第4話

文字数 5,811文字

 不意に香苗が小さく椅子を鳴らした。
「か、顔、洗ってきます……」
 恥ずかしげに顔を伏せ、鼻をすすりながらそう呟くと香苗は小走りに廊下に出た。
 足音が遠ざかり、はたと思い出して大河は携帯を探った。
「あ、そうだ電話しないと。郵便局、何時までだったかなぁ」
 時計の針は三時半を回っている。もう閉まっているだろうか。携帯を操作する大河に空気が緩み、華が腰を上げた。
「フレンチトースト、途中だったわね。夏也、藍と蓮のおやつお願いしてもいいかしら」
「はい。軽くでいいでしょうか」
「そうね、この時間だし」
「そんじゃ、訓練の続きするかぁ」
 華と夏也がキッチンに入り、晴に促され、樹を置いて次々に腰を上げ庭へと出ていく。涙を拭い、引き締めた顔を上げた昴を見て、大河は口角を緩めた。
「大河くん、手紙ここに置いておくから。忘れずにしまうんだよ」
「はい。ありがとうございました」
 茂は手紙をローテーブルに置くと、ちょっと用を足してくるよ、と柴と紫苑に告げてリビングを出た。夏也に呼ばれた藍と蓮が膝から下りてダイニングテーブルに駆け出す。
 大河は影唯に電話をかけながら、テーブルに置かれた手紙をじっと見つめる柴を眺めた。隗の代わりに謝罪した柴は、どう思っただろう。と、宗一郎と明がソファから床に移動した。
「あ、父さん? 俺」
 繋がった電話に答えながら、地図を指差して何か説明する宗一郎と明を見やる。
「うん。元気かい?」
 昨日話したばかりなのにと、つい苦笑いが漏れた。蝉の声が大きい。畑にいるようだ。
「元気元気。今大丈夫?」
「大丈夫だよ。どうしたんだい」
「あのさ、昨日の今日で悪いんだけど、やっぱり影綱の日記も送って欲しくて」
「ああ、それなら一緒に送ったよ」
 予想だにしなかった答えに、大河はきょとんと目をしばたいた。キッチンからバターの香ばしい香りが漂う。
「え、ほんとに?」
「うん。あの後、省吾(しょうご)くんに言われたんだ。独鈷杵の在り処が書かれてないのはおかしいから、もしかして間違ってるか抜けてる箇所があるんじゃないかって。宗史くんか晴くんが読めないかなと思って、一緒に送ったんだ」
 その可能性は気付かなかった。大河は感嘆の息を吐き、省吾グッジョブ! と心の中で称賛を送った。持つべきものは気が利く幼馴染みだ。
「省吾すごいな。分かった、宗史さんもだけど、宗一郎さんたちが読めるらしいから、伝えとく」
「読めるんだ、すごいなぁ。でも、その言い方だと宗一郎さんたちに見せるためじゃないんだね。何かあったのかい?」
「あ……うん……」
 そうか、宗一郎たちに見せるためと言えばよかったのか。大河は言い淀み、ちらりと柴と紫苑を見やる。ちょうど話が終わったらしい、宗一郎と目が合った。首を傾げた宗一郎に、明と二人もこちらを振り向いた。大河は四人を順に見て、わずかに口角を上げた。
「今さ、寮にいるんだけど」
「うん?」
「柴と紫苑も一緒なんだ」
 するりと告げた言葉に、影唯が沈黙した。
「……え?」
 なんとか絞り出したといった風の声に苦笑する。突然、一戦交えた鬼と生活を共にしていると言われれば戸惑うのは当然だろう。電話の向こう側から、どうしたの? と雪子の声が届き、ぼそぼそと話し声がした。しばらくして、どうやらスピーカーに切り替えたらしい、少し遠い雪子の声が聞こえた。
「大河」
「あ、母さん? あのさ」
「お父さんから聞いたわ。どういうこと?」
 大河の言葉を遮った雪子の声は、驚きと心配と焦りが混じっている。おそらく、何をどう話しても心配を煽ってしまう。ならばせめて、柴と紫苑が一緒にいることへの不安を取り除かなければ。
「あのさ、影綱の日記に書かれてた三鬼神って覚えてる?」
「え? うん。確か、柴の他に隗と皓っていう鬼だったよね」
 話題の転換に、少々戸惑い気味で答えたのは影唯だ。
「そう。その鬼がさ、復活してた」
「――え?」
 唖然とした声だった。
「ちょっと大河」
「聞いて」
 焦りを強くした雪子の言葉を強く遮って、大河は続けた。受け答えから会話の内容を何となく察している様子で、宗一郎たちが黙って見守り、ダイニングテーブルでも、一体何個目なのか、バームクーヘンを齧りながら樹が耳を澄ましている。
「柴と紫苑は、隗と皓を止めたいって言ったんだ。俺たちもこの事件の犯人を捕まえたい。利害が一致した。だから今一緒にいる。それに、助けてくれた」
「助けてって……」
 雪子が呆然とした声で呟いた。
 殺人事件の渦中にいるというだけでも心配をかけているのに、さらに三鬼神のうち二人が敵側にいると聞かされれば、心配するなという方が無理だ。それに鬼の習性の問題もある。だが、影唯も雪子も、柴と紫苑の強さや性格、信条を知っている。二人がどこまで割り切って、信じてくれるか。
 しばらくぼそぼそと話し声が聞こえて、やがて硬い声で影唯が問うた。
「それは、宗一郎さんたちも承知していることなんだね?」
「うん、もちろん」
 そうねぇそれなら、と雪子のしぶしぶとした声がして、大河は苦笑した。どうやら息子よりも宗一郎たちへの信頼の方が大きいらしい。
「分かった――無理をするんじゃないよ?」
 一瞬、何か言いかけたように思えたが、返ってきたのは息子を心配する言葉だった。きっと、聞きたいことは山ほどあるだろうに。宗一郎たちを信用しているとはいえ、どんな気持ちで受け入れてくれたのだろう。
「うん、ありがと。大丈夫」
「あまり信用できないなぁ。お前はおじいちゃんに似てるし、変なところで負けず嫌いだから」
「あ、酷い。それが息子に言う台詞?」
「親心だよ」
 くすくすと耳元で響く二人分の笑い声に、大河は照れ臭そうにはにかんだ。茂と香苗が連れ立って戻ってきて、微笑ましそうな笑みで大河を見やり縁側へと向かった。香苗の目はまだ赤いが、笑えるのなら大丈夫そうだ。
「それで、もしかして柴と紫苑に日記を見せるのかい?」
「うん、そう。二人とも字が読めるんだって」
「へぇ、誰に習ったんだろうね。あの時代の識字率はかなり低かったのに」
 もしかして影綱かしらね、と言った雪子の意見に、大河はそうかもと心の中で同意した。食事の作法も影綱から教わったのかもしれない。
「それ、今度二人に聞いてみるよ」
 おもむろに柴が腰を上げ、ゆっくりと大河に歩み寄った。
「時間がある時にでも、また連絡するから……」
 目の前に立ち塞がった柴を見上げて首を傾げる。どうしたの? と電話の向こうから心配する声がした。
「少し、話せるか」
 まさかの申し出に大河は目をしばたいた。
「え、ああ、うん。あー待って、どうせなら」
 携帯を柴に差し出そうとして思い付いた。声だけより、きちんと顔を合わせて様子を見てもらった方がさらに心配もなくなるだろう。大河は携帯を耳に当て直し、
「ビデオ通話にするからちょっと待って」
 そう言い置いて、返事も待たずに携帯を操作した。ビデオ通話のボタンをタップすると、すぐに画面が切り替わる。
 画面に映る影唯と雪子は、頭にタオルをかけて上から麦わら帽子を被るという、いかにも畑に出ていますと言った風体だ。背景には、眩しいほどの真っ青な空と鮮やかな緑色の裏山が映っている。電話はしたけれど、顔を見るのは島を出て以来だ。少し照れ臭くて、ほっとする。
「いきなりどうしたんだい」
 懐かしそうな目をして微笑む二人に、大河はへらっと笑った。
「あのさ、柴が話したいって言ってるんだけど、いい?」
「え?」
「代わるね」
 ちょっと待ちなさい大河! と慌てふためく影唯の声を無視して、大河は腰を上げた。
「紫苑も一緒の方がいい?」
「そうだな」
「じゃあ、座って」
 元の位置に促して紫苑の隣に柴が正座すると、大河は逆隣から膝立ちの恰好で腕を伸ばして携帯を前に掲げた。何故か見事に実ったキュウリと長靴が映っている画面を見ながら説明する。
「このまま話せば聞こえるから。この野菜が映ってるのは向こうの様子で、左上の小さい四角は、ほら、こっちの様子が映るようになってるんだ。ちゃんと顔が入るように調整して」
 柴に手渡すと、おっかなびっくりと言った様子で大河を倣って携帯を掴んだ。画面から興味津津な顔で近付いたり遠退いたりして、映像の変化を確認する。何だろう。鏡に映った自分の姿に警戒する猫のようだ。
「分かった」
 時間差で柴が納得すると、紫苑は床を後ろに滑って姿勢を正した。主と同じ位置、というわけにはいかないのだろう。大河は未だにキュウリが映っている画面に呼びかける。
「父さん、母さん。何してんの?」
 声をかけるとがさがさと音がして画面が揺れ、影唯と雪子が映し出された。麦わら帽子を脱いで髪を整えている。
「だってお前、こんな恰好で」
 気にするのはそこなのか。鬼と話しをするという部分ではなく。やはり暢気というか、鋼鉄の心臓だ。
「そんなの気にしなくていいって。じゃあ、どうぞ」
 やれやれというように大河は腰を上げ、思い出した筋肉痛の痛みに顔を歪めてソファへ戻る。柴は紫苑が入るように調整し、改めて姿勢を正した。
「お初にお目にかかる。私は三鬼神が一人、柴。後ろにいるのは我が腹心、紫苑だ」
 紫苑が浅く頭を下げる。影唯の緊張した咳払いが聞こえた。
「はじめまして。大河の父の影唯です」
「母の雪子です。はじめまして」
 おそらく二人が頭を下げているのだろう。柴は一呼吸置いてから言った。
「こうして対話を申し出たのは、以前、貴殿らのご子息に傷を負わせてしまったことを詫びるためだ。大変申し訳ないことをした。すまなかった」
 携帯ごと頭を下げた柴と、当然のように倣う紫苑に、大河は目を瞠った。あの時のことを謝罪するために、わざわざ使い慣れない携帯を使おうと思ったのか。
 柴が頭を上げてからも、しばらく沈黙が流れた。これは確実に唖然としている。柴が続けた。
「許せと言うつもりはない。だが」
「あっ、いや、そうじゃないんだ」
 我に返った影唯の声はかなり動揺している。すぐに自分を落ち着かせるような、深い溜め息が聞こえた。
「そうか、気にしてくれてたんだね」
 そう、ともう一度呟いて、影唯は口をつぐんだ。柴は、何か思案しているであろう影唯と雪子の反応をじっと待っている。
「柴、紫苑」
 唐突に名を呼ばれ、二人は一度瞬きをした。
「息子を、どうかよろしく」
 思いもよらない言葉に大河はきょとんと目をしばたき、柴と紫苑は目を丸くした。顔を合わせた方が相手の機微が分かるだろうとビデオ通話にしたけれど、まさかこうも早く信用を得られるとは。宗一郎たちへの信用が大きいとはいえ、自分が信じている柴と紫苑を信じてくれたのは、なんだか嬉しい。
 柴が力強く頷いた。
「三鬼神の名にかけて、必ず守ると約束しよう」
 精悍な顔つきで宣言され、思わず頬が引き攣った。そこは「ああ」とか「分かった」とかでいいし、そういう台詞は女の子に言うものだろう。晴いわく公然告白された樹はこんな気持ちだったのか。樹さんごめんなさい、と心の中で謝る。
 大体、男として守ると断言されるのはどうなのか。これが女の子ならば顔を赤らめきゅんとして恋愛モード突入になるのだろうが、男が男に守ると断言されるなど、不甲斐無さと情けなさでいっそ泣けてくる。確かに弱いし頼りにならないし実際助けられた。だからと言って守られることをほいほい喜ぶほど男を捨てていない。
「ありがとう。心強いよ」
 そう言った影唯の声は、大河には届いていない。
 衝撃のあまり凍り付いた大河がぐるぐると考えている間に、携帯は宗一郎へと手渡され、明も加わり穏やかな挨拶が交わされる。
 そもそも影唯も影唯だ。心配してくれる気持ちは嬉しいが、庭で訓練をしている宗史らはともかく、華と夏也もいて声が届いているこの場所でそんなことを言わなくてもいいのに。良かれと思ったビデオ通話が仇になった。
 と、視界の端に嫌なものが映り、大河はそろそろと顔を向け、息を詰まらせた。
 キッチンで微笑ましそうに笑みを浮かべた華と、何故か満足気に頷く夏也がこちらを見ていた。
 元より男としての威厳は無いに等しい。華と夏也は大人の女性で強く、こちらは未成年の学生でまだまだ未熟だ。二人からしてみればまさに弟同然だろう。しかし恰好を付けたいお年頃としては聞かれたくなかった。だがそれ以上に、聞かれたくない人物が一人。
 大河の顔がじわじわと赤みを帯びていく。とたん、フレンチトーストを食い尽し、ニヤけ顔をしていた樹が噴き出した。
「顔真っ赤! ねぇ皆聞いてー!」
「わ――――っ!」
 やっぱりだ。言うや否や、樹は跳ねるように席を立つと小走りに縁側へと向かい、大河は筋肉痛を忘れ勢いよく立ち上がった。皆が何だ何だと動きを止めて注目する。
「あのねー、柴がねー」
「樹さんやめてぇ――――!」
 大河は情けない叫び声を上げながらソファの背もたれを飛び越え、つんのめりながら樹に駆け寄り背後から飛び付いて口を塞いだ。
「何のつもりですかやめて下さいよ!」
 もごもごと何か言っているが聞く耳を持つ必要はない。これ以上心を折られてたまるか。
 式神らまで一緒になって興味津々に集まり、樹の口を塞ぐ大河の両手首を掴んで引っぺがしたのは、意外にもおもむろに縁側に上がってきた(せん)右近(うこん)だ。式神に両側から拘束されると成す術がない。それでも往生際悪くじたばたする大河をよそに、樹は容赦なく先程の会話を大公開した。
「お願いやめて――――っ!」
 縁側から大河の悲痛な声と皆の笑い声が響く中、柴は首を傾げた。
「紫苑」
「はい」
「私は、何か余計なことを言ったか?」
「いいえ、まさか」
「では、大河は何故あのように抵抗しているのだ?」
「柴主のお言葉を、胸の中に大切に留めておきたいのでは。よほど嬉しかったのでしょう」
「そうか。ならば、私も約束をした甲斐がある」
 そう言って柴はゆったりとグラスを傾け、紫苑は満足気に頷いた。
 本気なのか主の尊厳を保つためなのか分からない解釈をした紫苑と、それを疑うことなく信じた柴に、宗一郎と明が必死に笑いを堪えている。大河の悲鳴が届いたらしい、すみません落ち着きのない子で、と影唯と雪子の申し訳なさそうな謝罪に、宗一郎はいいえと携帯の画面を縁側へ向けた。
「彼の明るさには、皆助けられていますよ」
 からかわれる自分の姿が両親に配信されていると大河が知ったのは、数分後だ。
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