第10話

文字数 7,118文字

 あのあと、宗一郎と明によって大河と陽、美琴と香苗の訓練の進捗具合がチェックされた。陽と美琴はすんなり合格が出た。香苗はお試し段階なので、失敗してもお咎めなし。むしろ皆、興味津々にあれこれと意見を出し合ってひとしきり盛り上がっていた。そして大河はと言えば、宗一郎と明からは合格が出たにもかかわらず、樹が非常に不機嫌な顔で「昨日より精度が下がってる、駄目」と苦言を呈した。大河の全身筋肉痛に加え霊刀の不出来、さらに自業自得とはいえ自身への処分と、樹を苛立たせる要因は十分だ。大河はずるずると庭の端に引き摺られ、式神五人に鬼二人という、最強の指導組から訓練を受ける皆を横目に、夕飯の時間までみっちりしごかれた。
 入浴を済ませて自室に入ったのが十時頃。
 無理矢理体を動かし、さらに風呂であちこち揉みまくって筋肉をほぐしたおかげだろうか。朝よりは大分痛みも引いてきた。
 宗史から連絡があるまで、とりあえず独鈷杵の練習をした。どことなく不格好な霊刀に首を傾げながら、携帯の待ち受けにしている童子切安綱を確認しながら具現化を繰り返す。感覚は体に馴染んだが、意識的に再現率を上げるには、やはりイメトレが最適なようだ。
 とりあえず使い物にならないわけではない。ここは地道に修正するしかないかな、と三十分ほど具現化に勤しみ、続けて護符と霊符の練習に移った。
 睡眠時間が三時間の上に樹からのしごきで、すでに眠気に襲われている。本当は新しい真言をいくつか覚えたいのだが、この状態での暗記は寝落ちする確率が高い。だったら手を動かす作業がいい、と自分で考えた結果だ。何もせずに寝るという選択肢はなかった。
 十一時。手だけを動かしていても無駄だった。思い切り船を漕いでいたところに、宗史からの着信で跳ねるように飛び起きた。心臓が口から飛び出すかと思った、と思いながら電話に出ると、見事にうたた寝していたことがバレた。最近、完全に思考や行動パターンが読まれてきているのは気のせいだろうか。
 そして、先程の報告。
 大河は通話が切れたことを確認して、携帯を握る手に力を込めた。宗史は鋭い。上手くごまかせただろうか。
 携帯を机に置き、長く息を吐き出して腰を上げる。とりあえず先にするべきことをしなければ。震えた携帯を一瞥し、大河は部屋を出た。
 一緒に風呂に入って部屋の前で別れたけれど、あれからどうしただろう。リビングに下りたかもしれない。
「柴、紫苑、いる?」
 二人の部屋の扉をノックしながら声をかけると、すぐに扉が開いて紫苑が顔を覗かせた。
「そろそろいいかな?」
「ああ」
 後ろから柴が顔を出した。
「俺の部屋でいい?」
「ああ」
「二人とも、何してたの?」
 柴が部屋から出て、紫苑が扉を閉めた。
「地図を見ていた」
「ああ、そっか。俺も覚えなきゃ」
 二人を部屋に招き入れ、しっかり扉を閉めてから、大河は携帯を手に取った。
「先に確認して欲しいものがあるんだ」
 送られてきた渋谷健人の写真をタップする。二十代前半くらいでスーツ姿、髪もきちんと整えられ、清潔感がある。少し緊張した面持ちで映っているところを見ると、履歴書の証明写真だろう。爽やかなサラリーマンといった印象を受ける。携帯を握る手に、力がこもった。
「紫苑が船で見た人って、この人?」
 携帯の向きを変えて差し出すと、二人が覗き込んできた。紫苑はじっと見つめ、やがてああと頷いて顔を上げた。
「この男だ。間違いない」
 自然と息が詰まった。
 携帯を向けたまま動かない大河を紫苑が怪訝そうに眉を寄せ、柴が見据えた。
「……ほんとに、間違いない?」
 俯いて、呟くように確認した大河に、紫苑がもう一度ああと答えた。
「髪の長さは違っているが、目元にあるほくろの位置も同じだ。間違いない」
 淀みない説明。大河はそっかと息をついて肩を落とした。
「あ、それともう一枚。こっちも一応見てくれる?」
 大河は画面をフリックして、女の似顔絵を表示した。こちらはかなり曖昧だ。髪型はセンター分けでボブくらい、Tシャツとパンツ姿に見える。顔はほとんど分からない。鼻も口もなく、唯一、目がうっすらと吊り目のように描かれているが、果たして正確なのかどうか。状況からして、おそらく身長や正確な体型もはっきり分からなかったのだろう。余白に「細身?」と書かれている。
「見覚えがない」
「私もだ」
 大河はだよねと嘆息した。ここまで曖昧だと、似ている女性はごまんといそうだ。宗史へ「船の男に間違いないです。似顔絵の方は見覚えなし」と端的にメッセージを送る。
「どういった奴らだ?」
 柴に尋ねられ、大河は二人をベッドに座るように促した。柴はベッドの端に腰を下ろしたが、紫苑は側に控えた。ソファでは隣に座るのになんでだろう、と頭の隅で考えながら、大河も椅子に腰を下ろす。
 さっきは動揺してしまったが、これ以上二人に悟られないようにしなければ。大河は一拍置いて口を開いた。
「今の似顔絵の人は、まだ分かってない。でも悪鬼を連れてたらしいから、平良たちの仲間だってことだけは分かってる。紫苑が見た人は、渋谷健人って言って――昨日、紺野さんたちが新しい犠牲者が二人出たって言ってたの覚えてる?」
「ああ」
「一人は白骨で発見されて調べてる途中なんだけど、もう一人は田代って男の人で、昔……人を殺してる」
 言葉にできなかった。健人の妻子を殺し、しかも法律上は無罪だなんて。
「もしや、あの男は、殺された者の家族か?」
 察しがいい。こくりと大河が頷くと、そうかと柴は呟いた。
 重苦しい空気。このままだと押し潰されそうだ。大河は唇を結び、笑みを浮かべて顔を上げた。
「さて、話し終わり。どっちが先? 柴?」
 椅子から立ち上がり、二人を見比べる。紫苑が柴に顔を向けた。
「柴主、お先に」
「……ああ」
 大河は柴の左隣に腰を下ろし、首を傾げた。
「ていうか、どこを噛むの? やっぱり肩?」
「どこでも構わぬ」
 そう言われると、どこが一番痛みを感じないだろうと思ってしまう。足や腕は、なんだが肉を齧られている気になりそうだ。胴体はさすがに嫌だし、そもそも噛み辛いだろう。頭はきっと死ぬ。顔は勘弁して欲しい。というか柴も嫌だと思う。首は動脈に刺さると大出血だ。吸血鬼か。となると、
「やっぱり肩かな」
 言いながら、大河は袖を目一杯捲り上げた。
「えーと、では、どうぞ」
 改まって精気を与えるというのも、なんだかおかしな感じだ。
 柴は上半身を捻り、両手で大河の腕を掴むと肩に顔を寄せ、口を開けた。針で刺されたようなピリッとした痛みに体が小さく震え、大河は顔を歪めた。ゆっくりと牙が食い込んでいく。
 あ、遠慮してる。
 島で噛み付かれた時はかなり深く食い込んでいたが、今はほんの少しだ。それでも体の中から精気が無くなっていく感じが分かる。ゆっくり、少しずつ。
 頬に触れる柴の長い髪から、コンディショナーの香りが漂い鼻腔をくすぐった。鬼とシトラスの香りがどうにもミスマッチに思えて、大河は笑いを噛み殺した。噛み付かれて精気を吸い取られているというのに、あの時と違ってこれっぽっちも怖くない。
 大河は力を抜いて目を閉じた。
 今怖いのは、自分の中に生まれた迷いだ。
 自分と同じ被害者遺族の健人が、事件に加担しているかもしれない。そう聞かされた時、どうして今まで気付かなかったのだろうと思った。いや、考えないようにしていたのだ。
 犬神事件の母親も雅臣も、そして健人も、自分を傷付けた者を、家族を奪った者を恨み、許せずに復讐した。その恨みも憎しみも理解できるし、復讐したいと思う気持ちを否定できない。
 だとしたら、自分は?
 影正が死ななければならなかった理由を知って、どうする?
 その先は?
 これ以上犠牲者を出したくないとか、悲しむ人を増やしたくないとか、罪を重ねて欲しくないとか、生贄にされた人のためにとか、そんなのはただの建前で、心の奥底では、隗はもちろん、事件に加担した者たちに復讐を望んでいる。だから、ここへ戻ろうと思ったのではないのか。宗一郎と樹の見解をすんなり受け入れられたのではないのか。
 つまりそれは、偽善ではないのか。
 そう気付いた時、頭が真っ白になった。
 もちろん、復讐心が一切無いとは言わない。そこまでできた人間じゃない。影正が死んだ直後に感じた、体を侵食するあの怒りと憎しみもまだ覚えている。それでも、影正が残してくれた手紙や皆がいてくれたから、憎しみに囚われずに済んだ。けれど、もしまた隗と対峙した時、どうするだろう。どんな気持ちになるだろう。自分の中のどこかにいる、憎しみに囚われたもう一人の自分に支配されるかもしれない。母親や雅臣や、健人のように。
 覚悟が揺らぐ。
 今、自分が歩んでいる道は、正しいのだろうか。
 ゆっくりと牙が抜かれる感触がして、大河は瞼を上げた。
「もういいの?」
 あまり精気が減っていない気がするが。大河が尋ねると、柴は体を離した。
「ああ。お前は、大事無いか」
「うん、平気」
 力が抜けた感じもめまいもない。かなり加減してくれたらしい。
 傷口からぷっくりと血が盛り上がった。傷口が小さい証拠だ。拭き取った方がいいかなと、大河が机の上のティッシュを取ろうとして腰を浮かせると、一歩先に紫苑が動いた。
「大事無いとはいえ、不用意に動くな」
「……ありがと」
 意外と気を使うタイプなのだろうか。そういえば、会合で夏也を励ますような発言をしていたな、と思い出しつつ、手渡されたティッシュを受け取ってひとまず止血する。と、扉が鳴った。
「大河様。椿でございます」
「どうぞー」
 明るく促すと扉が開き、椿が顔を覗かせた。
「失礼致します」
「今、柴が終わったとこなんだ。もうちょっと待ってくれる?」
「はい」
「紫苑、いいよ」
「ああ」
 大河が押さえていた傷口から手を離すと、紫苑は正面に立ったまま腰を曲げ、両腕を掴んで肩に顔を寄せた。柴が噛んだ部分とは違う場所に痛みが走る。一瞬息を詰めて、吐き出す。紫苑も柴と同じで、深く噛み付いてこない。本当に、鬼らしくない鬼たちだ。
 ふと、扉の前で待つ椿が目に入った。どことなく心配顔だ。
「椿、お守りのこと聞いてる?」
「あ、はい、聞いております」
「悪いんだけど、護符見てもらってもいい? ついでにお守り袋も選んでもらえると助かる。机の上にあるから」
「はい、もちろんでございます」
 椿は微笑んで机に歩み寄り、丁寧に半紙を手に取るや否や、硬直した。大河は目だけを椿に向ける。
「どう? 使えそう?」
「……おそらく、使えると……思います……多分」
 非常に曖昧な返事が、どれだけ微妙な出来かを正確に表している。そっか微妙か、と悲しげにぽつりと呟くと、紫苑の背中が小さく震えた。しっかり会話を聞いているようだ。
「あっ、でもっ」
 椿が慌てて振り向いた。
「まったく効果がないわけではありません。大河様が紺野様たちのことを思うそのお気持ちが、何よりも一番大切なんですよ」
「……ありがと」
 必死のフォローが逆に虚しい。大河は遠い目をした。
「お守り袋に入れますね」
「うん、お願い」
 はい、と気まずそうな笑みを浮かべて、椿は放り出されてあったハサミを手に取った。
 慎重に半紙にハサミを入れる椿から、視線を向こう側の壁に移す。何というか、実に不思議な空間だ。本来敵対する者同士が同じ部屋にいるなんて。その上、自分は自ら鬼に精気なんぞを与えている。よくよく考えたらシュールな絵面だ。
 あの日、別の選択をしていたらこんな光景を目にすることはなかった。部屋に引きこもり、漫然とした夏を過ごしていた。省吾たちが気を使って様子を見に来たり、外に連れ出して海や祭りに誘ってくれたかもしれない。そして、そのうち事件の顛末を知らされ、皆の顔も名前も忘れて、ただ辛い経験として記憶に刻まれていた。二度と京都に足を踏み入れることはなかっただろう。柴と紫苑も、かつて嫌だったこの力も、自分自身をも恨みながら生きていくことになっていた。
 もちろん今でも、影正の死を完全に割り切れてはいない。どれだけ理屈を並べても、影正が責任を感じるなと言っても、あの時自分に力があればという後悔は、一生消えない。
 それでも今こうして柴と紫苑と笑い合えるのは、この力を受け入れられたのは、やっぱり皆がいてくれたから。だからあの時の選択は間違っていない、正しかった――そう、思いたいのに。
 今の自分が一番後悔しないと思う選択をしろ。影正はそう言った。後悔しないように全力で進めば、その先にどんな未来が待っていても受け入れられると。
 ならば、選んだこの道が、結局は復讐のための道だったとしても、彼らと同じ道を選んでいたのだとしても、受け入れられるだろうか。
 ――分からない、自信がない。
 分かっているのは、あと戻りができないところまで来ているということだけ。
 彼らは、復讐を果たして気が晴れたのだろうか。
 ゆっくりと牙が抜かれ、紫苑が体を起こした。
「もういい?」
「ああ。お前は何ともないか」
「平気」
 二人揃って気遣ってくれる。大河は握っていたティッシュで傷口を押さえ、笑顔で紫苑を見上げた。
 ちょうど護符を入れ終わった椿が振り向いた。
「では大河様、治癒を」
「うん、お願い」
 紫苑が柴の側に控え、入れ替わった椿が両手を肩にかざす。
「精気も足しておきますね」
「ありがとう」
 やはり多少の痛みは伴うが、傷が浅いため大した痛みではない。しかし、細胞が再生するむず痒い感覚は慣れない。
「ね、椿」
「はい」
「来る時、大丈夫だった?」
 バツが悪そうに視線を落として尋ねると、椿がくすりと笑った。
「はい、何も問題ありません。宗史様から、大河様が心配されているとお聞きしました。ありがとうございます」
 椿が礼を言うことではないのに。
「俺、いつも気付くの遅くて。ごめん」
「大河様がお気に病む必要はありませんよ」
「でも、今から晴さんのところにお守り届けてから帰るんだよね。大丈夫?」
「大河様……」
 椿が少々困ったように眉尻を下げた。
「ならば、私たちが送り届けよう」
 不意に柴が口を挟んだ。大河と椿が振り向く。
「いえ、しかし……」
「世話になっておいて、何もしないわけにはいかぬ」
 言いながら腰を上げた柴を目で追いかけ、大河と椿は顔を見合わせる。同時に笑みが漏れた。
「では、お言葉に甘えさせていただきましょう」
「俺も、二人が一緒だったら安心」
 くすくすと笑う二人に、柴が不思議そうに首を傾げた。
 牙の時は分からなかったが、全身に温かい気が広がっていくのが分かる。ぬるま湯に浸かっているような、心地良い温もりが眠気を誘う。大河はあくびを噛み殺した。
「お待たせいたしました、終わりましたよ」
「あ、うん」
 肩を見やると、跡形もなく綺麗に治っている。
「さすが椿。いつもありがとう」
「いいえ。とんでもございません」
 謙遜して椿が腰を上げる。つられるように袖を伸ばしながら腰を上げた大河を制したのは、紫苑だ。
「お前はもう休め。昨夜のようにまた倒れるぞ」
 大河は目をしばたいた。昨夜。
「あっ、もしかして、昨日部屋まで運んでくれた?」
「ああ。柴主自らがお運びになられたのだ。有り難く思え」
 胸を張った紫苑に、大河はああうんそうだねと軽く返す。確かに有り難いが、紫苑が求める意味とは多分ちょっと違う。
「柴、ありがとう」
「構わぬ。だが、今日はあまり寝ておらんだろう。眠そうな顔をしている」
「そうですよ、きちんとお休みになってください。心配になります」
 そう言われては、せめて玄関までというわけにもいかない。それに、柴が言うように横になって三分以内には寝られる自信があるくらいには眠い。
「うん、分かった。じゃあそうさせてもらう」
「はい。電気も消しておきますので、そのままお休みになられてください」
「はーい」
 小さく笑いながら、言われるがままごそごそと布団にもぐり込んだ大河に、椿がきちんとタオルケットをかけ直す。母親というよりは世話好きの姉と言った感じで、一人っ子としては少々照れ臭い。
「式神、護符を持って行くのだろう。忘れるなよ」
「はい」
 紫苑が机を指差して尋ね、椿が踵を返した。ベッドと机の間は距離があるが、枕からは真横の位置だ。大河は頭を動かして様子を眺めた。
 椿と紫苑が机の上を覗き込んでいる。
「まだ華様たちがリビングにおられるので、袋を持っていては不審がられますね」
「袂に入れてはどうだ?」
「そうですね、そうしましょう」
 椿は袂に手を突っ込んで、お守りを丁寧に入れていく。
「また奇怪な柄ばかりだな」
「可愛らしいと思いますよ」
「これがか?」
 紫苑は理解し難いと言いたげな声を絞り出した。
「ところで、紫苑」
 椿が顔を上げ、紫苑の方へ顔を向けた。
「私には、宗史様から頂いた椿という立派な名があるのです。きちんと名前でお呼びください」
「……それは、すまない。椿」
「はい」
 椿の背中で表情は見えなかったが、紫苑の口調は気圧されたようだった。椿の宗史に対する忠誠心は、紫苑に負けずとも劣らないものがある。にっこり笑って威圧したに違いない。
 視線を下へ向けると、柴が二人を黙って見守っていた。どこか微笑ましげというか、嬉しそうだ。
 睡眠不足に訓練の疲れ、少し足りない精気にこのまったりした空気が手伝って、徐々に意識が薄れていく。うつらうつらとしてぼやけた視界に映り込んだのは、多分椿。おやすみなさいませ、と聞こえたような聞こえなかったような。
 電気が消され、扉が静かに閉められたと同時に、大河は意識を手放した。
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