがない。不意に、Tシャツを脱いだ近藤がこちらを振り向いた。
「……何だよ」
 近藤はゆっくりと首を横に倒した。
「紺野さんってさぁ、なんで男なの?」
 突拍子もない発言に、思考とジャケットを取る手が止まった。
「は……?」
 間抜けな声を漏らすと、近藤はだってさぁと続けながらスウェットを脱ぎ、下着一枚で言った。
「気が利くし家事できるし、女の子だったら絶対お嫁にもらうのに。もったいない」
 盛大な溜め息をついて着替えを始めた近藤に、紺野はこめかみに青筋を浮かべた。こいつは朝から人に洗濯させた上に性別を否定した挙げ句、何を言ってくれているのだろう。
「あー、でも口悪いし乱暴だからなぁ。女の子だったらちょっと違ったのかな?」
そんなことを言いながら背中を向け、パンツを履く近藤の背後にずかずかと歩み寄る。そしておもむろに右手を上げ、力任せに振り抜いた。パァン! と乾いた甲高い音が部屋に響き渡る。
「いった……ッ!」
 近藤が弾かれたように背筋を伸ばして振り返った。
「何する……っ」
「人の性別否定すんな! もし俺が女でもお前みたいな旦那はごめんだボケ!」
「だからって全力で叩くことないでしょ! あーもー、ひりひりする」
 腕を背中に捻り上げて首を回すが、さすがに見えないだろう。真っ赤な手形がはっきりと付いている。
「自業自得だ」
「あ、ねぇ、左近って言ったっけ。賀茂宗一郎と連絡取れるんだよね。呼んでよ」
「この程度で呼んだら今度こそ殺されるぞ」
「えー、痣になったらどうしてくれるの」
「なるか! どんだけ肌弱いんだお前。いいからさっさと着替えろ、ほんとに遅刻するぞ」
 凶暴すぎる、とぼやきながら着替えを再開する近藤を睨みつけ、紺野は踵を返して寝室へ戻る。と、デスクの上の携帯が着信を知らせた。
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