第16話

文字数 3,612文字

      *・・・*・・・*

「やめろ、暴れるな!」
「近付くなって言ってるだろうが!」
「いい加減にしろ!」
 眼下では、背中に兵庫県警とロゴの入った制服姿の警察官三名が、スーツ姿の中年の男を取り囲んでいる。
 男の頬は腫れ、額からは一筋の血が流れている。警察官らに両腕を拘束され、背後から羽交い絞めにされ、さらに耳元では怒号が響く。それでも怯む気配がない。鬼のような形相でスーツや髪を振り乱し、離れた場所で地面に座り込む同じ年ほどの男に向かって喚き散らす。
「毎回毎回俺の手柄を横取りしやがって、ふざけんな! 誰のおかげで部長になれたと思ってんだ、偉そうに説教垂れてんじゃねぇよ! 死ねよ、お前なんか死んじまえ、この役立たずが!」
 男の怒号に引き寄せられるように、続々と警察官と野次馬が増えていく。あちこちで携帯が掲げられ、しかし誰もが遠巻きに騒ぎを傍観する。
 繁華街の一角。千代はとあるビルの屋上でひっそりと佇み、騒然とした光景を冷ややかな深紅の眼差しで見下ろしていた。湿気た夏の風が漆黒の髪をさらりと揺らし、黒い着物の裾を翻す。
 真っ赤な唇が、ゆっくりと開いた。
「どれだけ時を経ても、人は決して変わらぬ」
 誰に告げるでもなく、その可憐な姿にそぐわない古めかしい言葉を紡ぐ。
「――愚かな」
 本来夜空を彩るはずの星々は地上の明かりに飲まれ、微かな光さえ目に映らない。孤独に浮かんだ黄色い月が、静かに地上を照らす。
 千代はついと顔を上げ、ゆっくりと瞳を閉じた。
 何度、同じ言葉を呟いただろう。何度、同じ光景を目にしただろう。人の本性はあまりにも醜く、あの時から、何も変わってはいない。
「――」
 ぽつりと呟いた言葉は、誰の耳に届くことなく夏の夜空に溶けた。
 不意に、感じ慣れた気配が感覚に触れ、千代は瞼を持ち上げた。
「ああ、いたいた」
 軽い口調に、千代は一つ瞬きをした。ふわりと背後に降り立ったのは、真っ黒な犬の姿をした式神とその主だ。
「どうですか?」
 満流は問いながら杏の背中から飛び降りると、ゆったりとした足取りで千代の隣に並んだ。その歩調に合わせて、杏が後ろから付いてくる。
「見ての通りだ」
 本来、屋上への出入りは禁止されているのだろう。柵のない縁から下を覗き込んだ満流のフードを、杏がちょいと噛んだ。
 満流が肩越しに振り向いて苦笑する。
「大丈夫ですよ。落ちたりしません」
 心配症ですねぇ、と笑顔で言いながら再び下を覗き込む。フードを離そうとしない杏に、小さく肩を震わせた。
 うるせぇ放せ、殺してやると喚き立てる男の体からは、濃い邪気が大量に噴出し続けている。故意に取り憑かせた悪鬼が、新たな悪鬼として生まれ変わるのも時間の問題だ。
「あれ、回収できます?」
 思いがけない問いに千代はわずかに目を細め、横目で満流を見やった。
「完全に同化しておらぬぞ」
「構いません。多少邪気を残した方が、また利用できますし」
 完全に同化させるより、多少なりとも残せば、あの男は再び邪気を纏いやすい。ということか。千代は瞬きついでに視線を戻し、薄く唇を開いた。
「来い」
 語気を強めるでもなく、ましてや叫ぶでもなく、ただ静かに命じる。とたん、男の体から水あめのように邪気が伸び、勢いよくこちらへ向かってきた。長く長く伸びる途中で、根元がぷつっと切れた瞬間、男が喚くのをやめ、がくんと膝から崩れ落ちた。噴出していた邪気が、男の体へとなりを潜めていく。おいどうした、大丈夫か、救急車は、と怒号が響く。
 一方悪鬼は、蛇のように全体をくねらせながら目の前を通過し、頭上で暗雲のような円を描く。それを追いかけて、満流と千代が仰ぎ見た。杏はフードから口を離し、お座りをする。と、一部から一本の触手が勢い良く伸びた。
「やめぬか」
 威圧するように目を細め、千代が鋭く制する。その深紅の眼差しに気圧された触手がぴたりと動きを止め、しかしもどかしげに蠢く。
「やっぱり、同化した直後は貴方の力が及ばない部分がありますね」
他人事のような顔をした満流がポケットから棒付きの飴を取り出し、包装を剥いだ。
 美味そうに飴を口に含む満流の隣で、千代は真っ直ぐ悪鬼を見据え、おもむろに口を開く。
「憎いか」
 端的な問いかけに、触手の蠢きは小刻みな震えに変わり、悪鬼が途切れ途切れの低い唸り声を漏らした。
「お前は、どれほど奴に仕えてきた? 辛い日もあっただろう。苦悩した時もあっただろう。よく耐えた。だが、お前がどれだけ真摯に仕えようとも、身を粉にしようとも、所詮己の野心を果たすための道具。替えの利く駒にすぎぬ。お前の努力も、苦労も、犠牲も、奴らにとっては憂いてやる価値もない、踏み台程度のもの」
 千代の問いかけに呼応するように吐き出される悪鬼の唸り声は、まるでむせび泣いているようにも聞こえる。
「さぞ憎かろう。恨みは深かろう」
 とても慈悲深く、憂いを帯びた眼差しで悪鬼を見つめ、千代は続ける。
「その恨み、我らが晴らしてやろう。力を貸せ」
 ゆっくりと腕を持ち上げ、手を差し出した。
「さあ」
 逡巡するように触手が揺れ、やがて、恐る恐るといった様子でその小さな手に絡みついた。
「――来い」
 一言告げると、触手は勢いよく腕に巻き付いて這うように胴体へ伸び、本体は空を移動した。そして大きく広がり、千代の小さな体を頭から飲み込んだ。
 その光景を、満流と杏は何でもないことのように眺めていた。まるで当然のように、あるいは、見慣れたもののように。
 一瞬、電池が切れたように悪鬼が動きを止めた。と思ったら、みるみるうちに風船のようにしぼんでゆく。時間にしてほんの数秒。縮んだ悪鬼の中から見えたのは、飲み込まれたはずの千代の姿。細く小さな体に悪鬼がするすると吸い込まれ、完全に姿を消した。
 ビルの下では救急車が到着し、脱力した男が運ばれていく。もう一方の男が、血に染まったタオルで口元を押さえながら、訴えてやるからなと叫んだ。
 人知れず聞こえていた悪鬼の低い唸り声は消え去り、街の喧騒だけが届く。
 満流が、口の中から飴を取り出した。
「いかがです?」
 千代は自分の両手に目を落とし、しばらくじっと見つめたあと嘆息した。
「芳しくないな」
「おや、それは困りましたねぇ」
 満流が、うーんと思案顔で唸って飴の棒を左右に振った。
「まだ、残っておるだろう」
「ええ。いざという時のために。ですが……」
 満流は飴をくわえてしばらく思案すると、再び取り出した。
「ひとまず、今日は帰りましょう。時間も遅いですし」
 ね、と言ってにっこり笑い、腰を上げた杏に歩み寄る。
 コンビニで甘い物買って帰りましょうか、と杏の頬を撫でる満流を見やり、千代はわずかに目を細めた。何かを隠す時、彼はいつもあんなふうに笑う。
 ――今度は、何を企んでいる。
「あ」
 千代が一歩踏み出した時、満流が何か思い付いたように声を上げて振り向いた。
「千代はん、千代はん。あれ、やってくらはい」
「飴を口から出せ」
 期待一杯の目を向けられ、千代は苦言と共に眉間にしわを寄せた。満流が苦笑いで飴を取り出す。
「そんな露骨に嫌な顔しないでくださいよ。いいじゃないですか、減るもんじゃなし」
「お前は、あにめとやらの見過ぎではないか?」
「自分の力で空を飛ぶのは、全人類の叶わぬ夢ですよ」
「私の力ではない」
「何言ってるんですか。悪鬼を従わせるなんて貴方にしか、って、そんなことはいいですから。早く早く」
 引く気のない満流に、千代は長く溜め息をついた。
 凄惨な企てをするかと思えば、無邪気な顔で子供のように笑う。冷酷に人の命を奪ったかと思えば、深い慈悲を向ける。若さゆえの揺らぎか。それとも。
「――それが、本心か?」
 口の中で呟くと同時に、背中の一部から悪鬼がもこっと顔を出した。そして、飛び立とうとする鳥のように、勢いよく左右に大きく広がった。今にもバサッと音が聞こえてきそうだ。
 一瞬にして真っ黒な羽を背中に生やした千代を見つめ、満流は満足そうに微笑む。
「何度見ても見事です」
「行くぞ」
 称賛を聞き流し、千代はとんと床を蹴った。草履を履いた足がふわりと浮き、そのまま滑るように上昇する。黄色い月に重なった千代の姿は逆光で影絵のようになり、まるで本物の鳥か天使のようだ。
 悪鬼が輪郭を模しているだけで、一枚一枚羽が再現されているわけではない。鳥のように羽ばたかせることはできないし、そもそも羽ばたかせる意味もない。けれど。
「綺麗ですねぇ」
 眩しそうに、またどこか羨ましげに目を細めて千代を仰ぎ見る主の横顔を、杏が盗み見た。紫暗色の瞳が、ゆらりと揺れる。
「さて」
 にっこり笑って、満流が杏を振り向いた。
「僕たちも行きましょうか」
 満流は飴を口の中に入れ、あいふにしまふ? と舌足らずに聞きながら杏の背中にまたがった。杏が軽くかけ足をして逡巡し、「あずき」と口を動かすことなく返した。
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