第13話
文字数 1,957文字
冬馬は、全国に支部を持つ華道翠月流 ・家元の孫として生まれた。
かつて女遊びが激しかった祖父に瓜二つの冬馬の種を、父は疑った。祖父との間の子ではないのかと。親子鑑定でそれは否定されたけれど、祖父を嫌悪し、酷く苦労していた祖母を見て育った父は、冬馬が成長するにつれて遠ざけるようになった。母もまた同様、父に疑われるきっかけとなった冬馬を避け、父との関係もうわべだけのものになっていた。
しかし、名を継がせ、才能までも自分から受け継いだ冬馬を、祖父は溺愛した。祖父からの愛情を一身に受けながらも、父母や一つ下の弟、叔母二人や親族からは疎まれる日々。唯一普通に接してくれたのは、従妹の葵 だけだった。彼女がいてくれたから、何とか耐えられた。
けれど彼女は、弟の婚約者としての立場があった。
自分が原因で壊れていく家族を見ることに耐えられず、また次第に芽生えていく葵への恋心を悟られるわけにはいかなかった。
だから、逃げた。
大学進学を理由に家を出ると決めた時、弟が言った。
『逃げるのか』
と。何も言わない冬馬を、弟は蔑みの視線を投げつけて背を向けた。
大学でも家の名がまとわりつく。もう、うんざりだった。未成年では何の契約もできない。一年間、アヴァロンでバイトをして金を貯め、退学すると同時に引っ越した。誰にも、何も言わずに。
全ては、この時の間違いから始まったのだ。
逃げてアヴァロンで働かなければ、良親に会うことも、智也と圭介、そして樹とも会わなかった。そうすれば、弱味を握られることも三年前のこともなかった。
そう分かっていたのに、情けないくらい願ってしまった。
こんな自分を信じ、慕ってくれたスタッフや客、智也と圭介、リンとナナ。皆に感謝している。贅沢なくらい恵まれた環境だと思う。その気持ちに嘘はない。けれど、ふとした時によぎる。
樹がいてくれたら、と。
だから樹が生きていると、噂を流したのではないと知った時、あんな言葉が口からついて出てしまった。置き去りにした上に、今度は犯罪に巻き込もうとした。際限のない自分の弱さと身勝手さに反吐が出そうだった。
追い打ちをかけるように、良親と平良の証言。自分の犯した間違いがどれほどのものか、改めて思い知った。
あの日逃げなければ、樹のことが平良という男に伝わることもなく、良親との確執に智也と圭介、リンとナナを巻き込むこともなかった。
下平はああ言ってくれたけれど、本来向き合うべき家族から逃げた自分の弱さのせいだ。逃げてしまったから弱味ができた。それを握られたにも関わらず、臆病な自分に勝てなかった。
自分の存在が家族を壊し、弱さが皆を傷付けた。まるで、疫病神だ。
だからもう、関わってはいけないと思った。
しかし智也と圭介は、何を言っても辞めないだろう。リンとナナも、来るなと言っても聞かないだろう。だったらこれから先、残された時間だけでも全力で守るしかない。
でも樹は違う。
アヴァロンに共に来た男の腕を引いて立ち去る背中を見送りながら、樹の居場所はそこなのだと知った。
そして、最後に見せたあの笑顔。
樹は見つけたのだ。命がけで守ろうとしてくれる仲間と、笑顔でいられる居場所を。
ならば、もう関わらせてはいけない、せっかく見つけた居場所を失わせるわけにはいかない。今ここで断ち切らなければ、同じことを繰り返すかもしれない。
脳裏に、何度も何度もあの笑顔が蘇る。
同じ時間を過ごしたのは三年、樹が彼らと出会ったのはおそらく三年前。同じ三年なのに、樹は一度も笑わなかった。笑わせてやれなかった。
初めて見た樹の笑顔に驚いたと同時に、笑えるようになったのかという安心感と嬉しさと、笑わせてやれなかったという無力感と不甲斐無さが一気に込み上げた。
そして、酷く切なかった。
『絶対に、離しちゃ駄目よ』
かつてそう言ってくれた人がいた。その時は何を言っているのかと思ったけれど、いつからか分かっていた。手を離してしまえば、樹のような相手には二度と出会えないだろうと。理屈抜きで安心できる相手は、樹以外いないと。
いつも逃げてきた自分への報いは、一番失いたくない人を失ったことだった。
「――ッ」
冬馬は息を詰めて、きつく握り締めた両拳で瞼を押さえ付けた。
『ありがとう。ばいばい』
下平が言うように、足りない言葉でもこの気持ちは伝わっただろうか。その返事があの笑顔だと、信じてもいいだろうか。
堪え切れずに漏れた嗚咽が、勢いよく流れる水音に掻き消された。
もし――もし自分に、あの高さから躊躇なく飛び降りた彼のような強さがあれば、樹は今も隣にいてくれただろうか。
かつて女遊びが激しかった祖父に瓜二つの冬馬の種を、父は疑った。祖父との間の子ではないのかと。親子鑑定でそれは否定されたけれど、祖父を嫌悪し、酷く苦労していた祖母を見て育った父は、冬馬が成長するにつれて遠ざけるようになった。母もまた同様、父に疑われるきっかけとなった冬馬を避け、父との関係もうわべだけのものになっていた。
しかし、名を継がせ、才能までも自分から受け継いだ冬馬を、祖父は溺愛した。祖父からの愛情を一身に受けながらも、父母や一つ下の弟、叔母二人や親族からは疎まれる日々。唯一普通に接してくれたのは、従妹の
けれど彼女は、弟の婚約者としての立場があった。
自分が原因で壊れていく家族を見ることに耐えられず、また次第に芽生えていく葵への恋心を悟られるわけにはいかなかった。
だから、逃げた。
大学進学を理由に家を出ると決めた時、弟が言った。
『逃げるのか』
と。何も言わない冬馬を、弟は蔑みの視線を投げつけて背を向けた。
大学でも家の名がまとわりつく。もう、うんざりだった。未成年では何の契約もできない。一年間、アヴァロンでバイトをして金を貯め、退学すると同時に引っ越した。誰にも、何も言わずに。
全ては、この時の間違いから始まったのだ。
逃げてアヴァロンで働かなければ、良親に会うことも、智也と圭介、そして樹とも会わなかった。そうすれば、弱味を握られることも三年前のこともなかった。
そう分かっていたのに、情けないくらい願ってしまった。
こんな自分を信じ、慕ってくれたスタッフや客、智也と圭介、リンとナナ。皆に感謝している。贅沢なくらい恵まれた環境だと思う。その気持ちに嘘はない。けれど、ふとした時によぎる。
樹がいてくれたら、と。
だから樹が生きていると、噂を流したのではないと知った時、あんな言葉が口からついて出てしまった。置き去りにした上に、今度は犯罪に巻き込もうとした。際限のない自分の弱さと身勝手さに反吐が出そうだった。
追い打ちをかけるように、良親と平良の証言。自分の犯した間違いがどれほどのものか、改めて思い知った。
あの日逃げなければ、樹のことが平良という男に伝わることもなく、良親との確執に智也と圭介、リンとナナを巻き込むこともなかった。
下平はああ言ってくれたけれど、本来向き合うべき家族から逃げた自分の弱さのせいだ。逃げてしまったから弱味ができた。それを握られたにも関わらず、臆病な自分に勝てなかった。
自分の存在が家族を壊し、弱さが皆を傷付けた。まるで、疫病神だ。
だからもう、関わってはいけないと思った。
しかし智也と圭介は、何を言っても辞めないだろう。リンとナナも、来るなと言っても聞かないだろう。だったらこれから先、残された時間だけでも全力で守るしかない。
でも樹は違う。
アヴァロンに共に来た男の腕を引いて立ち去る背中を見送りながら、樹の居場所はそこなのだと知った。
そして、最後に見せたあの笑顔。
樹は見つけたのだ。命がけで守ろうとしてくれる仲間と、笑顔でいられる居場所を。
ならば、もう関わらせてはいけない、せっかく見つけた居場所を失わせるわけにはいかない。今ここで断ち切らなければ、同じことを繰り返すかもしれない。
脳裏に、何度も何度もあの笑顔が蘇る。
同じ時間を過ごしたのは三年、樹が彼らと出会ったのはおそらく三年前。同じ三年なのに、樹は一度も笑わなかった。笑わせてやれなかった。
初めて見た樹の笑顔に驚いたと同時に、笑えるようになったのかという安心感と嬉しさと、笑わせてやれなかったという無力感と不甲斐無さが一気に込み上げた。
そして、酷く切なかった。
『絶対に、離しちゃ駄目よ』
かつてそう言ってくれた人がいた。その時は何を言っているのかと思ったけれど、いつからか分かっていた。手を離してしまえば、樹のような相手には二度と出会えないだろうと。理屈抜きで安心できる相手は、樹以外いないと。
いつも逃げてきた自分への報いは、一番失いたくない人を失ったことだった。
「――ッ」
冬馬は息を詰めて、きつく握り締めた両拳で瞼を押さえ付けた。
『ありがとう。ばいばい』
下平が言うように、足りない言葉でもこの気持ちは伝わっただろうか。その返事があの笑顔だと、信じてもいいだろうか。
堪え切れずに漏れた嗚咽が、勢いよく流れる水音に掻き消された。
もし――もし自分に、あの高さから躊躇なく飛び降りた彼のような強さがあれば、樹は今も隣にいてくれただろうか。