第5話

文字数 3,005文字

 こんもりと盛り上がった墓が集落のそこかしこに出来上がった頃には、夜の帳は上がり、東の空が白んでいた。刻一刻と、朝日が集落を照らし始める。
 柴たちに見守られながら、紫苑は小さな白い草花を手に、父と母の墓の前に膝をついた。
 墓標も何もない、知らない者が見れば、ただの小さな盛り土。その下で、時の経過と共に父たちの体はひっそり土へと還るのだ。やがてここで起こった惨劇を知る者はいなくなり、これが墓であることも忘れられ、雨風に晒され、あるいは天災によって形を失ってゆくのだろう。それが何百年後か、それとも千年後か、二千年後かは分からない。
 でも自分だけは、決して忘れない。忘れるわけがない。せめて自分が生きている間は、決して。
「父上、母上。また、来ます」
 そう言葉を添えて、紫苑は花を手向けた。
 しばしの静寂のあと、刀を手に、後ろ髪を引かれるように重い腰を上げた。ゆっくり周囲に視線を巡らせる。
 寝床はことごとく破壊され、割れた竃や炉、(かめ)の破片が散らばり、干し肉などの保存食は土を被っている。全ての墓の前には同じ白い花が供えられ、そこかしこに血の跡も見える。いずれ、墓と同じように完全に朽ち果て、ここに集落があった痕跡すら残らず、忘れ去られてゆくのだろう。
 たった一晩で、すっかり様変わりしてしまった。野鬼との戦はあっても、ずっとここで暮らすのだと信じて疑わなかった。それが、こうも容易く奪われるなんて。
 紫苑は俯いて悲痛に顔を歪め、しかしすぐに顔を上げた。いつまでも悲しみに暮れている暇はない。身を翻し、見守ってくれていた柴たちに深々と頭を下げる。
「どうぞ、よろしくお願い致します」
 柴が無言で頷くと、それを合図に、玄慶が背後に立つ部下たちを振り向いた。
「暁覚の隊は先行、しんがりは私が務める。他の者は周囲を警戒しつつ、柴主と共に紫苑を護衛だ」
「御意!」
 見事に揃った返答に圧倒され、紫苑はわずかに肩を跳ね上げた。
 集落では、集落そのものが一つの隊であり、大人は男女関係なく兵であった。(おさ)副長(ふくおさ)(複数名)という役もあり、一致団結はしていたけれど、もっと気安い雰囲気だった。それと比べると、完璧に「統率」されている。それに、改めて見ると襲ってきた餓虎より数がかなり少ない。集落は五十名ほどで、餓虎の屍はちょうど百だった。そして見回り役と合わせて隊は四十二名。それなのに誰一人欠けておらず、怪我を負った様子もない。集落の仲間がいくらか斃したとしても、たった四十名余りで百名近くの鬼を相手にして死者が出ないなんて。
 これが、集落との違いか。
 十名で一つの隊なのだろうか。暁覚を含めた長らしき四名が兵に指示を出す姿を眺めていると、玄慶がこちらを見やった。
「紫苑、お前は柴主が抱えていかれるそうだ。刀も一旦柴主に預けろ」
「え?」
 質問の意味が一瞬理解できず、紫苑は目をしばたいた。そんな紫苑を見て、柴と玄慶が小首を傾げた。先に口を開いたのは玄慶だ。
「先程も言ったが、今のお前では私たちの足に追い付けぬだろう。さすがに続けての襲撃はないだろうが、できるだけ早く根城へ戻った方が安全だ」
「あ……」
 さりげなく「今の」と付けてくれたことは嬉しかったが、それ以上に恐れ多いと思った。助けてもらったことはともかく、主である柴の手を煩わせるなんて。せめて玄慶や他の者では駄目なのか。
「しかし……」
 もごもごと口ごもる紫苑に、柴がわずかに眉尻を下げた。
「私は、落としたりはしないが……不安ならば玄慶に……」
「えっ、あっ、いえ、そのような意味では……っ」
 しまった、そんなふうに見えたのか。どことなく寂しそうな顔をした柴に紫苑が慌てて否定し、玄慶たちからは笑い声が上がった。笑い事ではないのだが。
 しゅんとした柴を目の前に言葉を選んでいると、玄慶が笑いを噛み殺しながら口を開いた。
「柴主がお前を抱えていくとおっしゃったのだ。気にすることはない。それに」
 ぽん、と大きな手が頭に乗った。
「今日くらい甘えても、誰も咎めはせん。そう気負うな」
 にっと笑った玄慶と、そうだぞと後押しする兵たち。そして、とても優しい眼差しでこちらを見下ろす柴。思わず、肩の力が抜けた。
 今さらだが、もっとこう、堅苦しいものだと思っていた。何せ三鬼神である柴の御前だ。いくら柴が優しくても、配下である自分たちがくだけた態度や物言いができる相手ではないと。それなのに、漂う空気はとても穏やかで、皆、とても和やかだ。
「どうする?」
 改めて玄慶に問われ、紫苑は柴を見上げた。
「では、恐縮ながら、お言葉に甘えさせていただきます。刀は……」
 やっぱり、持ったままだと抱えにくいと思ったから預かると言ったのだろうし、ここは素直に。
「お預けしても、よろしいでしょうか」
 おずおずと差し出すと、柴は嬉しげに目を細めた。
「ああ」
 ほっと安堵の息をつき、刀を渡すと、柴は大事そうに受け取って右腰に佩いた。そしてふと何か思いついたように袂から紐を取り出し、長い髪を無造作にまとめて肩から前へ流した。
 助けてもらった時も思ったが、本当に美しい御髪だ。わずかな癖もなく、しなやかで、烏の濡れ羽のように艶やかな漆黒の髪は、一切の傷みがない。そして妙に優雅な何気ない動作。この方は本当に鬼なのかと疑ってしまうほどの美しさに、つい目を奪われる。
 魅入られたようにぽかんとした紫苑の前に、柴が背を向けてしゃがみ込んだ。
「乗れ」
「あ、は……はい……」
 我に返って、目の前の背中に目を落とす。甘えさせてもらうとは思ったものの、やはり躊躇しないわけがない。だがここで断るのもまた失礼ではないか。紫苑はきゅっと唇を結んで覚悟を決めた。
「し、失礼致します」
 断りを入れ、おずおずと両腕を伸ばして柴の首に巻き付け、大きな背中に体を預ける。尻に手を添えられ、ひょいと軽々持ち上げられた。
 待ち侘びたように、玄慶が兵たちをぐるりと見渡した。
「よいか。夜が明けたとはいえ、決して警戒を怠るな。さあ――帰還だ!」
 宣言するや否や、雄々しい鬨の声が、朝日に照らされた集落に響き渡った。
「紫苑、しっかり掴まっておけ。行くぞ」
「はい」
 暁覚の隊が先行し、続けて柴と残りの隊が同時に地面を蹴る。
 正面から風がぶつかり、ゴッと耳元で唸った。視界の端を流れる景色はまるで濁流のような速さで、目の前に迫っていた大木が一瞬で視界から消えていく。想像以上の速さと風の強さに、紫苑は思わず柴の首にしがみついて顔を伏せた。
「怖いか?」
 不意に問われ、紫苑は視線を上げた。
「い、いえ。少し、驚いただけです」
「そうか」
 衣越しでも分かる、鍛えられた背中。そのたくましさとほのかに伝わる温もりに、昔の記憶が蘇った。
 もっと幼い頃。一人意気込んで集落の外に出たはいいが、結局帰り道が分からず迷子になったことがあった。次第に日は暮れ、どこからか響く獣の遠吠えが不気味だった。心細さから木の下でうずくまって泣いていると、集落の皆が探しに来てくれた。父に散々叱られ、小言を言われながら体を預けた、広くてたくましい背中。その心強さと温もりに安心して、帰り道に眠ってしまったのを覚えている。
 あの時と同じ、安心感と温もり。
 本来、柴は守るべき相手だ。けれど、今だけは――。
 ――父上。
 陽の光が強さを増す中で小さく呟いた涙交じりの声は、勢いよく風に乗って消えた。
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