第6話

文字数 4,645文字

 午後十時半。
 下平は、西木屋町のクラブに足を運んだ。
 「クラブ・グランツ」はアヴァロンから徒歩十分ほどの場所にあり、二年早く店舗を構えている。それまで順調に伸びていた客足は、アヴァロンが開店してから二分した上に引けを取り続けている。
 どうやら今日も客足は芳しくないらしい。開店して三十分しか経っていないというのに、入り口の脇で制服を着た男性スタッフが一人、暢気に煙草をふかしていた。
「ノブ」
 名前を呼ぶと、彼は煙を吐き出しながら振り向き、ひらりと手を上げた。
「お疲れっす。パトロールっすか」
「まあな」
 ノブとは勤務当時から八年来の顔馴染みだ。何度か客同士のいざこざを収めたこともあり、信頼を得ている。
「こんなことしてていいのか」
 下平はノブの隣に並んで壁に背を預けた。スラックスの尻ポケットから煙草を取り出し、火を点ける。
「いいんすよ。客少ねぇすから」
「そんなので大丈夫なのか?」
「上からはケツ叩かれてんすけどねぇ、どうしようもないっすよ」
 諦めとも開き直りとも取れる台詞を、煙と溜め息と共に吐き出した。店の経営に口を出せる立場ではない。ふーん、と相槌を打ち、下平はそういやと思い出したフリをして本題に入った。
「お前、アヴァロンの噂聞いてるか」
「あー、あれすか。樹の」
 噂と言えば、といった感じの反応だった。相当話題になっているようだ。
「あいつ、帰ってきたんすか?」
「いや」
 ノブが怪訝そうに眉を寄せた。
「帰ってきてないのに、何であんな噂が立ってんすか。別人?」
「さあな。俺にもよく分からん」
 溜め息交じりに答えると、ノブは眉間に皺を寄せたまま、変なの、と言って煙草に口を付けた。
 アヴァロンは、冬馬(とうま)が店を任せられるまでグランツより少し多いくらいの客足だった。だが、経営の才があったのか、冬馬が店を任せられるようになってから客足は飛躍的に伸びた。しかし、いつ頃からか冬馬に関する物騒な噂が流れ始め、若干客足は遠退いた。とは言え、客も馬鹿ではない。あまりにも次々と噂が出てくるため、胡散臭さの方が先に立ち始め、次第に「またか」と言った雰囲気になってきた頃には客足も戻り、固定客を十分抱えていた。
 アヴァロンが開店してから客を取られ、冬馬が店を任されてからも客を取られ、グランツは踏んだり蹴ったりだ。
 ゆえに、アヴァロンの弱みを知っていればすんなり話すのではないかと打算した。
「あの噂について、何か知らねぇか」
「何かって、あれ冬馬たちが集客狙いで流してんでしょ? 本人に直接聞けばいいじゃないすか」
「それが、どうやら違うらしい。あいつらも困ってるって話だ」
「ふーん……」
 前を向き直り、紫煙を吐き出しながら打った相槌は何やら含みがある。下平は怪訝そうに横目で見やった。
「何か言いたげだな」
「あー、いやぁ、まあ……」
「何だ、何か知ってるのか」
 知ってるって言うか、と口ごもりつつ、持っていた携帯灰皿に灰を落とす。
「あの噂を聞いた時、ちょっと変だなーって思ったんすよ」
「変? どこがだ?」
 内容についてだろうか。ノブはふてくされた顔で口を尖らせた。
「別に褒めるわけじゃないんすけどね、冬馬って、まあ色々噂はありますけど、店のことに関しては真っ向勝負ってタイプだと思うんすよ。集客にしても何にしても、サクラ使って良い評判流すとか金にもの言わすとか、それこそ今回みたいな噂とか、汚い手ぇ使ってるって話、今まで一回も聞いたことないんすよね。イベントとかサービスとかメニューとか一から見直して、スタッフの教育も徹底したって聞いてます。だから噂を聞いた時、変だなって思ったんすよ。別に褒めてないすよ」
 往生際悪く最後に付け加え、ノブは深く煙を吸って勢いよく吐き出した。
 今回のような噂は聞いたことがない、とはっきり言った。八年間グランツに勤め、アヴァロンの動向や噂に敏いであろう彼が知らないと断言するのなら、間違いはない。
 つまり、樹が除霊師を名乗っていたのではないか、という紺野たちの推理が間違っていたことになる。いや、内々で遊び半分にやっていた可能性もまだ捨て切れない。だとしたら自分の耳に入って来なかったのも、ノブが知らなかったのも納得がいく。
 「高額の依頼料」がどこから出てきたのかはともかく、商売ではなく遊びだとしたら、知っていた人間はかなり絞られる。可能性が高いのは、やはり冬馬をはじめとした取り巻き連中。だが、もう顔も覚えていない奴らの方が多過ぎる。そこから探るのは無理か。
「お前、やけに内情に詳しいな」
「だってほら、あいつ普通のスタッフからいきなり店長に抜擢されたじゃないすか。あいつより長く働いてたスタッフも多かったのに。反発して辞めた奴、結構いたんすよ。そいつらの何人か、うちに来て散々愚痴ってましたからねぇ。オーナーのお気に入りだからって付け上がりやがって、とか何とか。だから、もしかしたら冬馬の噂そいつらが嫌がらせで流してんじゃねぇかって皆で言ってたんすよね。まあ、意味なかったみたいだし、うちに害はないんで放っときましたけど」
 でも姑息っすよねぇ、と呆れ顔でぼやいたノブから視線を外し、下平はゆっくりと煙を吸い込んだ。
 冬馬が店を任されたばかりの頃、がらりとスタッフの顔ぶれが変わったことは覚えている。上が変われば方針も変わる。多かれ少なかれ、反発する者が出るのも当然だ。実力ではなく年齢や勤務歴を重視する者は、いつの時代も一定数いるものだ。しかもオーナーの贔屓があったとなればなおさら。なるほど、冬馬の噂を調べても何も出てこないはずだ。本当に嫌がらせならば。
 それにしても、と下平は紫煙と共に小さく息をついた。噂はともかく、ノブの口から語られる冬馬像は、自分が知っている彼とずいぶん印象が違う。もっとしたたかで容量が良い、狸だと思っていたが。
 下平がフィルターぎりぎりまで吸い切ると、横からひょいと灰皿が出てきた。すまんな、と礼を言いながら遠慮なく吸い殻を押し込む。
「他に何か気付いたことないか」
「他にっすかぁ?」
 ノブは悩ましげにうーん、と唸りながら灰皿をスラックスにしまった。
「これと言って特にないっすねぇ。つーか、下平さん何であの噂調べてんすか。誰が流したにしろ、どうせガセでしょ? 今時除霊師って、胡散臭さ満載すよ。樹と名前が一緒っつーのはちょっと妙ですけど」
「高額の依頼料ってところがなぁ。詐欺だったらまずいだろ」
「なるほどねぇ。大変すね、刑事さんって」
「そう思うなら面倒事起こしてくれるなよ」
「あー……」
 ノブは間延びした返事をしながら渋面を浮かべた。
「何だ? 何かあったのか」
「いやぁ、面倒事っつーか、迷惑っつーか?」
「何だそりゃ」
 はっきりしないノブを横目で見やった時、店の扉が開く音と共に憤慨した女の声が飛び出してきた。
「もう何なのあいつ!」
「だからやめようって言ったのに」
 その声には聞き覚えがあった。下平は壁から背を離して振り向き、ノブは盛大に溜め息をついて肩を落とした。またか、とぼやきが聞こえた。
「おい、リンとナナじゃねぇか」
 横を通り過ぎようとした女性客の名を呼ぶと、彼女たちはむっつりとした顔で振り向いた。二人は二年ほど前からのアヴァロンの常連客で、冬馬の取り巻き二人のお気に入りだ。リンは冬馬が目当てらしいが、どうアピールしてもちっとも振り向いてくれない、と立ち寄るたびに愚痴をこぼされる。
 下平を確認するとリンの方が、あっ! と短く声を上げた。
「下平さぁん、ちょっと聞いてよぉ」
 間延びした甘えるような声を出したリンに、ナナが呆れ気味に溜め息をついた。リンは小走りに下平に寄ると表情を一変し、こともあろうか胸倉を掴んで見上げ、堰を切ったように鬱憤を吐き出した。
「もうほんと何なのあいつ! つか何様!? 触るなって言ってんのにべたべたと気持ち悪い! 服はダッサイし香水きっついし、あれでかっこいいとか思ってんの!? それに冬馬さんと比べて何百倍も不細工! ぜんっぜんタイプじゃない!」
 冬馬と比べられてはほとんどの男が完敗だろうに。どこの誰だか知らないが不憫な男だ、相手が悪い。それはそうと警察官の胸倉を掴むとはいい度胸だ。下平はうんざりした顔でさりげなくリンの手首を掴んで引き剥がした。
「何だ、セクハラか?」
「セクハラってレベルじゃないよ、痴漢だよ犯罪だよ!」
 セクハラも犯罪だが、とは突っ込まないでおいた。
「まあまあ、少し落ち着け。聞いてやるから」
 この手の話は無碍にできない。振られた腹いせから、取り返しのつかない犯罪に走る阿呆がいる。芽の小さなうちに摘み取るのも仕事のうちだ。
 両手を上下に振ってクールダウンを促すと、リンは腕を組んでふんと鼻息を荒くした。ノブが申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめんな、二人とも。常々言ってんだけどさぁ」
「聞いてるよ。あいつのせいで女の子たち他の店に流れてるんでしょ? 何で出入り許してるの?」
 どうやらその男は有名らしい。呆れ顔でリンの憤慨を眺めていたナナが、冷静にノブに尋ねた。感情的なリンと比べて、ナナは比較的冷静なタイプだ。店ではそれなりに羽目を外しているようだが。
「うーん、だってさぁ……」
 困り顔で頭を掻くノブの代わりに、少し冷静を取り戻したリンが言った。
「いくら草薙製薬の息子だからって、営業妨害でしょ、あれ。お店潰れちゃうよ?」
 下平はぎょっと目を剥いた。ここでその名を耳にするとは。
「草薙製薬って、あの草薙製薬か?」
 そう、と三人が同時に頷いた。
「いやでも、草薙の息子って、もう結構いい年いってんだろ。別におっさんがクラブに来るなとは言わんが」
「ああ、違うんすよ。えーと、今の社長の弟の息子? 面倒だから、草薙の息子って言ってるだけで」
「今の社長の弟の、息子?」
 現社長の弟、つまり次男・一之介の息子か。紺野たちの話では、一之介は賀茂家の氏子代表として会合に出席していたらしい。その息子が、アヴァロンの競合店に出入りをしている。
 これは、偶然か?
 いや、紺野たちの見立てでは、何やら土御門家を邪険にしたがっているらしいが、寮の者たちについては何も言っていなかった。考えすぎか。
「どこの息子だろうが大富豪だろうが石油王だろうがムカつくものはムカつく!」
 怒りが再発して言い放ったリンに、石油王って、とナナが失笑した。と、店の扉が開いてスタッフが顔を出した。
「ノブさーん。あ、いたいた」
「どうした?」
「すんません、ちょっと変わってもらっていいっすか。息子」
「え――……」
「お願いしますよ。俺らじゃ対応し切れないっすよ、あれ」
 渋面を浮かべたノブに、スタッフは顔の前で両手を合わせて拝んだ。しょうがねぇなぁ、と頭を掻いて店へ入って行くノブを見送る。草薙製薬などという大手企業の身内となれば、強気に出られないだろう。迷惑と言いつつも出入りを許しているわけだ。
 嫌々店に姿を消したノブをじっと見つめていたナナが、不意に下平へ視線を投げた。
「下平さん、ちょっと」
「あ?」
 シャツの袖を摘ままれ、引っ張られるがまま足を進める。どこ行くの? とリンが首を傾げながら後をついてきた。
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