第18話

文字数 5,280文字

「俺……」
 視線を落としてぽつりと口を開いた大河に、茂が笑みを収めた。
「じいちゃんが死ななきゃいけなかった理由が知りたくて、戻ってきたんです。ただそれだけだったんです。もちろん、危険なことは覚悟してたし、隗を許せないって気持ちもありました。けど……、それから先のことを考えてなかったんです。対峙した時どう思うかとか、理由を知ってどうするかとか。無意識に考えないようにしてたような気もします。俺は……」
 大河は両手を組んで握った。
「本当の覚悟を、していなかった」
 だから健人の話を聞いた時も今も、こうして自分の気持ちに動揺しているのだ。
「考えが、甘かった……」
 陰陽師の家系で、影綱の霊力を受け継ぎ、略式とはいえ独学で術を行使できた。そんな現実に、酔っていたのかもしれない。
 自然と出た言葉に、自分自身やっと納得した。そうだ、考えが甘かったのだ。危険を承知の上で、いつ島へ戻れるか分からないと理解した上で戻ってきたけれど、それ以上のことを考えなかった。見たいものだけを見て、見るべきものを見ようとしなかった。確かにやってみないと分からないこともある。進まなければ見えないものもある。けれどそれは、覚悟をした者の台詞だ。どんな可能性も受け入れて覚悟をしたからこそ言える。見たくないものから目を背けるための、都合のいい言い訳ではないのだ。
 結局、一番肝心なことを考えずに、逃げていた。
 情けなさすぎて、鼻の奥がツンと痛む。茂が思うような立派な覚悟や勇気ではない。せっかく気遣ってくれたのに、失望させただろうか。
 茂が沈黙を破った。
「昨日、隗と会って、どう思った?」
 言葉を選ぶようにゆっくりと尋ねられ、大河はさらに俯いた。
 あの時の気持ちが蘇る。体の奥底から噴き出た感情は、理性を保てないほど酷く気持ち悪くて、醜くて、そして――。
 大河はぎゅっと唇を噛んで、しばらく口を開かなかった。けれど茂は急かすことなく、そのままじっと根気強く待った。
 薄く唇を開いては閉じる。そんなことを何度も繰り返し、やがて押し負けるように言葉が飛び出した。
「殺してやりたいと、思った……っ」
 そう吐き出したとたん、涙が溢れてきた。何に対してなのか分からない涙が、次々と頬を伝ってこぼれ落ちる。
「殺してやるって……、どんな理由があっても、こいつだけは絶対に殺してやるって思った……ッ」
 影綱の日記に記されていた隗の姿と、昨日の報告の場で柴の口から語られた事実は、少しの迷いを生んだ。人と交流を持ち仲間を守ろうとする彼と、仲間を裏切り躊躇いなく影正を殺した彼が一致しなかった。何が隗をそうさせたのか知りたいと思った。けれど、知ったところで許せる気はしなかった。
「でも、冷静になったら、そんな気持ちを認めたら自分が自分じゃなくなるようで怖かった。自分が綺麗な人間だなんて思ってない。けど……っ」
 被害者や遺族が、加害者へ復讐しようとする気持ちは分かる。それは当然の感情だと思う。けれど、いざ自分の中にその感情が芽生えた時に感じたのは――。
「自分が何をするか分からなくて、怖かった……!」
 自分自身への疑心と恐怖。
 なまじ陰陽術を行使できるだけに、余計怖かったのだ。双子が迷子になった時もそうだった。霊刀はもちろん、術も生身の人間を傷付ける。隗だけではなく、首謀者はもちろん、加担した者たち全員を殺しかねない。自分にそれだけの実力はないと分かっているけれど、でも例えば、力が暴走したらどうなる。晴明から寵愛を受けるほどの霊力、巨大な結界を張れるほどの霊力が暴走したらどうなるのか、自分でも想像がつかない。例えば廃ホテルで見た尖鋭の術。初級であの威力ならば、全力で上級を行使すれば、きっとかなりの広範囲で甚大な被害が出る。関係のない人たちまで犠牲にするかもしれない。
 だから、認めないことで、目を逸らすことで、憎しみに囚われまいとした。
 でもそれは逆効果だった。濃い霧の中を、見えない何かに追われているような感覚。どこへ行けば助かるのか、そもそも助かるのか、出口はあるのかさえ分からないまま逃げ続ける不安と恐怖に囚われた。
 怖くて堪らなかった。
 いつか憎しみに支配されて、大切な人たちも傷付けてしまうのではないかと。
 体を竦め、こぼれ落ちる涙を拭うこともせず口を閉じた大河を見据えたまま、茂はゆっくりと腰を上げた。椅子の前に膝をついて、大河を見上げる。
「その気持ちを、決して忘れずに、覚えておくんだよ」
 大河は少しだけ視線を上げた。瞬きをした目から大量の涙がこぼれ落ち、組んだ両手の甲を滑り落ちる。
「恨みや憎しみは、誰もが持っていて当たり前の感情だ。殺してやりたい、死んでしまえばいいと思うこともある。僕はね、憎しみに囚われるのは、憎しみの感情に恐怖を感じなくなった時だと思うんだ。でも、それがどれだけ恐ろしい感情か、そして自分の力の恐ろしさも、君はよく分かっている。だから大丈夫」
 茂は腕を持ち上げて、大河の頭に乗せた。
「大河くんは、大丈夫だよ」
 包み込むような柔らかい声と頭を撫でる大きな手が、余計に胸を締め付けた。また新しい涙が溢れ出して、大河はきつく目をつぶった。
「ここに戻って来ようと思ったこと自体が、僕はすごいと思う。どれだけ強く覚悟をしても、人の心は揺らぐものだし、迷うものだ。でも自分の考えが甘かったと思うのなら、まだ事件の真相が知りたいと思うのなら、今からでも遅くない。まだ大丈夫、間に合うよ」
 大河は子供のようにぐずぐずと鼻をすすりながら、小さく頷いた。茂は頭を撫でていた手を離し、大河の涙で濡れた手を包み込んだ。
「約束する。もしも大河くんが今の気持ちを忘れて憎しみに囚われてしまった時は、僕が必ず止めるから。だから、怖がらなくていい。約束するよ」
 涙腺がどうにかなったのかと思うほど、涙が止まらなかった。けれど、涙が流れるごとに不安や恐怖という名の深い霧が晴れ、目の前に道が見える。そんな感覚を覚えた。
 心が、軽くなっていく。
 こんなに泣いたのは柴と紫苑が影正を運んできてくれた日以来だ。
「大河くんは、感激屋の上に意外と泣き虫なのかなぁ」
 茂はからかい口調で言って腰を上げた。机の上にあるティッシュを箱ごと取って差し出すと、大河は嗚咽を漏らしながら数枚引き抜いて顔に押し付けた。
 情けないとは思うが、どうにも止まらない。しげさんのせいですよと言って責任転嫁したい。涙ってどうしたら止まるんだっけ。
「ごめんね。もっと早く話すつもりだったんだけど、弘貴くんと春くんのことも話さなきゃいけなくなると困るから。勝手に話すわけにはいかないし。迷ってたら先に隗と遭遇しちゃって、ちょっと焦ったよ」
 よしよしという風に軽く頭を撫でて、茂はベッドへ戻り腰を下ろした。やっと思考が逸れて涙が収まってきた。大河は首を傾げつつ新しいティッシュを引き出して思い切り鼻をかみ、大きく息を吐いて気を立て直す。
「大河くん、弘貴くんたちが施設出身だって聞いてるんだよね」
「あ、はい」
 涙声が恥ずかしくて、照れ隠しに残っていたアイスコーヒーへ手を伸ばす。
「ああ、昨日……」
 過呼吸の話をした時のことか。
「うん。聞いてるみたいだったから、じゃあ話しても大丈夫かと思って話したんだ。あの時、なんで二人がタイミング良く近くにいたのか聞かれるかなと思ってたんだけど」
「哨戒中だったんじゃ……あれ?」
 学校がある平日の哨戒は式神と成人組の担当のはずだ。通学路か、寮の近くだったのだろうか。大河はストローを吸い上げながら小首を傾げた。
「僕もあとから聞いたんだけど、弘貴くんたちがいた施設、うちから近いんだよ。寮に入ってからも時々顔を出してて、その帰りだったんだって。今でも行ってるんだ」
 綺麗に飲み干してから口を離し、へぇと相槌を打つ。
 弘貴は六歳くらいで施設に入ったと言っていた。そして今から四年前、十三歳の時に寮に入っている。七年間、施設で暮らしたのだ。自分たちの霊力を自覚し受け入れていたとはいえ、離れ難かっただろう。弘貴たちにとって、一緒に暮らした子供たちは家族なのだ。
「今でも大切に思ってるんですね。なんか、弘貴たちらしい」
 茂の話を聞いて、二人らしいなと思ったことがある。透の母親のこともそうだが、それ以上に、悪鬼に食われそうになって恵美と真由が茂を庇った時のことだ。あのまま春平が真言を唱えていれば、茂はともかく恵美と真由は悪鬼共々調伏されていた。そうなると二人の魂は消滅し、あの約束もできなかった。だから弘貴は伏せろと叫び、春平も真言を唱えるのをやめた。
 弘貴と春平は内通者ではないという判断は、間違っていなかった。
 大河が微笑むと、茂もほっとして笑みを浮かべた。
「ところで大河くん。一つ聞いていいかな」
「はい?」
「弘貴くんと春くんが悪鬼を相手にした時の話なんだけど、大河くんだったらどうしてた?」
「どうって……、とりあえずしげさんたちを結界で隔離します。山下って女の人からも守れるし、悪鬼の狙いはしげさんだし一石二鳥です。女の人は放置しても大丈夫だと思うので」
 至極当然のようにさらりと答えた大河に、茂は口に指を添えてくくっと喉を鳴らした。なんで笑われているのか。大河は小首を傾げた。
「話しを聞きながら、なんでしなかったのかなとは思ったけど、でも現場にいるのと聞くのとじゃ違うだろうし。何でですか?」
 茂がますます笑いを噛み殺して肩を震わせた。時々、何故笑われているのか分からないことがあるのは何なのだろう。
 大河が訝しげに眉を寄せると、茂は笑いながら顔を上げた。
「いや、ちょっと聞きたかっただけだよ。ありがとう」
 さて、と言って腰を上げる。
「そろそろ弘貴くんの様子を見に行かないと。暗記の邪魔して悪かったね」
「いえ、全然。話ができて良かったです。ありがとうございます」
「どういたしまして。僕も話しができて良かったよ」
 大河は立ち上がりながら盛大に溜め息をついた。
「俺自身の問題だって思ってたのに、結局聞いてもらっちゃって。なんか俺、皆に甘えてる気がする……」
 宗史と晴はもちろん、樹や怜司、皆に色んな事を教わって心配をかけて。術は仕方ないとはいえ、精神的な問題でさえも自分で解決できないなんて、なんだか情けない。
「大河くん。甘えると頼るは、違うんだよ」
「え?」
 足を止めて茂を見やる。
「甘えるっていうのは、自分でできることを人にしてもらうこと。頼るっていうのは、自分ではできないことを、人に力を貸してもらうことをいうんだ。影正さんの手紙にも書いてあっただろう? 自分ではどうしようもなくなった時は、迷わず人に頼りなさいって」
 あ、と大河は口の中で呟いた。意味を間違えて捉えていたのか。
「君は、自分で答えを出そうとしたんだ。甘えじゃないよ。それに、甘えはいつも悪いってわけじゃない。大河くんだって、甘えられると嬉しい時があるだろう?」
 大河はぽりぽりと頭を掻いて、はいと頷いた。
「大丈夫だよ。甘えてるって思ったら、はっきり言う人たちが多いから。ただねぇ、甘えと見なされたら訓練が厳しくなるから気を付けた方がいいかも」
「ああっ、それやりそう! 特に樹さん!」
「だろう? まあ、それも愛情表現の一つ、なのかなと思う、こともあるけどどうかな」
 物凄く曖昧に濁した茂を、大河は胡乱な目で見やる。あははは、と明らかな作り笑いをしながら茂は視線を逸らして扉へ足を向けた。
 この人、時々すごく適当な時があるよなと心で突っ込みながら背中を追う。
 初めて霊符を描く時もそうだった。どうして墨と和紙なのかという質問に、神様が喜ぶから、と適当な答えを返してきたのだ。きちんと理由があったのに。内通者とは別の意味で、ほんのちょっとだけ信用できない。それとも、適度に適当な部分が出せるほど、気を許してくれているのだろうか。
「あ、そろそろお昼かな」
 扉を開くと、食欲をそそる香りが漂ってきた。この匂いは。
「ラーメンと餃子だ!」
「ああ、いいねぇ」
「俺、机を片付けて顔洗ってから下りますね」
 すっかりテンションが上がった大河に茂が小さく笑う。
「うん、分かった」
「しげさん、本当にありがとうございました」
 礼を告げると、茂は満足そうな照れ臭そうな笑みを浮かべて頷き、背を向けた。
 大河は扉を半分開けっ放しにして素早く身を翻す。
 心なしか体が軽い。
 まさか、あんなに前から気にかけてくれていたとは思いもしなかった。嬉しさで自然と顔が緩む。
 人は傷付いた分だけ優しくなれるというけれど、茂はまさにそんな人だ。抱えた傷と優しさが比例している。いや、傷以上の優しさを持っている。
「俺も、そうなりたいな……」
 人の痛みに鈍感な人間にだけはなるなと、手紙にも書かれてあった。茂のような人になれたら、影正は喜んでくれるだろうか。
 胃袋を刺激する油の匂いに腹の虫が反応し、大河は適当に机の上を片してノートパソコンを抱えると、足取りも軽く部屋を飛び出した。
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