第11話

文字数 4,519文字

      *・・・*・・・*

 そろそろ午後四時を回ろうとする時間。親子だろうか。車椅子に乗った老齢の女性と、それを押す中年男性が目に入った。
「そういえばお前、岡部のことおふくろさんに話したのか?」
 熊田(くまだ)は、運転席から何とはなしに佐々木(ささき)にそう尋ねた。
「いえ。夫には話しましたけど、仕事が終わったあとだと面会時間が終わってるので。夫も、あたしから話した方がいいだろうって」
 あの日から、もう三日が経っている。一度休暇はもらったが、こうも進展がないと次はいつになるか分からない。勤務中だということは分かっているが、できるだけ早く報告してやりたいだろう。
「施設、どこだ?」
 熊田が尋ねると、佐々木は驚いた顔で振り向いた。
「捜査中ですよ」
「別にいいだろ。ついでに周辺を聞き込みして回れば」
 ほらどこだとせっつくと、佐々木は照れ臭そうに、けれど嬉しそうに笑ってじゃあと案内を始め、施設に連絡を入れた。
 佐々木の母親は、数年前に認知症を発症したと聞いている。物忘れから始まり、やっぱりもう年ねぇなどと言っている間に、同じことを話したり尋ねることが多くなった。そこで診察を受けたところ、認知症と診断された。大きなショックを受けつつも、娘に苦労をかけたくないと言って、母親自身が施設への入所を強く希望したため、入所待ちをしていたそうだ。仕事もあったことから、母の姉の協力を得ながら、認知症対応型通所介護(認知症となった人を対象としたデイサービス)を利用しケアも受けていたが、進行を遅くすることはできても止めることはできない。やっと施設に空きが出た頃には、要介護3にまで進行していた。
 食事、入浴、排泄などの日常生活での介護が必要になり、理解力、記憶力の低下、徘徊や妄想、奇声などの行動が見られる人が多い傾向にある。幸いにも母親には徘徊や奇声などは見られなかったらしいが、妄想の症状はあったという。それは、まるで父親が生きているかのような内容だったそうだ。
 伯母にも家族がいて日々の生活があるし、いくらデイサービスを利用していると言っても、夜はどうしても自宅での介護が必要になる。徘徊や奇声がいつ発症するか分からない。そんな不安を抱えながら、時折ショートステイを利用し、仕事と介護の両立に必死だった。母親は、時折正気に戻ったように口にしていたそうだ。迷惑をかけてごめんね、と。
 当時佐々木は三十過ぎで西京署に勤務しており、忙しさと不安から退職も考えていた。入所が決まったのはそんな時だ。しかし、決まったことに対して安堵し、これで仕事を辞めなくて済む、休めると思ってしまった。そんな自分が情けないと漏らした相手が、今の夫らしい。彼は「そんなことありません。今までよく頑張ってこられました。しっかり休んで、元気な顔で会いに来てあげてください」。そう言って、佐々木を慰めたそうだ。ちなみに名字だが、夫の姓も佐々木だったらしく、運命ですよとのろけながらも、名前が変わる経験をしてみたかったと冗談交じりに言っていた。
 田代基次が健人の妻子を殺害するに至った経緯について、佐々木はこう語った。
『介護って、本当に大変なんですよ。知識もないし、初めてだから勝手が分からない。理解できない言動も増えて、意思疎通ができなくなって。体力も必要で、見ていないところで何をするか分からない不安に神経をすり減らして、ストレスばかりが溜まっていく。それでも、親なんだから、育ててもらったんだからっていう、責任感や恩がある。伯母やデイサービスの人たちに助けられて、何とか頑張ることができました。比べるものじゃないですけど、あたしはまだマシだったんだと思います。田代は在宅介護をしていたようですし、金銭的な問題だったのか、それとも施設に預けることに罪悪感があったのか。それは分かりませんが、本当に大変だったと思います。でも……、だからといって、仕方ないとは言えません。殺人に、仕方ないは通用しません』
 同じ境遇にいた者として理解を示し、けれど刑事として否定した。それは同時に、健人の――鬼代事件の犯人たちをも否定したことになる。
 佐々木の母親が入所している施設に到着し、駐車場に車を乗り入れる。
「ゆっくり会ってこい。俺はこの辺りをぐるっと聞き込みに行ってくるから」
 そう言って車から降りると、佐々木は遠慮がちに言った。
「あの、よかったら、母に会ってもらえませんか。紹介したいんです。夫にも」
 何故そんなに照れ臭そうに視線を泳がせているのかは分からないが。
「お前がそう言うなら、俺は別に構わんぞ」
 相棒の親と旦那に会うくらい、何でもないことだ。少し不思議そうな顔で承諾した熊田を見て、佐々木ははにかんで先行した。
 特別養護老人ホーム、通称・特養と呼ばれる施設を訪れるのは、初めてではない。ただし、仕事でだ。施設の入所者の家族が被疑者となり、聞き込みで訪れた。
 正面玄関から入ってすぐのエントランスには広い受付カウンターがあり、生花や額縁に入った桜の絵が飾られている。佐々木は、制服を着た三十代とおぼしき女性スタッフと顔を合わせるなり、親しげに挨拶を交わした。
 どちら様? と言いたげな視線を向けられたので、ひとまず会釈をする。
「職場の先輩なんです」
「ああ」
 入所時に職業などを聞くだろうし、夫もここの職員だ。佐々木が警察官だと知っているだろう。彼女は心得たように「そうですか」と言って笑顔で会釈を返した。
 彼女に案内されてエントランスを抜けると、左手にエレベーター、正面に二組の応接セットを備えたロビーに出た。応接セットの奥には窓があり、壁には大きな朝顔の絵が飾られている。真っ白な天井や壁、窓から差し込む日差し。エントランスもロビーも綺麗に清掃されて整えられ、明るく清潔感があってまるでホテルみたいだ。仕事で訪れた施設は、綺麗ではあったけれどもっと味気ないというか、小ざっぱりしすぎていて少々寂しい印象を受けたものだが、ここの施設は温かみを感じられる。
 施設によってそれぞれだなと思いつつ、案内されるまま佐々木と女性スタッフの後ろをついて行く。
 応接セットを横目に右へ進むと、庭に面したデイサービスルーム兼食堂があった。たくさんのテーブルと椅子が設置され、入所者はもちろん、デイサービスの利用者もいるのだろう。おしゃべりをしたり新聞を読んだり、手芸をしたりと思い思いに過ごしている。
「ああ、お庭にいらっしゃいますね」
 ぐるりと部屋を見渡していた女性スタッフの声に、熊田と佐々木は庭へ視線を投げた。窓辺はバルコニーになっているようで、庇が作った日陰の中に、白のポロシャツにベージュのチノパン、薄いブルーのエプロンを着けたすらりと背の高い男性の後ろ姿がある。その向こう側に、車椅子が見え隠れした。
 女性スタッフに礼を言って、バルコニーへ向かう。大きな窓から見える広々とした中庭には、中央に大きな木が一本そびえ立ち、青々と茂った芝生に濃い影を落としている。周りを囲むようにベンチとプランターが置かれ、赤やピンク、オレンジ色の花が彩りを添えており、色鮮やかだ。
 佐々木が窓を引き開けると、音に気付いた男性がゆっくりと振り向いた。すっきりとした一重の目が、佐々木を捉えるなりへにゃっと垂れて、目じりにしわが寄った。四十代後半くらいだろうか。
「薫子さん、いらっしゃい」
 聞き心地の良い低めの声は、ゆっくりとした口調で歓迎の言葉を紡いだ。短く切り揃えられた頭髪は清潔感があり、佇まいといい、穏やかな空気を纏った男性だ。
 佐々木が窓を閉める。
「突然ごめんなさい、典之(のりゆき)さん」
「ううん、大丈夫だよ」
 典之と呼ばれた佐々木の夫は、熊田に軽く会釈をすると、腰を曲げて横から車椅子を覗き込んだ。佐々木と熊田が足を止める。
「お義母さん、薫子さんが来てくれましたよ」
 そう言ったあと丁寧に反転させた車椅子に座っていたのは、真っ白な髪を肩で切り揃えた小柄な女性だった。しかし――。
 佐々木が横に移動し、手を差し出しながら紹介する。
「熊さん、うちの母と夫です。お母さん、典之さん、こちら熊田さん」
「初めまして。佐々木典之です。薫子さんからお話は伺っています。とてもお世話になっているみたいで」
「熊田寅之助です。いえ、こちらこそ」
 互いに頭を下げて交わした挨拶は、それ以上続かなかった。母親が反応しなかったのだ。まるで興味がないような、魂が抜けたような虚ろな目で宙を見つめている。
 佐々木が少し寂しげに微笑んで母親を見下ろし、おもむろに動いた。母親の前にゆっくりと移動して膝を折り、見上げる。じっと見つめ、膝に置かれた細くて小さな手を両手で包み込んだ。
「お母さん。今日はね、報告があるの」
 囁くように、佐々木が告げる。
「あの時の犯人、捕まったよ」
 二十四年越しの報告はとても短く、とても静かに終わった。
 大きく枝を広げた木がさわりと葉を鳴らし、呼応するように、佐々木が俯いて細い肩を震わせた。
 事実とは少し違う報告。だがきっとこれが、母親が一番聞きたかった言葉だろう。
 認知症について詳しく知っているわけではないけれど、彼女の様子を見る限り、おそらく末期だろう。犯人のうちの一人だけだったとか、その一人は病気で死んだとか、これから再捜査されるなどと説明しても、おそらく理解できない。だから、これでいい。
「捕まったんだよ……?」
 もう一度、念を押すように佐々木が呟いて、典之が堪え切れない様子で目を伏せた。
 熊田は、ぐっと歯を食いしばって視線を逸らした。二十四年前、犯人の手掛かりすら得られずに打ち切られた捜査。どれだけ悔しくて、無念だっただろう。どれだけ犯人逮捕の報告を待ち望んだだろう。のうのうと生きている犯人を、どれだけ憎んだだろう。
 やっと見つけた時には、一人は病死、一人は不明。そして彼女自身は、理解できない状態にいる。なんて、やりきれない。
「……そう」
 ふと、か細い声が耳に飛び込んできて、三人同時に弾かれたように顔を上げた。
 宙を見つめていた母親が、佐々木を見下ろしている。典之が車椅子の横にしゃがみ込んだ。
「おか……」
 佐々木の声を遮るように、小さな手が動いた。右手が包み込んでいた手からするりと抜け出し、ゆっくりと持ち上がる。そして佐々木の頬へと添えられ、優しく、とても愛おしそうに撫でた。
「がんばったわねぇ……よかったわね、かおちゃん」
 佐々木の愛称だろう。かおちゃん。そう呼ばれたとたん、佐々木の口から嗚咽が漏れた。俯いて頬を撫でる手に自分の手を重ね、まるで膝に縋るようにして声を殺す。
 そんな娘を見つめる眼差しは、間違いなく母親のそれだ。今にも「仕方ないわねぇ」と微笑みながら慰めてもおかしくないほど、目に光が戻っている。
「な、かまが……っ、仲間が、頑張ってくれて……っ」
 嗚咽を漏らしながら、佐々木が途切れ途切れに伝える。
「熊さんと一緒に、捕まえて……っ」
 ひと言ひと言に、母親は小さく頷き返す。まるで、学校での出来事を話す子供の話を聞いているかのような仕草。傍では、敬之が目に涙をためて微笑んでいる。
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