第2話

文字数 4,334文字

 その日は、今にも雪が降ってきそうな、どんよりと分厚い雲が垂れ込めていた。
「あっ、美琴ちゃん。おかえりなさい」
 住んでいる団地は、一棟ごとにA、B、Cと入口が分かれており、美琴の自宅はBだ。Aの入り口にさしかかった時、突然上から声をかけられた。白い息を吐きながら見上げると、Aの四階に住む浜中家の母親――確か、祖母が弓恵(ゆみえ)さんと呼んでいた――が窓から顔を出していた。ぺこりと会釈した美琴に、彼女はさらに身を乗り出した。
「ちょうどよかったわ。ちょっと待ってて、すぐ行くから」
「え?」
 言うや否や、弓恵はぴしゃんと窓を閉めた。
 浜中家は、両親と兄妹の四人家族。弓恵は祖母と仲が良かったが、あまり話したことはない。高校三年生の息子・恭哉(きょうや)と一年生の娘・瑠香(るか)とは、一緒に登校したり、棟の前にある公園で一緒に遊んだりした仲だ。二人が小学校を卒業してからは部活などで時間がすれ違い、ほとんど顔を合わせていない。祖母の葬儀の時、久しぶりに会った以来だ。
 何だろうと小首を傾げていると、階段を降りる慌ただしい足音が聞こえ、弓恵が小走りに駆け寄ってきた。ジーンズに長袖Tシャツ、薄手のダウンというラフな格好だ。
「ごめんね、寒いのに待たせちゃって。美琴ちゃん、来年中学よね」
「え? あ、はい……」
 何の前置きもない質問に戸惑いながら頷くと、弓恵はぽんと手を叩いた。
「よかったら、うちの子の制服もらってくれないかしら」
「え……?」
「ほら、制服って高いじゃない? うちの子、いっつもジャージ着てたから大して傷んでないし、捨てるのもったいなくて取ってあるのよ。あ、もちろん美琴ちゃんが嫌じゃなければだけど」
 どうかしら、と小首を傾げられ、美琴は視線を泳がせた。制服代が浮けば、母は喜んでくれるかもしれない。しかし、勝手にもらって何か言われないだろうか。その時の機嫌で良し悪しを決める人だから、喜ぶのか、勝手なことをしてと怒るのか、分からない。
 一度母に聞いてから、と口を開くより先に、弓恵が言った。
「とりあえず一度見てみない? ね、そうしましょう」
「え、あ……っ」
 美琴の返事を待たずに、弓恵は腕を掴んでぐいぐいと引っ張った。今日は一段と寒いわねぇ早く春にならないかしら、と独り言のように呟いて階段を上る弓恵の背中を追いかけながら、母の顔が脳裏に浮かんだ。制服を見るだけ、少しだけなら。
「はいどうぞー」
 軽い口調で開けられた扉の向こうでは、靴箱に置かれた消臭剤からフローラルの香りが漂い、可愛らしいキャラクターのキーホルダーが付いた鍵が二本、家族分の傘とスニーカーが一足、土間に出ていた。
 棟は一つだが、A、B、Cでそれぞれ床面積が異なり、当然家賃も変わる。Aは一番広く、3LDK 。廊下に沿って水回りと洋室が二部屋、奥にダイニングキッチンとリビング、隣に和室が一部屋だ。
「お邪魔します……」
 靴をきちんと揃えて脱ぎ、おずおずと上がると、廊下の左側の扉が開いた。
「美琴ちゃん久しぶりー。いらっしゃーい」
 間延びした挨拶と共に笑顔を覗かせたのは、瑠香だ。ショートヘアに前髪をクリップで止め、ジャージ姿。はつらつとした表情は昔のままだが、記憶の中の彼女より大人びて、かなり身長が伸びている。
「お、お邪魔します」
「どうぞどうぞ。美琴ちゃん大人っぽくなったねぇ。ランドセルなかったら中学生に見える」
「瑠香、あんたテスト勉強中でしょ」
「いいじゃない、せっかく美琴ちゃんが来てくれたんだし。休憩休憩。ほら美琴ちゃん、入って入って」
 廊下を進みながら手招きされ、美琴はちょこちょこと追いかけた。
「はいどうぞー」
 やっぱり親子だ。同じ調子でリビングの扉が開けられ、広がった光景に思わず足が止まった。
 ダイニングテーブルと椅子、ソファやこたつ、テレビに冷蔵庫、食器棚、レンジ台。ごくごく普通の一般家庭にある家具に、椅子にひっかけられたエプロンや男物の半纏(はんてん)。新聞や雑誌、リモコンにティッシュ、かごに盛られたみかんがテーブルの上に置かれ、コロコロと人数分のクッションがソファや床に転がっている。キッチンには調理道具や調味料がずらりと並び、シンクにグラスとマグカップが放置されたままだ。
 部屋自体がさして広くないので多少物が多く雑多な感じはするけれど、足が止まったのはそこではない。
 祖母が亡くなってから感じることのなかった、部屋を包む生活感。少し散らかったこたつの上も、中途半端に盛られたみかんも、転がったクッションも、放置されたグラスとマグカップも。全て、そこに人がいて、生活している証拠だ。
 人の気配と温もりに包まれた、温かい部屋。外は分厚い雲がかかって薄暗く、気温は五度もない。それなのに部屋の中がやけに温かく明るく感じるのは、決してエアコンや照明のせいではない。
 日当たりが悪いわけではないのに、どことなく薄暗く、肌寒ささえ感じる陰鬱とした自分の家とは違う。
「ごめんなさいね、散らかってて。遠慮しないで入って」
「あ、はい」
 後ろから弓恵に促され、美琴は我に返って足を踏み入れた。
「その辺適当に座ってね。制服持ってくるわ」
「寒かったでしょ。美琴ちゃん、ココアでいい? 甘いの大丈夫?」
「あ、お、おかまいなく」
「あっはっは!」
 テンポの速い会話に気圧され、ついて出た遠慮の言葉に、二人は弾かれたように笑い声を上げた。
「やだ美琴ちゃん、そんな他人行儀なこと言わないでよー」
「そうよぉ。でも大事なことね、えらいわ。あんたも見習いなさい」
「うるさいなぁ。分かってるよ」
 リビングダイニングの隣の和室は、夫婦の寝室になっているのだろう。弓恵が襖を開けながら小言を飛ばし、瑠香が唇を尖らせて湯沸かし器を持ち上げる。
「えーと、どこにしまったかしら」
「カップはどれがいいかなー」
 弓恵と瑠香の独り言を聞きながら、美琴は小さな動作でランドセルを下ろし、マフラーとコートを脱いでソファに浅く腰を下ろした。手持ち無沙汰もあって、少々居心地が悪い。だからといってじろじろ部屋を見るのも失礼だし。と思ってみかんに目を落とすと、玄関の扉が開く音がした。ただいまーと入ってきた男の声は、息子の恭哉だ。
 クリーニング済みの制服を抱えた弓恵と、ココアの袋を持った瑠香がリビングの扉の方を振り向いた。
「あら、もう帰ってきたわ。友達と図書館で勉強するって言ってたのに」
「友達ってシンちゃんたちでしょ? どうせはかどらなかったんだよ」
 リビングの扉が開き、不思議そうな顔をした恭哉が入ってきた。こちらも記憶の中の彼よりずいぶんと大人びて、というよりまるで別人だ。子供の頃は大人しそうな外見をしていたのに、今は背も高く、垢抜けて爽やかになっている。美琴を見つけるなり、ああ、と口の中で呟いた。低い声。すっかり男の人の声だ。
「美琴ちゃんか。小さい靴があったから、誰のかと思った。いらっしゃい」
「お邪魔してます」
 緊張気味にぺこりと会釈すると、恭哉は鞄を椅子に下ろしながら「ははっ」と笑った。
「昔からしっかりしてたけど、ますますしっかりしたな。瑠香、お前見習った方がいいんじゃないか。あ、ついでにコーヒー淹れてよ」
「嫌味を言う人には淹れてあげませーん。自分で淹れてくださーい。あたしは美琴ちゃんに美味しいココアを淹れてるんでーす」
「いちいち語尾伸ばすな、腹立つ。ほんと可愛げのない妹だな」
 溜め息交じりにぼやいてコートを脱ぎ、椅子の背もたれにひっかける。
「可愛げなくて悪ぅございました。お兄じゃなくて美琴ちゃんみたいな可愛い妹がよかった」
「俺だって運動しか取り柄のない脳みそ筋肉のお前より美琴ちゃんみたいな小さくて可愛い妹がよかったわ」
「誰が脳みそ筋肉馬鹿よ!」
「いやそこまで言ってないだろ」
「さっさと手洗いとうがいしてきなよ。美琴ちゃんに風邪菌移ったらどうすんの」
 瑠香はしかめ面でしっしっと虫を追い払うような仕草をし、恭哉は「ああそうだった」と鞄とコートを抱え、慌ててリビングを出た。
 何というかこう、怒涛のような悪態のつき合いをしたのに、あっさり終了するのはどういうことなのか。昔はもっと仲が良かったと記憶しているが、兄妹とはこういうものなのだろうか。呆気に取られてぽかんと二人を眺める美琴の側で、弓恵が溜め息をついた。
「もう、寄ると触るとこれなのよ。いつものことだから気にしないでね。ほらこれ、見てみて」
 そう言って差し出された制服一式は、何故か二セット。弓恵いわく、入学時に大きめのサイズを買ったのだが、予想以上に成長したため作り直したらしい。今や瑠香の身長は百六十八センチ。しかもまだ伸びているそうだ。あまり傷んでいないのは、ジャージで過ごすことが多かった上に、着用期間が短かったためらしい。
「身長ばっかり伸びて、成績は一向に伸びないよな」
 と、部屋着に着替えて戻ってきた恭哉が茶々を入れ、兄妹喧嘩が再び勃発。もう日常茶飯事らしい。ぎゃんぎゃんと喚く二人を放置した弓恵に薦められて試着した制服は、確かに少し大きかった。
「大丈夫よ。美琴ちゃんも今から大きくなるから」
 さすがに瑠香ほど大きくはならないだろうが、弓恵にそう言われ、さらに瑠香に着られなくなった服ももらってくれと言われ、母に聞いてからと断りを入れた上で貰い受けることにした。
 そろそろ帰らなければと時計を見やると、弓恵が言った。
「美琴ちゃん、今日はお母さんお仕事?」
「え? あ、はい」
「じゃあ、うちでご飯食べていかない? 今日ねぇ、飲み会でご飯いらないってお父さんに言われてたの忘れて、たくさんカレー作っちゃったのよ。余るともったいないし、食べてくれると助かるんだけど、どうかしら」
 そう言われても、制服や服をもらった上にご飯まで。さすがにそれはと断ろうとしたが、恭哉と瑠香に賛成され、結局こちらも母に聞いて決めることにした。母の許可が下りた場合、七時にまたお邪魔することにして浜中家をあとにした。
 自宅に戻ると母はまだ起きておらず、宿題をしていると起きてきた。制服と服、夕食の件を伝えると、母は何故か一瞬不快げに顔を歪めたが、
「まあ、お金が浮くからもらえる物はもらっておきなさい。夕飯も構わないわ」
 そう言い残して家を出た。
 母を送り出して、急いで掃除と洗濯を済ませ、午後七時に浜中家を訪ねた。
 温かい食事も有り難かったけれど、何よりも弓恵たちとの賑やかな食事や、ファッションショーさながらの試着はとても楽しかった。これまで胸の中に溜め込んだ鬱屈とした気持ちが、綺麗に晴れていく気がした。
 兄妹がいたらこんな感じなのかなと、二人と兄妹だったらと、そんな叶わぬ願いが、何度も脳裏を掠めた。
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