第4話

文字数 3,392文字

「おはよー」
 ダイニングの扉が開かれ、弘貴の声が飛び込んできた。三人同時に視線を投げる。
「あれ、大河早いな。ちゃんと寝たか? 柴と紫苑も、おはよー」
 さすがと言うべきか、柴と紫苑にも何の躊躇もなく挨拶をし、まだ少し寝ぼけ顔の弘貴がずかずかと入ってきた。その後ろから春平(しゅんぺい)が顔を出す。
「二人ともおはようっ」
 天の助けとばかりに声を張った大河に、春平が扉を閉めながらおはようと苦笑いを浮かべて返した。弘貴は、麦茶麦茶、とさっさと冷蔵庫を開け、一方春平は、どこか緊張の面持ちで立ち止まり、そして意を決したような勢いで言った。
「さ、柴、紫苑、おはようっ!」
 名指しで挨拶をした春平を、弘貴が窺うように肩越しに振り向き、大河は名指しされた二人を見やる。
 昨日、玄関では気付かなかったけれど、庭に回った時に気が付いた。春平と(すばる)の顔が少し強張り、香苗(かなえ)が怯えた顔をしていることに。柴と紫苑が縁側で足を止め、頭を下げてからは香苗の緊張感は解けたようだったが、春平と昴にあまり変化は見えなかった。
 一瞬間を置き、柴と紫苑は特に表情を変えることなく、けれどとても穏やかな声で返した。
「おはよう」
 同時に返ってきた挨拶に、春平はどこかほっとしたような笑みを浮かべてキッチンへ入った。口元を緩めた弘貴と目が合い、大河は相好を崩した。自分にあれこれ言う資格はないから何も言えない、そう思っていたけれど、そもそも言う必要はなかったようだ。
「あれ? なあ、ポット一つないんだけど」
 冷蔵庫に顔を突っ込んだ弘貴の声が届き、あっと大河が声を上げた。
「ごめん弘貴、こっちにある。けどもうあんまり残ってないよ」
「じゃあ新しいの使っちまうか。てか、なんでそっちにあるんだよ」
 新しいポットを取り出し、春平が用意したグラスに注ぎながら尋ねる。
「柴が麦茶気に入ったみたいでさ、行ったり来たりするの面倒だから持ってきた」
「ふーん。別に普通の麦茶だけどな。つーか、平安時代に麦茶ってなかったのか?」
「あったみたいだよ。でも、麦湯って言って、貴族しか飲めない高級品だったんだって」
「麦茶が?」
「そう」
 へー、と感心したように相槌を打ち、弘貴と春平は一気にグラスを煽った。大河は残りの麦茶を柴と紫苑のグラスに注ぐ。ぬるくなる前に飲み切った方がいいだろう。さっそく二人はグラスを持ち上げた。何気に紫苑も気に入っているのかもしれない。
「ところで、へいあんじだい、とは、私たちがいた世のことか?」
 唐突に尋ねた柴の質問に、思わず手が止まった。え? と顔を上げると、柴も紫苑も揃って首を傾げている。
 いや、待て待て。平安時代は平安時代だ。分からないことが分からない。ポットを抱えたまま、思わずこてんと首を横に倒した大河の代わりに答えたのは、春平だった。
「ああ、時代区分って、ちゃんと使われ始めたのは明治くらいらしいよ」
「えっ、そうなの!?」
「へぇ、そうなんだ」
 大河と弘貴の驚きの声に、グラスを持ったままキッチンから出てきた春平が苦笑いを浮かべた。柴と紫苑から視線を向けられ、えっと、と若干躊躇しつつ説明する。
「桓武天皇が平安京に遷都した794年から、鎌倉幕府が成立するまでの約390年間のことを、今は平安時代って言うんだ」
「桓武天皇のことならば記憶にあるが、794年……?」
 まだピンとこないらしい。
「あ、西暦が駄目なのかな。えーと、元号で言ったら何になるんだろう……」
 春平は、ダイニングテーブルにグラスを置いて携帯で検索を始めた。覚える時は西暦のため、柴たちとは逆に元号の方が馴染みは薄い。いやそれ以前に、柴と紫苑は一体いくつなんだ。
「延暦13年」
 ああ、と柴と紫苑から納得の声が上がった。本当にその頃には生まれていたらしい。ということは、封印されていた間は省くとして、大戦が勃発したのは晴明が生きていた頃だから少なくとも――晴明が生きてたのっていつだ! 大河は歴史を選択しているにも関わらず全く出てこない自分の浅学さに打ちのめされた。ちゃんと勉強しよ、とポットを握り締めたまま一人反省会を開く。
 西暦って日本では19世紀に入ってから使われ始めたんだって、結構最近なんだな、とついでに検索したらしい西暦の歴史について弘貴と一緒に感心している春平に、柴が言った。
「春、と言ったか。ありがとう」
 携帯から顔を上げた春平が、大きく目を見開いた。
 痛み入るとか、感謝するとか、硬い礼ならば昨日口にしていたが、ありがとう、と言ったのはこれが初めてだ。それは、怯えていたはずの春平が、自ら歩み寄ったことへの返事なのかもしれない。
「あ……ううん。ぼ、僕が答えられることなら、ちゃんと答えるからっ」
 まだ少し残る緊張からか、それとも礼を言われた嬉しさからか。うっすらと頬を上気させ、ぎゅっと携帯を握り締めて告げた春平に、柴と紫苑はゆっくりと頷いた。
「よろしく頼む」
 三人のやり取りに大河は満面の笑みを浮かべ、弘貴は口角を緩めて春平を見下ろした。
「さてと、訓練するかぁ」
 両手を組んで伸びをした弘貴に続いて、春平も我に返ったようにうんと頷いた。グラスと携帯をダイニングテーブルに置いて縁側へと向かう。
「あ、俺も体ほぐしとかないと」
 時計を確認すると六時を回っていた。そろそろ華たちが下りてくる頃だ。樹は、あの様子ではいつ起きてくるか分からないけれど、怜司はせめて朝食の時間には起きてくるだろう。それまでにある程度動けるようになっておかなければ、地獄が待っている。
 予想外に会話が長引き、同じ体勢でいたため体が固まり始めていた。大河は俯いてゆっくりと、じわじわと胡坐を崩し、なんとか縁側から足を投げ出した。昨日の置きっ放しにしていたスニーカーではなく、訓練用のスニーカーに手を伸ばす。この前かがみの体勢が、なんとも腹筋と背筋に響く。
「それにしても大河、お前ちゃんと寝たのか? かなり遅かっただろ」
「あー、うん。なんか目ぇ覚めちゃって。そういう二人こそ、どうしたの? いつもより早いじゃん」
「いやぁ、だってさ、お前どんどん経験値上げてんだろ。すぐに追い越されそうでさぁ」
「何言ってんの。そんなすぐに追い越せるわけないだろ」
「そりゃ、俺らだって四年やってんだし、それなりに強いとは思ってるけど、状況が状況だしな。樹さんから駄目出し食らってるし。それに大河たちのあの姿見たら、やっぱ焦るだろ」
「ああ、まあ……」
 弘貴の気持ちは分からなくもない。宗一郎も、これから敵側の動きが活発になると言っていたし、千代(ちよ)が浮遊霊を悪鬼に変貌させ操ることができることも判明した。いつ、どのタイミングで、どの程度の戦力で仕掛けてくるか予測できない。
 そっか、と言って口をつぐみ、大河はやっと片方の靴を履き終えた。と、
「……大河お前、もしかして……」
「筋肉痛……?」
 さっさと靴を履いて庭に下りていた弘貴と春平が、遅々として進まない大河の動きに疑問を投げた。う、と声を詰まらせた大河に、案の定、弘貴がにやりと口角を上げた。
「大河、柔軟手伝ってやるよ。一人じゃ無理だろ」
「い、いいっ、大丈夫一人でできるからっ。お気遣いなく!」
 もう片方の靴を履きながら首を横に振ると、いやいやと弘貴が振り返してきた。
「何言ってんだよ、仲間だろ俺ら。遠慮することねぇって」
 見事な悪巧み顔で仲間を語る弘貴に、春平が笑いを噛み殺した。このまま靴を履き終えたらいけない気がする。危機感を覚えてさらにのろのろと靴に足を入れる大河に、痺れを切らした弘貴がしゃがみ込んで手早く履かせた。
「よし、始めるぞー」
「ちょ……っ」
 がっしりと腕を掴まれ、庭に引きずり出される。
「痛い痛い、弘貴ちょっと待って!」
「駄目駄目。樹さんと怜司(れいじ)さんが起きるまでに馴らしとかねぇとヤバいだろー」
「そ、そうだけど痛いもんは痛いんだって!」
 へっぴり腰で訴える大河の背中を見送り、柴と紫苑はゆっくりとグラスを持ち上げた。
「時に、紫苑」
「はい」
「きんにくつう、とは、大河の言う、傷ではない体の痛みのことか?」
「おそらく。我々には、少々理解し難い痛みのようです」
「……人のみに現れる痛みか」
「はい」
「……それは、難儀なことだな」
「ええ、正に」
 柴と紫苑は再度グラスを傾ける。
 徐々に気温が上がる夏の庭で、鬼ののんびりとした会話に、人の悲鳴が重なった。
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