第10話

文字数 3,085文字

 不意に、車のエンジン音がヘッドライトの明かりと共に背後から近付いてきた。車二台がぎりぎりすれ違えるくらいの道幅。近藤は速度を落として住宅の軒先まで避け、横目で車を確認する。軽自動車の運転席に、中年の女性が一人。速度規制があるためか、ゆっくりと通り過ぎた。念のために目で追いかける。そのまま進み、松原通りと交差するT字路でウインカーを出して一旦停止し、右折した。
 ほっとする間もなく、もう一台近付いてきた。継続して動画を撮りながら、民家の壁に沿うように進む。今度は普通自動車。セダンタイプ、速度が速い。後ろにいた男が、不意に顔を上げた。
 ――これか!
 そう思った時には遅かった。
 近藤が駆け出そうとした瞬間、すぐ横に車が滑り込んで急停止した。反射的に振り向くと、後部座席の扉が勢いよく開き、同時に顔に何かを噴き付けられた。
 驚嘆の声を上げることもできなかった。咄嗟に目をつぶり、息を止め、手で庇って顔を逸らすが、すぐに顔全体に激痛が襲った。無数の針で刺されているような痛烈な痛みに、目を開けるどころか立ってさえいられない。催涙スプレーだ。
「いっ、た……っ」
 駄目だ、痛みで頭が回らなくなる。
 近藤は顔を手で覆ったまま崩れるように地面に膝をつき、感覚だけで携帯を滑らせるように放り投げた。アスファルトの上を金属が滑り、カシャンと何かにぶつかったような音がした。
「放っとけ!」
 くぐもった男の声が聞こえ、乱暴に二の腕を掴まれて引っ張り上げられた。引き摺られるように移動し、強く頭を押さえつけられる。体が傾いて咄嗟に片手を出すと、ザラリとした感触が触れた。勢いのまま倒れ込み、しまいには足を持ち上げられて押し込まれた。
 乱暴に扉を閉めた音が間近で聞こえ、すぐに車が動いた。
 思考を手放してしまいたいところだが、そうもいかない。とにかく目だけでもどうにかしなければ。かろうじて動く頭でそう考えて歯を食いしばり、近藤は手探りで鞄を探った。車の揺れもそうだが、痛みで手が震え、涙と鼻水がとめどなく流れる。幸いにも吸い込まなかったようで喉に痛みはない。
 ペットボトルを取り出し、感覚だけで蓋を捻った。高さがないため、横向きのまま体勢が変えられない。何度も細かく瞬きを繰り返し、目の横からゆっくりと慎重に水を流す。
 三分の二ほど残っていたはずだが、こんな少しの量で痛みは収まらない。だが、何もしないよりマシだ。
 催涙スプレーに使われているガスは、CNガスとOCガスの二種類。前者は化学成分が使われ、火傷のような激痛に襲われる。酷い場合は炎症を起こす。一方で、後者の主成分はカプサイシン。トウガラシの辛味成分だ。そのため、激痛は激痛でも、刺すような痛みだ。
 この痛みなら、使われたのはOCガスの方だ。後遺症の心配はないが、対処しなければ一時間から二時間ほど続く。
 どこの誰だか知らないが、やってくれる。
「覚えてろ……っ」
 低く吐き出して、近藤は空になったペットボトルを転がしてもう一度鞄を探った。痛みは引かないが、もう対処のしようがない。しかし、涙はともかく鼻水はさすがに放置できない。目を洗っている間も、ずっと垂れ流したままなのだ。間違いなくマットは水と鼻水まみれだろうが、知ったことか。
 ポケットティッシュを引っ張り出して、優しく拭う。ここで強く拭いてしまうと、成分が皮膚に入り込んで痛みが悪化する。拭った先から垂れてくるが、ティッシュを詰めて止めるわけにもいかない。成分を出し切ってしまわなければ。
「あーもー、いったいなぁ……っ。顔中痛いし涙と鼻水まみれだし……っ」
 狭い場所は好きだが、車の揺れと痛みでイライラする。しかも暑い。近藤は曲げた足をさらに縮ませ、思い切り壁を足蹴にした。ドンッ! と鈍い音がトランク内に響く。
「う――っ」
 歯の隙間から忌々しげに唸り声を漏らし、近藤は一つ息をついた。
 思考を止めるな。意識的に脳を動かして、痛みから意識を逸らせ。
 まず、催涙スプレー。近藤が空手を嗜んでいると知った上でのことならば、実に有効的な手段だ。後部座席ではなく、トランクに乗せたことも正しい。近藤に付着した成分が気化し空気中に漂うことで、自分たちも被害を受ける危険があるからだ。それと、腕を掴んだ手はゴム手袋をはめていた。トランクに乗せることを想定した上で、成分が自分の手につかないようにしていたのだ。それを踏まえると、あのくぐもった声はマスク越しの声だ。
 痴漢や暴漢を撃退しその場からすぐに離れるのならともかく、連れ去ることが目的なら、自分にも成分が付着するというデメリットがある。犯人たちは、それをきちんと理解していた。もしかすると眼鏡もしていたかもしれない。
 そして人数は三人。尾行男と運転手、催涙スプレー男。最小限の人数。一体どこからつけられていたのか。いつもと違う帰り道だったし、母親から連絡が入ったのは偶然だ。
「てことは、あの電話を聞いてたってことに……え、本部からずっとつけられてた……?」
 近藤は納得いかないと言いたげに眉間に皺を寄せた。
 日頃の行動パターンを知っていたとすれば、どの道を通るとどこへ行くのかは予測できる。清水五条駅のコンビニはここ最近何度か通っているし、府警本部の最寄り駅の丸太町駅へ向かった時点で寄ると分かったはずだ。途中下車する可能性を考慮してあとをつけたにしろ、先回りしていたにしろ、尾行男がコンビニにいたことは間違いない。そうでないと、コンビニから自宅までの間に襲われている。大黒町通りは自宅を通り過ぎた先なのだ。
 しかし、コンビニにあんな男いただろうか。記憶にない、失態だ。
「いやでもさぁ、いちいち他の客の顔なんか見ないでしょ。じろじろ見てたらむしろ不審者だよ、気味悪いよ」
 決してアイスに夢中になったせいではない。近藤は誰に言うでもなく自分を擁護し、思考を戻す。
 何にせよ、事前に催涙スプレーを用意し、デメリットまで調べて予防したことといい、計画した奴は慎重なタイプに思える。
 こうまでして、拉致したい理由。
「知らないよ、そんなのっ」
 やけくそに吐き出した声が虚しい。
 理由なら、どうせあとで分かる。鬼代事件だろうが別件だろうが、これから行く場所に主犯がいる。あるいは今車に乗っている。目的地に到着してから、拉致した理由をしたり顔でべらべら話すのだろう。そうでないと、わざわざ拉致したりしない。ただ殺したいだけならその場で殺せばいい。他に目的があるからこんな面倒なことをする。
 問題は、いつ紺野たちが助けに来てくれるかだ。
 店に行かなければ、絶対に母が紺野へ連絡を入れる。北原襲撃事件のあと、あまりにも心配するので教えたのだ。そして、紺野なら確実に気付いてくれる。下平や陰陽師たちに連絡をし、GPSを頼りに携帯を探し当てる。撮った動画を確認して、車のナンバーからNシステムで行方を追う。おそらくこんなところだろう。陰陽師たち、特に機動力のある式神が動いてくれるかもしれないが、ナンバーが分かっても、いくら神とはいえさすがにたった一台の車を探し当てるのは困難だ。
 ただし、Nシステムでどこまで追えるか。行き先が分からないため、予測できない。最終的に殺害が目的なら、人気のない場所がお決まりだ。山の中や廃屋。街中ならともかく、山の中となると――。
 近藤はぐっと歯を噛み締め、額の傷に手を当てた。
 何とかしてくれる。できる限りの手掛かりを残した。紺野なら、必ず何とかしてくれる。
「――大丈夫」
 らしくない。呟いた声は、わずかに震えていた。
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