第8話

文字数 2,930文字

        *・・・*・・・*

 伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)へは、二時間半ほどかかる。一度休憩を入れれば十分な距離。だが、ハンドルを握る茂は、今すぐ休憩を入れた方がいいだろうかと迷っていた。後部座席から漂ってくる異様な緊張感が車内に充満し、少々息苦しい。
 そんな中、助手席の美琴が携帯に目を落として言った。画面には、敵側の名前がずらりと並んでいる。
「敵側の鬼と式神は、千代、隗、皓、杏。それと、一応椿です。他にいないと仮定すると、人数的に場所が被ることはないと思いますが、椿を一人であたしたちに接触させるとは思えません。杏はやはり楠井満流と一緒かと」
「僕もそう思うよ。椿は向小島には来なかったけど、今回はどうか分からない。もし椿と他の鬼や式神が一緒だった場合、右近と柴に任せていいかな。人は僕が相手をする。美琴ちゃんと香苗ちゃんは、悪鬼の排除をお願い。絶対に一緒に行動するんだよ。右近は二人に使いを」
「承知した」
「了解です」
「了解ですっ」
 柴と右近の声が揃い、美琴が冷静に答え、最後に香苗の硬い返事だ。大丈夫だろうか。茂は笑いを噛み殺して続ける。
「色んな場合が考えられるから、あとはその場で判断しよう」
「はいっ」
 間髪置かずに返ってきた香苗の返事は、見事にうわずっていた。返事をし損ねた美琴が口を開けたまま沈黙し、茂はふはっと噴き出す。緊張を顔に滲ませ、体を硬くした香苗の両隣から、柴と右近が少々心配そうな眼差しを彼女へ向けた。
 美琴が堪りかねた様子で勢いよく後部座席を振り向いた。
「ちょっと香苗、あんたいい加減にしなさいよ。今からそんなに緊張してたら身がもたないわよ」
「ご、ごめんなさい。でででも……っ」
「でもも何もない。ちょっとは落ち着きなさいよ。はい、深呼吸」
「は、はい……」
 まったく、とぼやいて前を向き直った美琴と、深呼吸を始めた香苗のやり取りを聞きながら、茂は肩を震わせた。
 美琴の気持ちも分かるけれど、香苗は敵と直接対峙するのは初めてで、しかも公園襲撃事件の時、目の前で影正を殺害されている。緊張しても仕方がない。反対に美琴は落ち着いている。
 確か、美琴の初陣は樹と怜司が一緒だった。不測の事態から美琴だけ隔絶されたが、一人で悪鬼を何体か調伏したと聞いている。先日の人質になった時の対処はいただけないけれど、度胸があるというか、肝が据わっていることは間違いない。それに、酒吞童子の事件以降、香苗といい感じに距離が縮まっているようだ。
 香苗ちゃんのあの言葉が効いたのかな、と喜ばしく思っていると、右近が香苗の頭にぽんと手を置いた。
「香苗、案ずるな。私が付いている。戦の最中は共にいられずとも、何かあった時は私を呼べ。必ず駆け付ける。よいな」
「は、はい」
 顔を覗き込み、いつもとは違う優しい声色で、子供に諭すように語りかける。溺愛っぷりといい、もし香苗が怪我でもしようものなら、右近が暴走して神社一帯を破壊しそうだ。
 それだけは回避しなければ。茂が密かに危機感を覚え、美琴が呆れ顔で嘆息し、右近が香苗の背中をさする。
「大河は」
 不意に、柴が口を開いた。膝の上には、パナマハットがちょこんと乗っている。ちなみに、人に見つかると非常に面倒なので刀はトランクの中だ。
 茂がルームミラー越しに一瞥し、美琴が振り向き、香苗と右近が視線を上げる。
「風子に、たーちゃんと、呼ばれている」
 一体何の話だ、といった空気が一瞬流れた。きょとんとする四人に気付いているのかいないのか、柴はさらに続けた。
「私は可愛らしいと思うのだが、大河は、何故か嫌がっていた」
 もしかして、香苗の緊張を和らげようとしているのか。そう気付いたとたん、柴の無表情と単調な口調とその気遣いの差が妙におかしくて、四人同時に噴き出した。茂はハンドルを握る手を震わせ、美琴と香苗と右近は俯いて口を覆う。
 本当に、鬼らしくない鬼だ。
 しばらく噛み殺した笑い声が車内を包み、やがて香苗が大きく息を吐き出した。柴を見上げ、ふわりと笑う。
「ありがとうございます」
 すっかり緊張が解けた笑顔に、柴が微笑むように目を細めて小さく頷いた。
 先程まで漂っていた息苦しい空気は一掃され、これから戦いへ赴くとは思えないほど、穏やかな空気に包まれる。だが、これでいい。美琴が言ったように、緊張が長く続くと疲弊するし、いざという時に判断を鈍らせる。どのみち、戦闘中は極度の緊張を強いられるのだ。それまで和んでも罰は当たらない。ついでに、もう一つ。
「ところで皆。腹が減っては戦はできぬってことで、夕飯なんだけどね。淡路島といえば、やっぱり魚介と玉ねぎだよねぇ」
「調べます」
 まだ多少震える声で美琴が名乗りを上げ、携帯をいじる。
「現場から近くて、個室があるお店がいいですよね」
「そうだね。あと、予約できる所かな」
「了解です」
 さらりと気遣いを見せた美琴に、茂は頬を緩ませた。
 さすがに柴と右近だけを車に残すなんてことはできない。柴は帽子で角を隠せばいいし、右近は一見しただけでは人と区別できない。個室へ入るまでは目立つだろうが、まあ問題ないだろう。もうこの際だ、せっかくの遠出だし、食事くらいのんびりとさせてやりたい。
 ここは? と美琴が後部座席を振り向く。携帯を覗き込み、あちこち店を品定めする四人の会話を聞きながら、茂はふと顔を曇らせた。
 心配事は二つ。
 一つは、大河のこと。嵐の日、事件の全容を聞いてから健人のことを調べ、そのあと初めから見直したのだ。そこで気付いたのは、柴が復活した日の不自然さ。さらに今回の敵の狙いを加味すると、おそらく間違ってはいないだろう。平良個人の狙いは樹だが、敵側全員の狙いは大河。悪鬼をおびき寄せる役目を、彼にさせる気なのだ。
 正直、話すべきかどうか迷っている。敵対する以上、自分たちが狙われることに変わりはない。だから宗一郎も明も説明しなかった。大河や樹に罪悪感を覚えさせるかどうかは、自分たちにかかっているのだ。
 そんな意味では、警戒と共に心構えをするために話した方がいいとは思う。だが、香苗の様子では、これ以上は負担にしかならない。
 二つ目は、大河に対する春平と美琴の心境だ。
 美琴は、あれから特に変わった様子は見られない。精神的にも安定しているようだ。大河は、宗史や晴に相談したのだろう。多少ぎこちなさが見え隠れするものの、帰郷する前よりは自然体だ。
 一方で、春平は変わらない。
 結局、近藤の事件もあってあの日は話ができなかった。そして昨夜、話をしようと春平の部屋の前に行くと、中から弘貴の声が聞こえた。さすがに話の内容までは分からず、どうしようか迷った挙げ句、やめた。
 弘貴は、あれで他人の機微に敏感だ。ましてや幼馴染み。事件の話か、大河のことか。それは分からないけれど、もし大河のことなら、自分よりよほど吐露しやすいだろう。
 そう思って諦めたのだが、春平の様子は、今朝も変わらなかった。
 ――判断を間違えただろうか。
 さすがに、戦闘中に大河のことを気にする余裕はないだろうが――。
「しげさん」
 赤信号で停車すると、店が決まったらしい。茂は我に返り、差し出された携帯をぎこちない笑顔で覗き込んだ。
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