第5話

文字数 3,728文字

「今日はお客さん多いわね」
「華さん、俺出ますよ」
「そう? じゃあよろしくね」
「はい」
 立っているついでにと、キッチンから出ようとした華を止めて大河はリビングを出た。はーい、と少し声を張りながら扉を閉め、小走りに玄関へ向かう。
 広い玄関は、室内から見て左手に横長の大きな靴箱が作り付けられている。その上には、玄関や車、バイクの鍵が吊るされたウォールフックが壁に取り付けられ、花瓶に生けられた花が彩りを添えている。土間には、学校がある間は通学用の靴が並ぶが、今は三足のサンダルがあるだけだ。
 サンダルをつっかけながら、擦りガラスに映る影を確認する。大きさからして大人の二人組。大河は鍵を開けて扉を引き開けた。
 目の前に現れたのは、四十代くらいだろうか、短髪長身の真っ黒に日焼けをしたガタイの良い男だった。首元が大きく開いた黒のタンクトップに、羽織った半袖シャツから伸びた腕は太く筋肉質だ。後ろにいるのは、三十前後くらいだろうか。長い茶髪を巻き、素顔が分からないくらい濃い化粧を施した女だ。明らかに付けていることが分かる程の長い睫毛を揺らして大河を一瞥すると、興味なさそうに持っていた携帯をいじりだした。
 大河は二人を交互に見やり、瞬きをした。どう見ても訪問販売員には見えないし、何かの勧誘とも思えない。誰だろう。
「あの……」
 どちら様ですか、と尋ねるより先に、男が口を開いた。
「香苗は?」
 酒焼けしたようなしゃがれた声が告げた名前に、きょとんと目をしばたく。
「えっと……」
 状況が飲み込めず間抜けな声を出した大河に、男は面倒臭そうに顔をしかめて舌打ちをかました。名乗りもせず、しかも初対面の人間に舌打ちするなんて。あからさまにむっとすると、男は太い腕で大河を横に押しやり、無遠慮に土間に足を踏み入れた。きつい煙草の臭いが鼻を刺激した。一方、女は相変わらず携帯をいじっている。
「おい香苗! いるんだろ出て来い! 香苗!」
 ところどころ掠れた怒声が寮中に響き渡る。何だこいつ。苛立ちを覚えて、大河は男の腕に手を伸ばした。
「ちょっとあんた、何なんだよいきなり! ていうか誰だよ!」
 無作法にも程がある。男の腕を掴んだのと、二階から廊下を駆ける足音が聞こえたのと、さらにリビングの扉が開いたのが同時だった。
「大河くん、どうしたの?」
 顔を出したのは華だ。華の声に女が顔を上げ、大河の手を振り払った男がおっと口の中で呟いたのが分かった。分かりやすい反応。さらに苛立ちが増す。
「あんた……ッ」
「待って!」
 大河を制したのは、慌ただしく階段を駆け下りてきた香苗だった。訓練用の身軽な服装だが、何故か外出用のバッグを斜め掛けしている。少々ちぐはぐな格好に思わず怪訝な顔になった。華を先頭に、柴と紫苑、双子を除いた弘貴たち全員が、何ごとかといった顔で集まってくる。
 香苗を見上げ、男がまた舌打ちをかました。
「遅ぇんだよ。相変わらずとろ臭ぇな、早くしろ」
「ご、ごめんなさいっ」
「待ちなさい、香苗ちゃん」
 階段を下りたところで茂が強い声で呼び止めると、香苗は大仰に体を震わせて足を止めた。ゆっくりと振り向き、すぐにバツが悪そうに俯いた。
「失礼ですが」
 上がり框まで進み出た茂に、男がわずかに身構えたのが分かった。全身から警戒心が滲み出ている。こんな茂は初めてだ。
「どちら様でしょう?」
 はっ、と嘲笑するような息と共に、男は鬼の首を摂ったような笑みを浮かべた。
「父親だよ。なんか問題でもあるか?」
 茂以外の全員から、え、と吐息のような驚きが漏れた。この横柄な態度の男が、香苗の父親。だとすると、薄ら笑みを浮かべて傍観しているのは母親か。いや、それにしては若すぎる。
 確かめるような視線を向けられて香苗が小さく頷くと、男は勝ち誇った顔でふんと鼻を鳴らした。
「それは失礼しました。ですが、ご用件をお話いただけますか。娘さんを預かる立場としての義務がありますので」
「は? 自分の娘に会いに来るのに理由なんかいらねぇだろ」
「でしたら、こちらでも構いませんね。すぐに支度をしますので、どうぞお上がりください」
 臆する様子のない茂に、男は鬱陶しげに舌打ちを打った。
「話の通じねぇジジイだな。親子の再会に水差すなっつってんだよ! ぶん殴られてぇのか!」
「幸い部屋は空いております。邪魔はしません。それとも、何か問題でも?」
 恫喝したつもりだったのだろうが、茂は一歩も引く気がない。
「この……ッ」
 男は痺れを切らして茂の胸倉に手を伸ばした。あっと思った瞬間、茂が男の手首辺りを片手で鷲掴みにして止めた。とたん、男が顔を歪めてくぐもった唸り声を上げる。体をくねらせ、左手で茂の腕を掴み引き剥がそうとするがびくともしない。
「ちょっ、ちょっとあんた何して……っ」
「お父さん!」
 さすがに焦った女が駆け寄った時、香苗が声を張った。
「もう、やめて。い、一緒に行くから、大丈夫だから……」
「だったら早くしろ!!」
「はいっ」
 響く怒声に、香苗は弾かれるようにサンダルをつっかけて土間に下りた。男は乱暴に茂の手を振り払い、忌々しげに睨みつけて舌打ちをする。どうやら癖らしい。
「あの、ごめんなさい。お、お父さんと会ってくるだけなので、大丈夫です。あとで、ちゃんと連絡します」
 細切れに言いながら慌ただしく靴箱を開け、スニーカーに履き替える。
「待って! 香苗ちゃん、貴方」
「警察呼ぶわよ」
 華の声を遮ったのは、連れの女だった。心底面倒臭そうに顔が歪んでいる。
「父親が娘と会うのを邪魔する権利があんたたちにあんの? 一緒に行くって自分で言ってんだから、これ以上邪魔するなら娘が監禁されてるって通報するわよ」
「監禁ってそんな……っ」
「華さんッ!」
 珍しく語気を強めた香苗に、華が目を丸くした。一瞬沈黙が流れ、香苗は俯いたまま唇を噛んだ。両拳をきつく握り締めて、意を決したように足を踏み出した。
 なんだ、これ。親子の再会? これが?
 振り向くことも、ましてや顔を上げることもせず前をすり抜けようとした香苗に、大河は手を伸ばした。しかしするりと腕を避けられ、虚しく空を掠る。
 顔を隠すように深く俯いて玄関をくぐる香苗を見て、昨日の泣き顔が脳裏に蘇った。
「かな……」
「しつけぇんだよ!」
 男に強く胸を押され、大河は後ろによろめいた。一瞬だけ息が詰まり、足を踏ん張りながら咳き込む大河を見て、弘貴が華と茂の間を割って出た。咄嗟に華と茂が弘貴の両腕を掴む。
「てめぇ何しやがんだ!」
「弘貴くん、やめなさい」
「でも……っ」
 茂に宥められ、言葉を詰まらせる弘貴を一瞥すると、男と女は背を向けた。
「あっ、おい待……っ」
 弘貴の声を遮るように、嵌められたガラスが軋むほど乱暴に扉が閉められた。反動で跳ね返った扉を睨み付けて、あの野郎、と弘貴が歯ぎしりをした。
 軽く咳き込む大河に、昴がサンダルをつっかけて駆け寄った。
「大河くん、大丈夫?」
 前かがみになって、背中をさすられながら頷く。香苗が履いていたサンダルが目に入った。いつもの彼女なら、履き換えたあときちんと揃えるのに、今は乱れたままだ。一度ゆっくり深呼吸をして、大河は背中を伸ばした。
「ありがとうございます、大丈夫です」
「良かった」
 昴が安堵の息をついた時、騒ぎが収まったことを察した柴と紫苑が、双子を抱えて姿を現し、階段からは少々不機嫌な声が降ってきた。
「何の騒ぎだ?」
 見上げると、寝足りなさそうに眉間に皺を寄せた怜司と、後ろからぼさぼさ髪の樹がおぼつかない足取りで階段を下りてきた。茂が困ったような笑みを浮かべる。
「ごめん、起こしちゃったね。ごめんついでに、起きてもらってもいいかな。皆に、話しておかなくちゃいけないことがあるんだ」
 茂は、そう言い置いてリビングに引き返した。それぞれ顔を見合わせて、戸惑いながらも後に続く。
 大河はサンダルを拾い上げ、自分の分と一緒に並べる。
 香苗は、目を合わせようとしなかった。ただただ怯え、けれど申し訳なさそうにも見えた。そもそも、父親だからと言ってあの態度は何だ。あれが娘に対する態度か。娘が父親に再会した態度か。子供が親に怯える理由なんて、自分の頭では一つしか思い付かない。
 それに、父親はどうして寮の場所が分かったのだろう。ここへ来たということは、少なくとも父親は承諾していたことになる。どういう状況でそうなったのかは分からないが、もし宗史たちが香苗の事情を知っていたとしたら、わざわざ父親にこの場所を教えるだろうか。
「大河くん」
 リビングに入ると、茂の声にはっと我に返った。
「宗一郎さんに報告を頼めるかな。僕は明さんにするから。春くんは、GPSを確認してくれるかい?」
「了解です」
 GPSのアプリを開く春平の手元を弘貴と昴が覗き込み、大河は宗一郎へ電話をかける。
 この一件も敵の罠かもしれない。そんなことは皆が気付いているはずだ。もちろん、香苗自身も。それでも一人で父親について行ったということは、やはり逆らえないのか、皆に迷惑を掛けたくないと思っているのか。あるいは――。
 嫌な考えを振り払うように小さく頭を振った時、電話が繋がった。
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