第2話

文字数 2,382文字

「お前ら」
 前田に硬い声で呼びかけられ、一斉に視線を向ける。どうやら考えは同じらしい。自然と顔を寄せた。
「悪鬼に取り憑かれた奴の特徴、覚えてるか?」
「負の感情や攻撃性、凶暴性が増す、ですよね」
 新井が即答する。
「そうだ。それと、隣の女性客。多分見えてる」
 無言で頷き、示し合わせたように腰を上げた。
「新井と榎本は彼女に確認。大滝と牛島はスタッフと連携して何とか客を落ち着かせろ」
「了解」
 前田の指示のもと、榎本たちは一斉に動く。前田たちは、喧嘩に発展しかけた席を優先し、警察ですと名乗って落ち着くように声をかけて回る。そして、榎本と新井は顔を見合わせた。店の前を一台のパトカーが走り抜ける。
「相手は女性だ。お前に任せる」
 まさか任せてもらえるなんて思わなかった。榎本はきゅっと唇を結んだ。
「いいか、こんな状況だ。怖がらせるな、落ち着いて話を聞け」
「はい」
 おそらくこれは悪鬼の仕業だ。だが、それが分かったからといって対処のしようがない。陰陽師たちは全員不在。護符も持っていない。そもそも――いや、考えるのはあとだ。警察を呼べと声が聞こえたから、誰かが通報しているはず。応援が来れば、少しは収まるかもしれない。それまでに、とりあえず彼女から証言を取る。まずは名乗って警戒心を解く。話しはそれから。
 榎本はゆっくりと深呼吸をし、女性を振り向いた。
 突然隣の席の客が立ち上がり、三人は騒ぎの収拾に乗り出し、二人が自分の方を振り向けば驚きもするだろう。彼も彼女もきょとんとした顔で榎本たちを見上げている。
 またどこかでガラスが割れ、椅子やテーブルが乱暴に蹴飛ばされ、悲鳴と怒声があちこちで上がる。騒然とする中、榎本はゆっくりと女性に近付いた。大して広い通路ではない。二、三歩の距離。それでも、近付くごとに彼女の視線が自分を追いかけ、しかし思い出したように天井へ向けられる。
 何か察したのだろう。男性が腰を浮かせた。
「あの……」
「警察です」
「……え?」
 新井がとっさに名乗ると、男性が間の抜けた声を漏らし、榎本と彼女を交互に見てゆっくり腰を下ろした。榎本は女性の側にしゃがみ込んで、両膝をついた。膝に両手を置き、怯えた顔で視線を泳がせる彼女を真っ直ぐ見上げる。被疑者の取り調べではないのだ。落ち着いて、笑顔で、口調はゆっくりと。
「下京署少年課の、榎本と言います。今は勤務時間外なので手帳はありませんが、あとで問い合わせていただいて構いません。少しだけ、お話を聞かせていただけますか?」
「え……あ……」
 女性は困惑の表情で男性を見やった。腹が立つことに、偽の警察手帳を使った犯罪はあとを絶たない。そのせいで手帳を提示しなければ信じてもらえないことがある。だが、それはそれで高い防犯意識がある証拠だ。
 彼女からの視線を受けた男性は怪訝な顔をしたのち、店内へ視線を投げた。その先には、客を必死になだめる前田たちの姿がある。男性はじっと見つめ、女性に視線を戻してこくりと頷いた。
 よほど信頼しているのだろう。女性は少しだけ緊張が解けた様子で、榎本を見下ろした。視線は動いていないが、意識的に見ないようにしているように見える。
「ありがとうございます。さっそくですが、単刀直入にお尋ねします。貴方は、見えていますね?」
 遠回しに仕草の理由を尋ねても、おそらく答えてはくれないだろう。何せ心霊現象だ。ならばここは率直に尋ねるのが正解。
 何でもないことのように尋ねると、女性と男性は揃って目をまん丸に見開いた。彼も事情を知っているようだ。
「何で……」
 信じられないといった顔の彼女に、笑みを浮かべる。
「実は、同僚に見える人がいるんです。先程、何かを避けたような仕草をして、ずっと天井の辺りを気にされているので、もしかしてと思って」
「あ、あのっ」
 警察が心霊現象を信じてくれる。そう思ったのだろう、女性は再び怯えた顔を浮かべ、助けを求めるように少しだけ身を乗り出した。せわしなく視線がこちらと天井を行き来する。
「あの黒い煙、一体何なんですか? 気が付いたらいて、あっ」
「え?」
 視線を天井付近に向けたまま、女性が不自然に言葉を切った。思わず榎本と新井と男性が振り向いて天井を見上げる。やはり何も見えない。
「どうしました?」
 新井が尋ねる。
「……消えた……」
「は?」
 呆然とした答えに、榎本と新井が間の抜けた声を漏らす。直後、あれだけ響いていた怒声が、波が引くように収まっていく。代わりに今度は、大丈夫か、どうしたの、と心配する声が上がり始めた。
 状況がさっぱり理解できない。榎本は目をしばたきながらゆっくりと腰を上げ、店内を見渡した。榎本たちはもちろん、店を出損ねて動けずにいた客たちもぽかんとしている。つい先ほどまで怒声を響かせていた人たちは、脱力して椅子に座り込んだり床に崩れ落ちたりするものの、正気に戻ったように見える。やっと制服警官が三名到着し、前田がすかさず対応に入った。
「どういうこと……?」
 女性は「黒い煙」とはっきり言った。悪鬼がいたことは間違いなく、この騒動は悪鬼の仕業だ。そして女性が「消えた」と言った直後、全員が正気に戻った。ということは、悪鬼が調伏されたことになる。しかも、客に取り憑いていた悪鬼もろとも。つまり店内に陰陽師がいる。けれど、こちら側も犯人側も、陰陽師は全員不在のはずだ。
 では、誰が?
「榎本」
 新井の声に我に返る。
「何がどうなってんのか分かんねぇけど、考えるのは後回しだ。お前は念のために二人に口止めしろ」
「あ、はい。分かりました」
 見る限り怪我人は出ていないようだし、一応事態は収束したが、目撃者として軽く事情聴取は行われる。幽霊のことを聞かれたなどと証言されると面倒だ。
 新井は小声で指示を出すと、店を出ようとしていた客を引き留めにその場を離れた。
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