第20話

文字数 4,446文字

            *・・・*・・・*

『一緒に、帰ろう?』
 あの日から、桃子の泣き顔と切ない声が頭から離れない。
 余計なことしやがって。つい先ほど暗闇に飲まれた山中。切り立った崖から、雅臣は苦々しい顔で向小島を睨みつけた。
 欠けた月が雲間から放つほのかな光の中、無数の星が瞬く空を背景に、影絵のような山の稜線が描かれている。海から届くのは、岩肌にぶつかる波の音。微かな風は湿度が高く、塩を含んでいるため肌がべたついて不快だ。
 危険だと分かっていて、奴らは桃子をあの場所に連れてきた。刑事が進んであんなことをするとは思えない。おそらく、賀茂宗一郎の指示だろう。河合尊を襲えば、彼らとの間に何があったのかは当然分かる。そうなれば、桃子へも聞き込みを行うことは承知の上だった。いつか自分が犯した罪を知るだろう。
 でもそれは、今ではないのだ。
 雅臣は、向小島から自分の両手へ視線を落とした。林良親を刺した感触を、まだ覚えている。皮膚を破り、肉を突き刺す生々しい感触。自分は、人を殺めた。
 ――もう、決して戻れない。
 覚悟を逃がさないように、きつく拳を握る。
 一昨日、賀茂宗史の式神を連れて昴が戻ってきた。報告を聞き、意見が割れた。これまでの報告を参考にするなら、彼女は宗史に忠実で、決して裏切るタイプとは思えない。今すぐ処分するべきだと思った。昴と同様、今度はこちらに内通者を送り込んだのだ。宗一郎も酷く驚いていたらしいから、宗史の独断だろうと。
 彼女は、静かに語った。
『これまで、人の醜悪な姿を多く見て参りました。勝手に負の感情に囚われ、恨みを買って当然だと思える人々のなんと多いことか。そんな人々を救っても、感謝も賛辞も微々たるもの。中には、こともあろうか気持ち悪いなどと口にする者もおりました。そんな人々のために、何故お優しい主が傷付かなければならないのか。私には、耐えられません。もし貴方がたがこの世から罪人を消して下さるというのなら、私は喜んでお力をお貸しいたしましょう』
 裏切ったのではなく、主のため。
 何故そこまで慕う主を刺したのかという質問に、彼女は寂しげに笑ってこう答えた。
『嫌われた方が、楽な時もあります』
 もし宗史の命だとしても、ここまで慕う彼女が承知するだろうかと思った。だとしたら、彼女の証言は嘘ではない。しかし逆に、ここまで慕うからこそ承知するのではとも思う。
主の命か、主のためか。
 結局どちらか判然としないまま、しばらく様子見という決断が下された。処分するのは、はっきりしてからでも遅くはない。何せ賀茂家次期当主の式神だ。安易に処分するのはいささかもったいない。今頃、潜伏場所で大人しくしているだろう。
「さすがにこの距離は、(きょう)でも越えられないよね」
 不意に、昴が隣に並んだ。携帯をポケットにしまいながら向小島へと投げる眼差しは酷く冷ややかで、月光に照らされた横顔は白々としている。
 昴とは、ほとんど入れ違いだった。あの日、満流に連れられて全てを聞き、迷うことなく仲間に加わった。それからしばらくして、彼は寮へ潜入した。そのため人となりはよく知らない。けれど一年もの間、奴らの生活習慣や訓練の様子、性格や人柄、人間関係、抱えた過去、そして事件後の動向を全てこちらへ流していたことは間違いない。それに昴は、一番初めから計画に関わっている人物だ。
 雅臣は横目で昴を一瞥し、向小島へ視線を戻した。
「火神か水神がいればよかったんですけどね」
 ぽつりと本音でぼやくと、昴は短く笑った。
「そんなこと言ったら、杏が可哀想だよ。あれで色々と気にするタイプだから」
「……そうは見えませんけど」
 怪訝な顔で反論すると、昴はふふと笑って肩を竦めた。
 寡黙で滅多に表情を変えないあの式神が、誰かの言葉を気にする姿は想像できない。ましてや、主でない自分の言葉など。
 と、不意に背後で砂を擦る音がして、揃って振り向いた。木々の隙間から姿を見せたのは、大型の真っ黒な犬と満流。それと皓だ。
「お待たせしました」
 白い半袖パーカー姿の満流は両手にひと抱えほどの木箱を抱え、変化した式神の背から飛び下りた。
「お疲れ様」
 昴が労いの声をかけると、満流は溜め息をついた。
「すみません、掘り出すのに時間がかかってしまいました。僕、あんなに深く埋めましたかねぇ」
 首を傾げながら木箱を下ろし、パーカーの砂を払い落とす。
「何で私まで穴掘りしなきゃいけないのよ。おかげで服が汚れたわ」
 皓は不機嫌な顔をして、持っていた二本のスコップを放り投げるとジーンズをはたいた。金属がぶつかる音が派手に響く。
 まとめた髪やジーンズはともかく、透け感のあるトップスは、肌も下に着ているキャミソールも丸見えで、男としては目のやり場に困る。それでなくとも色気のある体つきだというのに。暑いのは分かるが、戦いの場にどうしてそんな服を選ぶのかさっぱり理解できない。
「あんたが自分から行くって言ったんでしょ。穴を掘り返すくらい簡単だったんじゃないの?」
 雅臣が視線を泳がせていると、木の幹にもたれかかっていた弥生が腰を上げ、二体の犬神を連れて歩み寄った。
 本来、犬神が術者以外の人間に懐くことはもちろん、命令を聞くことはないらしい。しかし、弥生と里緒は別だ。百歩譲って里緒は分からなくもないけれど、そんなことあるのかと真緒に尋ねると、彼女は照れ臭そうに笑ってこう言った。弥生ちゃんは特別、と。
 術者の真緒が二人には特に心を開いているため、犬神もその影響を受けているのではないか、というのは満流の見解だ。事実犬神は二人に懐いているし、三人の関係性を考えると一概に否定できない。
「そりゃあ、拳で開けてもいいなら一発よ。でも、できるだけ静かにって満流が言うんだもの。地道に掘り返したわよ。それなのにこの子、途中から見学してたのよ。どう思う?」
「杏が代わってくれると言うものですから。ねぇ」
 犬の姿のままお座りをして側に控えている杏が、一度尻尾を振った。私の方が、早い。頭の中に、直接杏の声が届く。確かに、式神の腕力なら地面を掘り返すのはプリンをすくうのと同じくらい容易いだろう。
「それにほら、近くに民家があるので、あまり派手にすると驚かせてしまうじゃないですか。大体、皓の力だと箱ごと粉砕してしまいますよ」
「失礼ね。加減くらいするわよ」
 皓が両手を腰に当ててぷくっと頬を膨らませた。
「それで?」
 このまま放っておけば話しがどんどんずれるのはいつものことだ。昴もくすくす笑うだけで止める気配がない。雅臣が溜め息まじりに軌道修正すると、一斉に木箱へ視線が注がれる。無数に貼り付けられている霊符も土まみれだ。
「もう動いていると思うので、行きますよ」
 満流が木箱の前でしゃがみ込み、一枚一枚霊符を剥がしていく。
 向島には、西福寺という無人の寺がある。そこから東へ入った雑木林の中に、「海賊の墓」と呼ばれる三基の墓石がひっそりと建っている。
 今から四百年ほど前、たびたび島に襲来し島民を困らせていた海賊を、御園生義信という武士が策を練り討伐に成功した。しかしその後、疫病が流行り、海賊の祟りだと恐れられたため、遺体を埋葬した場所に祠を建てて霊を鎮めたらしい。
 つまり、木箱には四百年ぶりに目覚めた彼らの霊が封印されているのだ。それを行ったのは言わずもがな千代であり、刀倉家が無人となった刀倉影正の死後に密かに実行された。
 わざわざその日を選んだ理由は、大河の父親だ。残念ながら彼の情報は得られず、実力がどの程度か分からなかった。しかし彼も刀倉家の人間であり、疫病を流行らせるほどの怨念を抱く霊を目覚めさせれば気付かれる恐れがあった。例え自宅から墓まで距離があったとしてもだ。
「ていうか、昼間に回収済みなんてことないでしょうね」
 弥生が眉をひそめると、満流の手が止まった。
「確率としては低いと思っているんですが……。もしそうだったら、どうしましょう?」
 至極大真面目な顔をして見上げた満流に、弥生は盛大な溜め息をつく。
「どうもこうも、刀倉家に乗り込むしかないでしょ。そもそもあんたが夜に動くって言ったんじゃない」
「うーん、そうなんですけどねぇ。ちょっと自信が無くなってきました」
「不安になること言わないでよっ」
 弥生が噛み付くと、満流は「あはは」と笑った。
「大丈夫ですよ。――彼らは、とても優しいですから」
ともすれば嫌味にも聞こえるその言葉は、おそらく本心だ。まったく、とぼやいてしゃがみ込み、霊符を剥がす弥生に倣って雅臣も膝を折った。霊符を剥がすごとに、急かすようにカタカタと木箱が揺れる。
 影綱の独鈷杵は、刀倉家にあれば京都へ戻ってくる前に大河へ渡されている。けれど大河は所持していなかった。ということは、刀倉家ではない、島のどこかに隠されている可能性が高い。ただ、それがどこなのか、現存しているのかまでは分からなかった。しかし現存していれば必ず島へ戻ってくる。そしてそれは、内通者が判明したあと。さすがにいつかは分からなかったけれど、例の日までに回収するだろうことだけは確定していた。それが今日だ。
 独鈷杵回収という最大の目的の他に、奴らには「島民を巻き込まない」という条件がある。奴らからしてみれば、こちらがどこから見張り、どう動くのか分からないだろう。だとすれば、昼間に回収に向かって襲撃を受ければ、島民へ被害が出る可能性があると考える。こちらに読まれていることが分かっているとしても、可能性がある限り、あえて夜を選ぶ。それが満流の推測だ。正直、島民を巻き込むのはこちらも本意ではない。
 杏と鈴の一戦もあり、こちらが独鈷杵を狙うと奴らが気付かないはずがない。間違いなく争奪戦になる。この悪鬼は、そのための戦力だ。ちなみに、わざわざ埋めた理由は「どのみちここで使うので持って帰るのは面倒じゃないですか」だそうだ。
 当然、刀倉家が無人になった時に島へ入って探せばいいという意見も出たが、やみくもに探し回るのは効率が悪い。それともう一つ。満流いわく、どうしても無視できない懸念材料があるらしい。
「これで最後ですね」
 最後の一枚に、満流が手をかけた。雅臣と弥生が腰を上げて少し距離を取り、杏が犬から人型へ戻った。今にもひっくり返りそうなほど、木箱が激しく揺れる。
 ペリ、と糊が剥がれたような微かな音がしたとたん、蓋が勢いよく飛び上がり、真っ黒な塊が待ってましたと言わんばかりに噴き出してきた。カランと乾いた音を立て、蓋が地面に落ちて転がった。
 悪鬼の塊は尾を引き、周囲を観察するようにぐるぐると頭上を周回すると、やがてぴたりと止まった。
 オオオォォ、と腹に響く低い唸り声が不気味に響く。
「さてと」
 満流がゆっくり腰を上げ、向小島へ視線を投げた。
「二年ぶりの再会といきましょうか。刀倉大河くん」
 その言葉を合図に悪鬼から触手が伸び、雅臣たちの腕に絡み付いた。

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