第24話

文字数 2,545文字

「さて」
 広場の中央で足を止めた明が、にっこり笑って振り向いた。
「先程、どうしてこんなに早く来られたのかと聞いたね」
「え? はい……」
「もう一つの理由が、これだ」
「え?」
 明が視線を投げると、荷物を置いた閃が少し距離を取った。何をするんだろうと小首を傾げて眺めていると、突如、閃の足元に大量の水が出現した。まるで竜巻のように渦巻いた水はあっという間に閃を覆い隠し、質量を増しながら横に長く長く形を変えていく。
 四メートルほどだろうか、太く長く伸びた水が鼻口部から一気に尾へ向かって引き、ぱんと軽快な音を立てて弾けて消えた。
 目の前に現れたのは、濃い青色の体に白がかったたてがみを揺らす、巨大な龍。
 いっそおとぎ話レベルの陰陽師が実際にいて、擬人式神や浄化も見た。閃が神であることも疑っていない。だが今目の前にいるのは、空想上の生物だ。これはさすがに。
「て、手品……?」
 つい口から出たとぼけたひと言に、明がふっと噴き出す。
「残念だけど、何の仕掛けもないよ」
 俯いて口を覆った明は、声と肩が震えている。極度の笑い上戸らしいが、そんなにウケるようなことを言っただろうか。目の前の閃らしき龍の目が白けているのは気のせいではないはずだ。
 あ、と気付いた。閃と同じ、紫暗色の瞳。いや、同一人物なのだから当然なのだが、こうも全く姿形が変わると、同じだと認識するのに時間がかかる。同じ部分を一つ見付け、やっと脳が認め始めた。
 美琴はゆっくりと近寄り、恐る恐る手を伸ばした。指先で鱗に触れる。手のひらよりもはるかに大きく、表面はつるんと滑らかで光沢があり、角度によっては黒にも見える。
「宝石みたい……」
「綺麗だろう?」
 素直な感想を口にすると、平常心に戻ったらしい明が隣にやってきた。
「変化と言ってね、水神は龍、火神は朱雀、土神は犬に姿を変えられるんだ。水神と火神は、飛べる」
「あ、じゃあ……」
「そう。仕事でこちらに来ていたのは本当だ。だが、あの時僕は三宮のホテルにいた。君から電話をもらって、閃と一緒にホテルの屋上から、文字通り飛んで来たんだ」
 道路状況も信号も関係なく最短距離で飛んでくれば短時間で到着するのは当然で、カーテン越しに見えた黒くて長い影は、変化した閃だったのだ。飛んでいる姿を人に見られたとしてもあっという間だろうし、幻覚とでも思うだろう。しかし、さすがに間近で見られるのはまずい。人目に付かない場所を探すはずだ。
 やっと謎が解けたのはいいが、しかし。
「飛ぶ、んですか……?」
「飛ぶよ」
「乗るんですか……?」
「乗るよ」
 平然とオウム返しされ、美琴は若干不安にかられた。さっき高い所は平気かと聞いたのはこれか。落ちやしないだろうか。少々複雑な顔で閃に顔を戻した美琴に、明はくすりと笑った。
「大丈夫。絶対に落としたりしないから。さて、そろそろ行こうか。今日は僕が泊まっているホテルに一緒に泊まろう。さっき確認したら、空室があった。明日の朝、車で京都へ出発だ」
「はい。あっ、ホテル代」
「必要経費だ。気にしなくていい」
 さらりと流されてしまった。荷物はどうしようか、と思案する明にありがとうございますと小さく返す。どうせ自分では払えないのだから気にしても仕方ないのだが、養育費や学費の全額負担といい、陰陽師の経済事情はどうなっているのだろう。
 命綱も何もない状態で荷物は邪魔になる。閃の太い足に持ち手をぐるぐる巻き付けてぶら提げることになったのだが、
「なかなか愉快な光景だな」
 と明がまたしても笑い上戸を発動し、ちょっとだけむっとした閃は何だか可愛らしかった。
 この人本当に笑いの沸点が低いんだなと思いつつ立派な角を両手で持ち、さらに背後から明に支えられたところで、閃がゆらりと体をくねらせて徐々に高度を上げる。
 ――。
 ふと何か聞こえた気がして、美琴はきょろきょろと足元を見渡した。すっかり宙に浮いている。
「どうした?」
「あ、いえ。何でもありません」
 明も何も聞こえていないようだし、空耳だろう。美琴は気を取り直して前を向いた。
 遠ざかる地面と比例して、夜空が近くなる。閃と同じ色の、濃い青にも黒にも見える夜空には無数の星が瞬き、欠けた月は街を静かに照らす。
 地域一帯どころか、山々すらも眼下に望める高さまで上昇した時、閃が緩やかに方向を変えた。まるで「見納めだ」と言わんばかりに、大きな円を描く。
 立ち並ぶ団地や一軒家、小学校、行きつけのスーパー、数日前まで通っていた中学校。ぽつぽつと光が流れているのは、有料の第二神明道路と神明道路。さらに向こうには須磨の街と海。
 今頃、皆どうしているだろう。友人たちは、この時間だから寝ているだろうか。春休みだから夜更かしをしているかもしれない。新学期が始まって、転校したことを知ったらどう思うだろう。修学旅行の約束を果たせなかったことを残念がってくれるだろうか。それとも、何も言わなかったことに怒るだろうか。新学期の準備に追われているはずの関谷は、突然転校手続きを渡されて、どう思うだろう。瑠香たちは、あの騒動に気付いていたかもしれない。
 突然いなくなった友人を、生徒を、近所の女の子を、彼らはいつまで覚えていてくれるだろう。
 ゆったりと一周してから、閃は三宮方向へ進路を向けた。須磨の街が、後方へ流れてゆく。未練がましく視線で追いかけながら、やっと実感が湧いた。十四年間住み慣れた街を離れるのだと。
 友人たちと別れる寂しさ、直接別れの言葉一つ言えなかった後悔、やっと母から逃れられる安堵、故郷を離れる切なさ、これから始まる新しい生活への不安と期待。色んな感情が入り混じって、自分が今どんな気持ちなのかよく分からない。
 鼻の奥がツンと痛んで、美琴は角を握る手に力を込めて俯いた。自分で決めたんだろう。泣くな。そう言い聞かせても涙は勝手に滲み、う、と小さく嗚咽が漏れた。同時に、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちて、閃の綺麗なたてがみを濡らす。
「我慢しなくていい」
 呟くように囁かれた穏やかな声と体をすっぽり包む温もりに、容易に自制心を砕かれた。美琴はぎゅっと硬く目をつぶり、肩を竦めた。
「う――――……っ」
 まるで唸り声のような嗚咽が、夜空に溶けて消えた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み