第10話

文字数 4,110文字

 同日午後十時半。
「もう、ほんと勘弁してよ。こんな時に携帯忘れるなんて。何で早く言わないの?」
「ごめんってー。鞄のどっかに入ってると思ったんだもん」
「先輩、急ぎましょう。あと三十分しかないですよ」
 定時退社したはずの音羽(おとは)は、再び会社へ急いでいた。
 勤務終了後、真奈美(まなみ)京香(きょうか)と共に夕飯を楽しみ、さてそろそろ帰ろうかとそれぞれが財布を出した時、京香が携帯がないと騒ぎだした。鞄をひっくり返してもどこにも見当たらず、会社に忘れてきたことを思い出したところまではよかったのだが、絶対に一人で戻りたくないと言い張った京香に根負けし、三人で取りに戻ってきたのだ。
 明日も仕事だしいいじゃない、と真奈美が説得したが、一人暮らしの京香は携帯を目覚まし代わりにしているため、そうもいかないらしい。
「ほんとに出たら京香のせいだからね」
「ごめんなさーい」
 いつもなら「仕方ないわね」で済ませる真奈美も、今日ばかりは不満たらたらである。それもこれも、ここ一カ月の間に広がった幽霊話が原因だ。
 三人は夜間通用口へと回り、時間外受付とプレートが貼られた小窓を叩いた。警備の制服を着た初老の男が顔を覗かせ、窓を開けた。
 真奈美が社員証を提示しながら言った。
「すみません、携帯を忘れてしまって」
「ああはい。どこの部署の人?」
「コールセンター室です」
「え……」
 男が社員証から顔を上げた。言いたいことは分かる。
「速攻取って速攻戻ってきますから。まだ時間あるし」
「目覚ましの代わりにしてるからどうしても必要なんです、お願いしますぅ」
 京香がまくしたてるように訴え、さらに目の前で両手を合わせて拝んだ。警備の男は、後ろの壁の時計を振り向き低く唸った。
「まあ、あと三十分くらいあるしなぁ。コールセンターの人なら例の噂知ってるよね。すぐに戻っておいでよ? いいね?」
 真剣な顔で念を押され、三人は神妙な表情で頷いた。鍵開けるからちょっと待ってて、と言って男は窓を閉め、一旦引っ込んだ。
「京香先輩、机のどこに置いてたんですか?」
「えーとね、確か……キーボードの横……いや、引き出しの中だったかなぁ」
「あんたねぇ」
「だって急いでたんだもん」
「いつもデスク整理しろって言ってるでしょ?」
「苦手なんだもん、整理整頓」
 子供のようにぷくっと頬を膨らませた京香に音羽は苦笑いを浮かべ、真奈美は大きな溜め息をついた。扉が開き、ぞろぞろと入る。
 薄暗い廊下を歩き、エントランスホールに出る。非常灯と、ガラス張りになっている壁面から差し込む屋上に設置されてあるライトの明りや歩道の外灯でそこそこ明るいが、空調が切られていて蒸し暑い。ホールのど真ん中、正面入口の真正面に受付カウンターがあり、二基のエレベーターはその後ろにある。昼間は大勢の社員や訪問者が行き交い賑やかなホールも、この時間ではさすがに静まり返っており、三人の靴音が妙に大きく反響する。
「夜の会社って、こんな感じなんだ」
 京香が真奈美の腕にしがみついて、回りをきょろきょろとせわしく見回す。
「夜に来ることないものね。うちのコールセンター二十四時間じゃないし。それにしても、暑いわねぇ」
 京香ほどではないが、手扇子で風を送る真奈美もいつもより落ち着きがない。
「あ、やだ、夜の学校思い出しちゃいました」
 音羽は震える指でエレベーターのボタンを押した。
「やめてよ音羽ぁ」
「大丈夫ですって。早く行って戻ってくればいいんですから」
 少し上ずった声で言いながらエレベーターに乗り込んだ。
「そうは言ってもさぁ……」
 怖いもんは怖い、とぼやく京香に、音羽は苦笑いを浮かべた。一見、肝試しなどの夏のイベントを率先して楽しみそうな京香も、さすがに身近な心霊現象は怖いとみえる。四階の階床ボタンを押し閉まるボタンを押す。ゆっくりと閉まる扉を見て、少しだけ安心するのは何故だろう。
「それにしてもさ……」
 ふと真奈美が声のトーンを落とした。
「あの噂、どう思う? 幽霊じゃなくて、もう一つの方」
「ちょっとやめてよ真奈美っ。今から行くのにっ」
「いやでもさ、気にならない?」
「呪いのデスクですか?」
「音羽まで……っ。あたしは聞かないからねっ」
 真っ青な顔で、それでも真奈美の腕に腕をからませたまま両耳を塞ぐ京香を見て、二人は顔を見合わせた。
「確かに怖いけど、あんたはちょっと怖がりすぎじゃないの」
「そんなことないよ普通だよっ」
「京香先輩、可愛い」
「ありがとう嬉しいっ。でも今は嬉しくないから後で褒めてっ」
 それは嬉しいのか嬉しくないのかどっちだ。音羽と真奈美が顔を見合わせてくすくすと笑いをこぼした。若干緊張がほぐれた時、エレベーターが到着した。
 無機質に扉が開いて見えたフロアは、廊下に窓がないせいで外からの明りは入らず、非常灯の仄かな明りだけに灯されて薄暗い。ますます「その手」の雰囲気を演出しているようで不気味な上に、この蒸し暑さだ。何もしていないのに、じわりと汗が滲む。
 躊躇して佇む三人を急かすように、エレベーターの扉が閉まりかけた。音羽が慌てて開くボタンを押す。
「い、行くわよ」
 ごくりと喉を鳴らし、意を決したように告げた真奈美に京香が無言で頷く。音羽は扉が閉まらないようにボタンを押したまま待ち、二人が降りた後にエレベーターを降りた。早足で二人の隣に並ぶ。
 エレベーターは廊下のちょうど真ん中にあり、コールセンター室は左手、右手は会議室と化粧室だ。
 カツンカツンとヒールの音が響く。真奈美の腕にしがみついている京香は完全にへっぴり腰だ。
 真奈美がコールセンター室の扉の前でぴたりと足を止めた。
「開けるわよ」
 宣言しないと勇気が出ないのだろう。京香と音羽が頷くと、真奈美は中を覗き見ながらゆっくりと扉を開けた。
 コールセンター室は、長方形の部屋に間仕切りされた向かい合わせのデスクが十台。それを一列とし、全部で九列が横並びに設置されている。それぞれの通路は比較的広めに取ってあるが、奥の窓際にぴったりと設置されているため廊下側の通路が一番広い。昼間はブラインドが下げてある窓も、今は全開だ。
 そのお陰で、外灯や向かいのビルの明りが入ってきて、思ったより様子が見て取れる。
 扉の隙間から覗いていた真奈美が静かに息を吐いた。
「大丈夫みたい。行こう」
 そう言って扉を開き、中へと足を踏み入れた。
 京香のデスクは一番左の列。三人が入った扉からは一番奥になる。
 しんと静まり返った室内。床は薄いグレーのタイルカーペットが敷き詰めてあり、足音が響かないようになっている。
 三人は示し合わせたように小走りにデスクに駆け寄った。京香がざっとデスクの上を見て言った。
「あれ、ない」
「ええ? ちょっとどこにやったのよ」
「引き出しかな」
 言いながら二人で引き出しを手分けして開け、確認する。引き出しの中は、文房具に紛れて何故かチョコレート菓子が混じっている。何かのラッピングだったのだろう、赤いリボンや開封されていないストラップ、未使用の割り箸まで入っていてカオスだ。
「これじゃ分かんないでしょっ」
「整理整頓のコツをぜひ」
「子供じゃないんだから、もうっ」
 ごそごそと漁りながら小声で言い合う先輩二人に苦笑いをこぼしながら、音羽は鞄から携帯を取り出した。十時四十五分。噂では、幽霊が出る時間は十一時前後らしい。前後、という辺りが曖昧だ。
 ぐるりと室内を見渡す。
 幽霊が目撃された場所、同時期に広まった呪いのデスク。両方とも彼女が関わっている。目撃された幽霊も呪いも本当に彼女なのだとしたら、理由は何なのだろう。彼女は、一体何が目的でそんなことをしているのだろう。
「あった!」
 デスクの下から思わず叫んだ京香に、真奈美が「しっ」と唇に指を立てて制す。京香が顔を出してぺたりと床にしゃがみ込んだ。その手には携帯電話が握られている。
「何でそんなところから出てくんのよっ」
「分かんないよ、そんなこと言われても」
「……ぱい」
「あんたって子はほんとに……」
「先輩」
「え?」
 強めに服を引っ張られ、真奈美は音羽を振り向いた。目を丸くしたまま引き攣った顔で、向こう側のデスクの列を凝視している。真奈美は不思議そうに首を傾げ、音羽の視線を辿った。辿って――
「っ」
 息を詰まらせた。
「何? どうし」
「しっ」
 真奈美は勢いよくしゃがみ込みながら再度京香を制した。つられて音羽も腰を落とす。
 三人はデスクの陰で車座になり、こそこそと打ち合わせた。
「出た」
「出たって……え……まさかっ」
「しっ! 静かに」
「だって、でもどうするのっ」
「どうって、このまま待つしかないでしょっ」
「あたしたちが戻らなかったら、警備の人が来てくれるかもしれません」
「そう、そうよね。待ちましょう」
 真奈美の最終決断に頷き、そこで会話は止まった。
 わずかな身じろぎさえ許されない緊張感の中、息の仕方さえ忘れてしまう。息苦しい。蒸し暑さで汗が止まらない。耳が痛くなるような静けさで、自分の心臓が早鐘を打っているのが分かる。この音で見つかってしまうのではと思うほどだ。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。ほんの二、三分だったのかもしれないが、もっと長い時間こうしているようにも感じた、その時。
 京香が握り締めている携帯がけたたましく鳴り響いた。
「ッ!!」
 三人とも声が出ないほどびくりと大仰に体を震わせた。
「先輩!」
「切って切って早く!」
「待って待って!」
 驚きと焦りでノート型のケースすら上手く開けない。タイミングが悪過ぎる着信音は鳴り続け、やっとのことで切るとほっと息をついた。だが、ふっと頭上を覆った影に気付いて三人同時に見上げ、
「きゃあああ――――――ッ!!」
 甲高い悲鳴を上げた。
 音羽は、くり抜かれたような真っ黒な目と、視線が合った気がした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み