第21話

文字数 4,619文字

 翌日は、三十分早く桂木家へ行った。少しでも長く、二人きりでいたかった。
 話を先に聞いても良かったのだが、一人で聞かない方がいいと判断した。昨夜のあの禍々しい気持ち。あれが、誰もが持っている負の感情。確かに煩わしいとか面倒とか思うことはあるけれど、あんなにも強く、誰かを殺してやりたいと思ったことはない。あの時視界の端に映った黒い煙は、自分の邪気だったのだろう。鈴はそれを刀で祓ったのだ。
 もし栄明たちがいなければ、あのまま生まれた邪気は恨みの相手である龍之介の元へ行って奴を食らった。それでも良かったと思わないこともないが、そう簡単に死なせてたまるかとも思う。だから、また一人で話を聞いて怒りを抑えきれなかった時のことを考えて、栄明たちの到着を待った。
 どんな手を使ってでも罪を認めさせて、償わせてやる。
 十一時を少し回った頃、鈴が姿を現し、その直後に栄明と郡司が到着した。会食相手の話が長引いたらしい。ご連絡いただければと怜司が言うと、栄明はいやいやと軽快に手を振った。
「後半はいつも飼い犬の自慢ばかりなんだから、構わないよ。それに、うちの子の方が絶対可愛い」
 張り合った。真顔で断言した栄明に怜司は、はあそうですかと適当に流す。社長のおっしゃる通りです、とおかしな忠誠心を見せる郡司に鈴と共に白けた目を向け、香穂は肩を震わせた。
 多少場が和んだところで、さて、と栄明が仕切り直す。これから聞く話の内容がすでに分かっているだけに、一様に表情が硬くなった。
 昨日と同じく、香穂、怜司、栄明が縁側に腰を下ろし、郡司と鈴は側に控えた。
 ジェスチャーと五十音表、カレンダーを使い、怜司たちの質問と補足を交え、香穂から伝えられた真実はこうだ。
 横領に気付いたのは、去年の十一月頃。
 初めはまさかと思っていたが、どう考えても不自然だったらしい。こんな時どうすればいいのかネットで調べると、法務部や人事部の相談窓口があればそこへ相談するのが一般的だと知った。しかし、決してあってはならないことだが、告発した者へ報復する企業は多かれ少なかれ存在し、希望しない異動、人間関係の悪化、果てには解雇もあり得るそうだ。しかし、そんな冷遇や不当解雇から守るための、公益通報者保護法という法律もきちんとある。とはいえ、迷った。
 調べたはいいが、実のところ絶対の自信はなかった。迷いに迷って相談したのが、十二月に入ってから。相談相手は、入社した時に教育係として世話になった花輪節子という先輩だった。仕事も丁寧で優しく、親切な人だという。
 間違いだったらとんでもないことになるからと口止めをされ、二週間ほどあとに勘違いだったと報告された。渡したファイルも処分したと。
 自信がないわりには、どう考えても不自然だったのにとも思う。けれど、あの花輪が勘違いだったというのだ。ならばそうなのだろうと、忘れることにした。
 しかし、日を追うごとに羽振りが良くなっていく彼女に、不信感を抱かずにはいられなかった。ブランドの財布に靴、洋服などの衣類、手帳や傘などの小物類、アクセサリー、高級化粧品と、ブランド好きの人ならば持っていてもおかしくない物ではあったけれど、花輪はブランドに興味を示さず、化粧ポーチ一つとっても安価な物をかなり使い込むような人だった。そんな人が、突然ブランド品を次から次へと買ったと聞けば不思議に思って当然だ。
 明らかに不自然だった。
 年を越しても羽振りの良さは相変わらずで、ますます疑心が募る。そんな中、怜司からプロポーズを受けた。幸せと喜びの中にいて、しかし花輪のことが脳裏をよぎる。
 会社のお金は、そこで働く者たちはもちろん、委託会社の警備員や清掃員らにも回り、消費者により良い商品を届けるための資金になる。それを着服するなど言語道断だ。
 もう一度帳票を調べ、それを千鶴に預けた。彼女は出版社に勤めている。いざという時は、千鶴の力を頼ろうと思っていた。けれど、それがとんでもない間違いだったと分かったのは、花輪を問い質して五日後のことだった。
 花輪は「ああ、宝くじが当たったのよ。いいでしょ。桂木さんも今度お食事行きましょうよ」と言って笑った。本当ですか、と何度も食い下がったが、花輪は至って平然と笑う。彼女の羽振りが良くなった時期と相談した時期はちょうど重なるのだ。疑うなと言う方が無理だ。しかしそれでも、これまでの信頼が疑う気持ちの邪魔をした。
 その週の平日は、悶々としながらもいつも通りに過ごした。土曜日は怜司が顧客の医師に食事に誘われており、会えなかった。昼間は本を読み、夕方に買い物に出かけた。怜司と同棲する前に、少しでも料理を覚えておきたかったのだ。しかし、帰ってからオイスターソースを買い忘れたことに気が付いた。今までほとんど使ったことがないからうっかりした。他にないかと冷蔵庫を確認し、メモを取ってもう一度スーパーに行った。その頃には、もうすっかり日が沈んで真っ暗だった。いつもなら帰宅ラッシュの時間帯だが、土曜日ということもあって、人通りは少なかった。
 自宅まであと五分ほどの距離。一人の女性が携帯のライトを頼りに道にしゃがみ込み、辺りをきょろきょろしていた。どうしたんですかと声をかけると、ピアスを落としたのだという。今にも泣きそうな顔。よほど大切な物なのだろうと思い、一緒に探すことにした。彼から誕生日にもらった大切なピアスなんですと彼女は言った。じゃあ絶対に見付けないといけませんね、などと努めて明るく答えながら探していた、その時。
 すぐ脇に、車が停車した。何だろうと顔を上げると、男が二人飛び出してきて、驚く暇もなく車に引きずり込まれた。
 騒ぐなとナイフを突き付けられて目隠しをされ、口にガムテープを貼られ、手首を拘束された。
 目隠しを解かれて見えたのは、ニヤついた顔でこちらを見下ろすピアスの女性と、四人の男。そのうちの一人に、見覚えがあった。社内を我が物顔で闊歩する姿を、何度か遠くから見たことがある。先輩から「あいつには絶対に近付いちゃ駄目よ」と忠告を受けた。――草薙龍之介。
 アパートの前で車から放り出され、しばらくその場から動けなかった。自分の身に何が起こったのか、理解できずにいた。我に返ったのは、往来に響いた人の笑い声。逃げるように部屋に駆け込んだ。
 仕事を休む間に自覚した。自分が何をされたのか、何故こんな目に遭ったのか。間違いだったと、後悔した。自分がしたことは、自分の選択は全て間違いだったのだと。
 もう、怜司と一緒になることはできない。何度も夢に描いた、純白のウェディングドレス。素知らぬふりをして、彼の隣に立つことはできない。
 絶望の中で思考は次第に衰え、悪い方へ悪い方へと向かう。
 千鶴に預けた封筒が気がかりだった。もしも何かの拍子に千鶴のことが知られたらと思うけれど、彼女は今大阪にいる。長距離移動をする覚悟ができなかった。今思えば、送り返してもらえばよかったのだ。でもあの時は、死ぬことばかりを考えていて思い至らなかった。
 結局木曜日に千鶴にメッセージを送り、翌日、決死の覚悟で実家へ向かった。アパートでとも考えたが、最後に両親の顔を見たかった。本当は怜司にも会いたかった。
 でも、会う資格がないと、そう思った。
 そこで、耐えかねたように小さく舌打ちをかましたのは鈴だ。やはり捨て置けん、と低いぼやきを聞きながら、怜司は五十音表を表示している携帯を震えるほど強く握り締めた。まだだ、まだ、証拠の話が出ていない。
 俯いて動かなくなった怜司を見つめていた香穂がゆっくりと手を伸ばし、しかし結局わずかに引いた。そのまま方向を変え、一瞬躊躇ったあと、携帯を指差した。
 落とした視界に香穂の指が映り込み、怜司はゆらりと顔を上げた。じっと携帯を指差したままの香穂を見つめる。香穂は手を引っ込め、両手の親指と人差し指でL字を作った。かぎ括弧の形に構えて目の前に掲げ、小さく左右に動かす。本来なら写真を撮る時の仕種だが、動いているということは。
 一様に息をのんだ。
「動画を……」
 呆然と呟いた栄明の言葉に郡司が目を丸くした。
「汚い真似を……!」
 忌々しげに顔を歪ませて吐き出す。一方怜司は、ゆっくりと手を下ろした香穂を愕然と見ていた。聞くまでもない。何を言われたのか。
 怜司は息を詰めて歯を食いしばり、勢いよく腰を上げて駆け出した。
「待ちなさい……!」
 つられるように栄明と香穂が立ち上がる。
「待て」
 横をすり抜ける間際、制す言葉と共に鈴に信じられない力で腕を掴まれた。ぐっと引き戻され、怜司は険しい顔で鈴をねめつけた。
「放せ!」
 振り解こうと腕を動かそうとしても、ぴくりともしない。なんて力だ。
「あの外道が持っているとは限らん。今奴を問い質し消されでもしたら、元も子もない」
 至極冷静に正論を突き付けられて、怜司は声を詰まらせた。確かに、龍之介には仲間がいる。奴らが撮って保存している可能性もある。でも。
「香穂の覚悟と願いを、無駄にする気か」
 一点の曇りもない美しい紫暗色の瞳に圧倒され、息をのんだ。
 鈴の言う通りだ。今、問い詰めるわけにはいかない。警戒され、動画を消去されると証拠がなくなる。そうすれば、辛い記憶を話してくれた香穂の覚悟は無駄になり、誰も苦しんで欲しくないという願いも、叶えてやれなくなる。
 消沈したように肩を落とした怜司を見て、鈴は様子を窺いながらゆっくりと手を離した。
「そもそも、お前は奴がどこにいるか知らんだろう」
 溜め息まじりに指摘され、怜司はやっと我に返った。さすがにこんな時間の会社にいるのは警備員くらいだ。自宅を知っているわけでもない。けれど、まともに出社して来ない龍之介といつ会えるか分からない。氏子なら、賀茂家の人間であれば自宅住所を知っているだろうが、今は問い質せない。
 時間をかけて追いつめるしか、手がない。
 怜司はゆらりと香穂へ視線を投げた。悲しげな目で、こちらを見ている。
 分かっていた。覚悟はしていた。でも、語られた真実は、あまりにも残酷だった。
 香穂の信頼を裏切った花輪。香穂の優しさと親切を利用し、その上酷く卑劣で卑怯な手を使って口止めした龍之介。しかも同じ女性が共犯だった。
 そして何より、被害に遭ったのは、土曜日。
 花輪は確実に横領に加担している。花輪から草薙に香穂のことが伝わり、さらに龍之介へと流れた。花輪を問い詰めてからの間に香穂の周辺を探り、襲う機会を窺っていたのだろう。
 あの日、もし食事の誘いを断って香穂と会っていれば、こんなことにはならなかった。
 怜司は俯いて、片方の手で前髪を鷲掴みにした。
「悪かった……、全部、俺のせいだ……っ」
 香穂の様子がおかしいことに気付いていたのに、見逃してしまった。もっと気遣ってやればよかった。無理にでも聞き出せばよかった。香穂が頼りにできる男だったらよかった。自分が不甲斐ないせいで香穂を傷付けただけでなく、あまつさえ責めた。
 ――どこまで、馬鹿なんだ。
 涙で掠れた声を絞り出したせいで、嗚咽も一緒に漏れた。切れるほどきつく唇を噛んでみても、穴の開いたバケツに注がれた水のように涙はこぼれ落ちる。もう、自分の意志では止められなかった。
 もし出会わなければ、あの時声をかけなければ、運命は変わっていただろうか。
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