第16話

文字数 2,222文字

 あの日から変わったことは二つ。
 一つは、生徒手帳に霊符と明の名刺を一緒に入れて肌身離さず持ち歩くようになったこと。学校はもちろん、家にいる時はズボンのポケットに入れて、寝る時は枕元に置いた。時々出しては眺めていたせいか、携帯の番号は暗記してしまった。
 そしてもう一つは、母だ。彼氏ができたこともあって自分にほぼ無関心だった母は、それでもやはり些細なことや、仕事で嫌なことがあれば八つ当たりで怒鳴り散らす。いい加減一円でも稼いできなさいよ、と言って。けれど、手を上げることはなくなった。怪訝そうな、気味の悪そうな顔をして手を引っ込めるのだ。おそらくこれが、霊符の効果なのだろう。明は気付いていたのかもしれない。母親から暴力を受けていることを。
 それ以外は、あの出来事は夢だったのではないかと思うほど、何も変わらない日常が過ぎていった。
 長年植え付けられた母への恐怖からやめると言い出せず、あれから何度か三宮に行った。けれど、こちらもまた霊符の効果なのか、声をかけようとする男はいるが、何故か途中で踵を返してしまう。修学旅行の費用も貯めなければならない。霊符を置いてこようと何度も思ったが、想像するとどうにも落ち着かなくて――いや、本意ではないからだろう。声をかけてくる人がいない、あるいは声をかけようとすると逃げられると母への言い訳が立つ。そうしたいがために、霊符が手放せないのだ。
 霊符と名刺を眺めるたびに、心は揺れた。
 もう一度会いたい、ここから逃げ出したい、自由になりたい。そう思う反面、彼に迷惑をかけたくないと強く思う。
 なかなか答えが出せないまま、覚悟ができないまま、時間は過ぎてゆく。期末テストに終業式、クリスマス、年末年始。三学期が始まり、極寒の季節の中で学年末テストを突破し、中学二年という学年が終わった。

 それは、春休みに入った矢先のことだった。
 その日は母の仕事が休みで、しかし彼氏とデートなのだろう。六時頃にいそいそと出掛けて行った。宿題は昼間に終わらせているので家事と夕飯を済ませ、テレビの番組表をチェックした。特に興味のある番組がなかったので、図書室で借りてきた本を部屋でめくっていた。
 母がいない時は、居間と部屋の間の襖は開けっ放しにしている。静かな空間に届くのは、微かな車の走行音と、紙をめくる乾いた音。
 きりのいいところで目覚まし時計を確認すると、午後十時近かった。デートの日は、大体日が変わってから帰ってくる。そろそろお風呂に入って寝なければと、そう思って本を閉じ、椅子から立ち上がった時だった。母が帰ってきた。
 ガチャガチャと乱暴に鍵を開ける音。この開け方は、機嫌が悪い。反射的に、机の上に置いていた生徒手帳を掴んだ。大丈夫、霊符があるから大丈夫と自分に言い聞かせ、胸元でぎゅっと握りしめる。
 ガタガタと何か物音がする。すぐに居間の襖が開き、母の姿が見えた。とたん、ぐっと息が詰まった。部屋に足を踏み入れた母の体を取り巻いているのは、大きな黒い影。墨のように濃く、母の倍はあろうか。ゆらゆらと煙のように揺れている。鋭い眼光でこちらを睨みつけ、左手に鞄をぶら提げ、右手には――包丁。
 こんなこと何度もあったけれど、包丁を持ち出すなんて一度もなかったのに。母に、何があった。
 生徒手帳を握り締めた手が、小刻みに震えた。顔を強張らせて息を詰め、足を一歩後ろへ引く。とん、と腰に机の端が当たった。正面には母、後ろは机。逃げ場がない。心臓が今にも爆発しそうなほど脈打って、全身から汗が噴き出した。
 何があったのか知らないけれど、このままではきっと殺される。どうすればいい。どうやって逃げる。頭が混乱して考えがまとまらない。
 おもむろに、母が鞄を振り上げた。反射的に腕を交差させて顔を庇い、体を竦める。バンッ、と鈍い音を立てて鞄が腕に当たり、床に落ちた。
 心臓のどくどくとした音が耳元で鳴り、息苦しさで呼吸が荒くなる。美琴は硬くつぶった目を開き、足元に転がった鞄を見下ろした。
 鞄。そうだ携帯。いや、ロックがかかっていたら使えない。そもそもこの状況で使わせてもらえるはずがない。何でもいい、とにかく逃げる方法を考えなければ。
「やっぱり」
 不意に、母がぽつりと呟いた。
「やっぱり、子供なんて産むんじゃなかった」
 美琴は浅く呼吸を繰り返しながら、恐る恐る顔を上げた。先程までの鋭い眼光はナリを潜め、まるで別人のように虚ろな目をした母が力なく佇んでいる。
「子供がいるって言ったとたん別れようなんて、酷いと思わない?」
 子供がいることを隠してつき合い、いざ打ち明けたら別れ話をされたのか。同意を求めるように首を傾げた母は不気味で、美琴はごくりと喉を鳴らした。いつもとは違う、落ち着いた声色と口調が恐怖を煽る。
「子供なんてろくなもんじゃないわ。お金や手間ばっかりかかって、何の役にも立ちやしない。だってそうでしょう? あの人を繋ぎ止めておけなかったんだもの。ほんと、あんたって役立たずね」
 あの人、繋ぎ止める。誰の――父か。
 混乱と恐怖で口がきけない美琴を見据え、母は両手で包丁を握り締め、突き出した。
「死んでよ」
 ぞわっと足元から悪寒が這い上がった。大きく見開かれた目は黒く淀んでいて、まるで底のない穴のようだ。
「あんたがいなくなれば、あたしはきっと幸せになれる」
 母が足を一歩踏み出し、呼応したように黒い影がわずかに膨らんだ。
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