第33話

文字数 3,598文字

「あ、あの……」
 悶絶する美琴を心配そうに見やりながら、電話が終わった香苗が隣にしゃがみ込んだ。
「誰だった」
 問うたのは右近だ。美琴は顔を歪めたまま、耳だけを向けた。
「柴からでした。今から、しげさんと一緒にこっちに戻ると言ってました。昴さんは隗と撤退したそうです」
「茂も無事だったか」
 右近がほっと息をついた。茂がいた場所は結界外だ。援護と回収を見越してそちらへ避難したのだろう。
「はい。ただ、意識ははっきりしてるみたいですが、怪我が酷いようで……」
「そうか。だが相手は昴だ。殺されなかっただけ良しとするべきだな」
 忌憚ない意見に、香苗が顔を曇らせて「そうですね……」と小さく呟いた。寮の大人組みは皆優しいし、話しやすい。そんな中でも、香苗は昴とは特に話しやすそうだった。あののんびりした雰囲気が演技だったのかどうかは分からないが、二人のペースが合っていたのは確かだ。悠長なことを言っていられないのは分かるが、香苗が現実を受け入れるには、もう少し時間が必要なのかもしれない。
 次第に痛みが引き、ほっと息をついた。ふと香苗と目が合い、思わず溜め息が漏れた。あからさまに申し訳なさと罪悪感が滲んでいる。
「大丈夫よ。霊力もまだ残ってるし、少し休めば動けるから」
「ごめんなさい。あたし……」
「何もできなかったなんて言ったらぶっ飛ばすわよ」
 目を細め、半ば脅すように言葉を遮ると、香苗は口をつぐんで視線を泳がせた。
「あんたが擬人式神を準備してなかったらもっと手こずってたし、あんたがいなかったら悪鬼が地面には潜れないことは分からなかった。あの壁もあんたのだから耐えられた。あたしは地天得意じゃないから。それと、あんたのあのとっさの行動で、悪鬼の新しい対応策が見つかった。大手柄でしょ。隗はあたしたちじゃどうにもできなかった。もしあたしがあんたの立場だったとしても、何かできたとは思えない。しょうがないでしょ、相手は鬼なんだから。ただ、あんたの気持ちが分からないわけじゃない。あたしだって、もっと……」
 偉そうに言っても、香苗と同じだ。もっと他に何かできることがあったのではないか、効率的な戦い方があったのではないかと思う。でも、今の自分ではあれが精一杯だということも分かっている。
 美琴は言葉を飲み込んで、ふいと顔を逸らした。
「だから、もっと強くなる。だって……友達が殺されるなんて、嫌でしょ」
 ぼそぼそと付け加えた言葉に、香苗が思い出したように顔を上げた。人のことは言えないが、頬にべったり血を張りつかせての期待顔はちょっと不気味だ。
「あ、あの、さっきも、友達って……っ」
 突っ込んでくると分かっていても、改めて聞かれるとやっぱり照れ臭い。美琴は、その照れ臭さをごまかすようにしかめ面で唇を尖らせ、横目で見やった。
「違うの? 違うなら撤回」
「違わない、違わないよ! うん、友達、強くなる。絶対、約束する!」
「語彙力」
 あんたそのすぐテンパる癖直しなさいよ、うん頑張る、いや頑張るじゃなくて。そんな、ちょっと呆れ気味の美琴と嬉しそうにはにかむ香苗のやり取りを聞きながら、右近は密かに微笑んだ。
「いいぞ、美琴」
 へらへらするんじゃないわよ、と堪らず突っ込んだ時、右近から声がかかった。もう、と美琴は一つぼやいて左腕に目を落とす。すでに血が固まっていて分からないが、痛みもないし完治しているのだろう。
「ありがとう」
「あとは……」
 腹だな、と言いかけた右近が、ふと視線を上げた。
「すっごかったんだから。桁違いの強さだよ。あっはっは!」
 そんな陽気な笑い声と共に淡路祖霊社に降り立ったのは、間違いなく茂をお姫様だっこした柴だ。茂の右腕がぶらんと垂れ下っているのはシルエットで分かるが、結界がなくなってしまったので薄暗く、様子がよく見えない。酷い怪我だと言っていたはずだが、何故こんなに元気なのだ。というか、元気を通り越してこれは。
「ナチュラルハイ?」
「もしや打ち所が悪かったのか?」
 美琴と右近が訝しげにぼやき、香苗はきょとんと目をしばたいた。
「昴くん、よくあの実力を一年も隠せたよねぇ。ほんと感心するよ。あ、みんなー、無事かい? 僕は死にそうだけどー」
 あははは、とまたしても笑い声を上げる茂にいっそ恐怖を覚えた。こんな茂は初めてだ。
「え、ちょっと、ほんとに大丈夫なの?」
「びょ、病院行った方が……っ」
「脳の治癒は初めてだが、さすがの私も自信がないな」
 やる気だ。いくら式神でもそれは怖い。素直に病院へ行った方がいいのでは。不安にかられている美琴たちを置いて、柴はいつも通りの無表情でこちらへ歩み寄ってきた。と、突然、右近が険しい顔で素早く腰を上げた。
「柴、ゆっくり下ろせ」
 駆け寄りながら発した右近の張り詰めた声に、緊張が走った。とはいえ腹の傷が痛んですぐには立ち上がれない。香苗の手を借りてゆっくり腰を上げていると、右近が重苦しい口調で言った。
「折れているな」
「えっ」
 声を漏らしたのは香苗だ。右近がこちらを振り向いた。
「ハンカチを借りてもよいか。噛ませる」
「あ、はいっ。えっと……」
「大丈夫、行って」
 言いながら手を離すと、香苗は頷いてハンカチをポケットから出しながら小走りに駆け寄った。そして、手を出した右近に渡しかけた手が、一瞬止まった。
「ごめんね、香苗ちゃん。ありがとう。可愛いハンカチなのに申し訳ないなぁ。血が付いちゃうと思うから、今度新しいのを買って返すね。同じのがいいかな。欲しいのがあったら遠慮なく言ってね」
 でも事件が終わったあとになっちゃうかなぁ、と妙に饒舌な茂を香苗の隣から見下ろして、美琴は息を詰めた。
 右腕の前腕が赤黒く腫れ上がり、不自然な部分でわずかに曲がっている。それだけではない。頭から流れた血がべったりとこびりつき、顔に血の気がない。全身土で汚れ、胸や腹、あちこち傷だらけで血まみれだ。自分たちの怪我など掠り傷に思えるほどの満身創痍。これは酷過ぎる。ここまで酷いのなら、わざわざ運ばせずに右近を行かせればよかったのに。
 視界の端に、香苗がきつく握り締めた拳が映った。
「ああそうだ、一緒に買いに行こうか。間違っちゃったらあれだし。ね、そうしよう。楽しみだなぁ」
 香苗が右近にハンカチを渡したあとも、茂の口は止まらなかった。口数が少ないわけではないが、ここまでべらべら喋るのは初めてだ。
 ちらりと、茂が美琴を一瞥した。
 もしかして、喋って気を紛らわせているのか。それもそうだ。ここまで酷い怪我なら気を失っていてもおかしくない。だとしたら。
「あたし、飲み物買ってきます。セキレイの里の前の自販機、電子マネーに対応してたので」
「あ、ほんと? じゃあ悪いけど頼もうかな」
「はい。香苗、一緒に来て。一人じゃ持てないから」
「え、あ、うん。あっ、でも美琴ちゃん」
「大丈夫、動ける」
「私も共に行こう」
「お願い」
「気を付けてねー」
 茂の声に見送られ、三人はその場をあとにした。薄暗い鎮守の森を抜け、淡路祖霊社跡に出て、馬場を横切る。
 敵だとはいえ、一年間一緒に暮らした相手をあそこまで痛めつけるなんて。そして、茂が右近を呼ばずにわざわざここまで運ばせたのは、おそらくあの傷を見せるため。昴は敵なのだと、自分たちにきちんと認識させるため。いわば、あの傷は物証だ。
 とはいえ、骨折の治癒は相当な痛みを伴うだろう。昴を敵だと認識させ、しかし治癒の苦痛までは見せたくなかった。だから、ハンカチを渡したあとも喋り続けた。
 すっかり静まり返った馬場に、三人分の足音が響く。
「あたし」
 不意に、香苗が俯いたままぽつりと口を開いた。
「ずっと、信じられなかった。ううん。信じたくなかったの。影正さんを殺して、美琴ちゃんを人質にして、向小島で晴さんと戦ったって聞いたのに、それが事実だって分かってるのに、ちゃんと受け入れてなかった。心のどこかで、昴さんは戻ってきてくれるって思ってた。でも」
 言葉を切り、香苗は足を止めて後ろを振り返った。一歩遅れて、美琴と柴も立ち止まる。
「さすがに、許せない」
 短く、けれどはっきりとそう口にした香苗の目はとても真っ直ぐで、強い覚悟の色が浮かんでいる。美琴は香苗の視線を辿り、目を伏せた。
 きっと茂も――いや、全員だ。紺野たちを含んだ事件に関わる全員が、一縷の希望を抱いていたかもしれない。だがそんな儚い希望は、今日ここで、潰えてしまった。
 美琴はゆっくりと瞼を持ち上げた。
「じゃあ、ますます気合い入れて訓練しないといけないわね」
「うん」
 表情を引き締めて強く頷いた香苗に、美琴は微かに口角を緩めた。行くわよ、と促して朱色の橋を渡る。
 水とお茶かな、スポーツドリンクもあった方がいいわね、と購入する飲み物を打ち合わせする二人の背中を見つめる柴の瞳が、少し悲しげに、ゆらりと揺れた。
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