第7話

文字数 5,388文字

 紅葉峠展望台は、ヘアピンカーブの道路からコブのように突き出している、小ぢんまりとした芝生の広場だ。崖側はぐるりと木の柵が設置され、真ん中の奥に階段を備えた東屋のような展望台、その手前左側にテーブルとベンチが一組。駐車場は五台分のスペースが確保され、右端には展望台までのスロープが伸びている。そして道路を挟んだ向かい側には、水道局の施設らしい。金網に囲まれた小屋程度のポンプ場が建っている。
菊池雅臣(きくちまさおみ)だな」
 下平(しもひら)の問いに答えるように、展望デッキに立つ雅臣が霊刀を具現化した。下平は一瞬息を詰め、雅臣を注視したまましがみつく女性二人をゆっくりと離す。高校生か二十歳そこそこくらいだろうか、二人は抵抗するように上着を握ったまま離さない。
「警察だ。立てるか?」
 そう尋ねたとたん、女性たちはわずかにほっとした顔をして、しゃくり上げながら何度も頷く。
「車に乗れ。絶対に出てくるな」
 言いながら二人の腕を引っ張って立たせ、車の方へと押しやる。二人は互いに腕を絡ませて、少々へっぴり腰で小走りに車へと向かった。本当は逃がしてやりたいが、足もないし、こんな山の中に女性二人を放り出すわけにはいかない。
 下平は、ヘッドライトに照らされた雅臣の顔付きに、思わず眉根を寄せた。捜索願の写真からは、地味で純朴そうな印象しか受けなかった。しかし今目の前にいる彼は、同じ人物とは思えないほど、酷く冷たい表情をしている。まるで、尊への恨みの深さを表したようだ。
 さらに、展望デッキの上に浮かぶ黒い煙。廃ホテルほどではないが、展望デッキを簡単に一飲みできるくらいの巨大な悪鬼だ。一瞬、もしや自分には霊感があるのかと思ったが、尊たちを襲った時の映像では見えなかった。女性たちにも見ているようだし、見えるための何か条件があるのだろうか。
 バタンと車のドアが閉まる音が二回して、下平は弾かれたように振り向いた。車から降りた尊がこちらへ駆けてくる。
(たける)!」
 咄嗟に腕を伸ばして行く手を阻む。下平の腕を掴んだ尊の手は小刻みに震え、表情は酷く強張り、緊張と恐怖からか目は潤んで息も荒い。
 そんな尊を見たとたん、雅臣を取り巻く空気が変わった。氷のような冷たい顔に、感情がじわじわと現れる。まるで汚物でも見るような蔑んだ眼差し、への字に曲がった口は怒りを押し殺しているようだ。そして体から滲み出るのは、思わず息が詰まるほど真っ黒に淀んだ気配。澄んだ空気が、次第に穢れていく感覚に陥った。
 ぞくりと全身に悪寒が走り、無意識に体が硬直する。これはまるで、雅臣自身が悪鬼のような――。
「すみませんでした!」
 突然、尊がそう吐き出した。勢いよく膝を折って土下座した尊を、下平は目を丸くして見下ろし、雅臣が目を細めた。
「本当に申し訳ありませんでした! お金は必ずお返しします、もう二度としません。約束します! だからどうか……っ、どうか……っ!」
 平伏するようにアスファルトに両手と額をくっつけ、体を小さく縮ませて繰り返す。許してください、と。
 車のヘッドライトだけが頼りの展望台に、尊の切実な声だけが響く。
 尊、と声をかけようとしたその時。
「……ふ」
 雅臣の口から息を吐くような嘲笑が漏れ、次の瞬間、高らかな笑い声が一帯に木霊した。楽しくて笑っているのではない、馬鹿馬鹿しくて堪え切れなかったといった方が正しい。
 下平は険しい顔で、尊は怯えた顔を上げて雅臣を眺める。
 やがて雅臣が長い息を吐き出し、口の端を歪めてくすりと笑った。
「お前、自分の土下座にどれだけの価値があると思ってるんだ?」
 蔑み嘲笑う問いかけに、尊がひっぱたかれたような顔をした。
「人をコケにして金を巻き上げて、彼女を巻き込んだ。その代償が、土下座?」
 ははっと一つ笑うと、波が引くように雅臣の顔から笑みが消えた。
「クズ同然のお前の土下座に、一銭の価値もないだろ」
 尊が俯いてぐっと歯を食いしばり、地面についた両手を握った。小刻みに震えている。
「何様なんだよ、お前」
 低く呟いて、雅臣が階段へゆっくりと一歩踏み出した。倣うように悪鬼も動く。
「尊、車に戻ってろ」
 下平は素早く尊の腕を掴んで引っ張る。だが、悪鬼が見える上に許されないと分かった恐怖からか、尊は俯いたままガタガタと震えて動こうとしない。女性たちを盾にするようで気が進まないが、標的基準がある以上、車にいれば悪鬼での攻撃や術は行使しないはずだ。
「尊っ」
 叱咤するように名を呼んでさらに強く引っ張る。よろめきながらも何とか立ち上がった尊を押しやるが、つんのめるように数歩歩いたところで、力なく崩れ落ちた。
「しっかりしろ、尊。立て!」
 下平は尊の側にしゃがみ込み、肩を掴んで顔を覗き込む。目を大きく見開いて地面を凝視し、顔は青ざめ、目には涙が滲み、歯は噛み合わずかちかちと鳴っている。
「下平さん、でしたよね」
 不意に、雅臣が階段を下りたところで足を止め、口を開いた。下平はしゃがんだまま素早く体を反転させて、背中に尊を庇う。悪鬼が、暗雲のように雅臣の頭上へ移動している。
「危ないので、どいてもらえますか」
 その言葉に、下平はわずかに眉を寄せる。警告した?
「素直に聞くと思うか?」
 雅臣は、伏せ目がちに溜め息をついた。尊がゆらりと顔を上げ、下平を見上げた。
「――泣いてたぞ、彼女」
 落ち着いた声色で諭すように告げると、雅臣はぴくりと肩を揺らし、ゆっくり視線を上げた。
「お前を止めてくれ。そう頼まれた。ご両親も友達も酷く心配してる」
 雅臣は唇を固く結んで視線を落とし、霊刀を握る手にぎゅっと力を込めた。
「お前の気持ちは嫌ってくらい分かる。でも、もうやめろ。これ以上罪を重ねたら、ご両親も彼女も――」
「うるさいッ!」
 雅臣は声を荒げて言葉を遮り、鋭い眼光で下平を睨みつけた。
「俺だけのためじゃない。やめるわけにはいかない。絶対にやめない」
 まるで自分へ言い聞かせるように呟いた言葉に、下平は眉をひそめた。
「どういう……」
 問い返す前に、雅臣が霊刀を握り直した。ヘッドライトの明かりを反射して霊刀が鈍く光り、咄嗟に口をつぐむ。
 雅臣は自分を落ち着かせるように深呼吸をすると、改めて下平を見据えた。
「もう一度言います。どいてください」
「断る」
 食い気味の答えに、雅臣は苛立たしげに目を細めた。
 どう考えてもこちらが不利だ。護符があっても、霊刀には太刀打ちできない。さて、どうする。
 と、あることに気付いた。樹は、大河は護符を持ち歩いていると言った。しかし廃ホテルでは悪鬼の攻撃を受けていた。
 下平は小さく舌打ちをかました。理由はともかく、廃ホテルと状況が似ているのだ。ということは、護符が効かない可能性が高い。
 マジか、と口の中でぼやく。
 凝視したまま動かない下平に、雅臣はしかたないですねと呟いて、おもむろに低く手を上げた。とたん、悪鬼から無数の触手が伸び、ものすごい速度で空を切った。
「っ!」
 下平は息を詰め、両腕を交差させて顔を伏せた。
 二人一緒に貫かれる!
 紺野(こんの)たち、榎本(えのもと)たち、樹と冬馬、そして、妻や娘や孫の顔と思い出が、一気に脳裏を駆け巡った。走馬灯ってこんな感じか、と頭の隅でちらりと考える。――だが。
「……どうした」
 届いたのは、全身を貫かれる痛みではなく、雅臣の怪訝な声だった。
 下平はゆっくりと顔を上げて、腕を下ろす。ほんの一メートルほど先で、触手がもぞもぞと蠢いて止まっている。行きたくても行けず、足踏みしているような感じだ。
 逡巡していた雅臣が渋面を浮かべて、忌々しげに下平を睨んだ。
「護符か」
 ぼそりと呟かれた言葉に眉根が寄る。確かに持っているが、効かないはずでは――いや待て。大河が誰の護符を持っていたかは知らないが、もし一枚だとしたら。ここには、明と大河、霊力が強い二人の護符が揃っている。そして悪鬼が近付けないのは間違いない。ならば。
 下平は内ポケットからお守りを引っ張り出して、後ろ手で尊に渡した。それを見て、雅臣が舌打ちをかます。
「持ってろ」
「でで、でも……っ」
「いいから」
 早く受け取れとお守りを振ると、遠慮がちに手の中からお守りが抜ける感触がした。
 これで悪鬼は尊に手出しができない。車に戻して、あとは彼らが来るまで時間を稼げばいい。その方法を捻り出さなければいけないのだが、雅臣も彼らが来ることくらいは予想しているだろう。暢気に世間話など付き合ってくれるとは思えない。
「尊、車に戻れ。出てくるなよ」
「……はい」
 小さな返事を聞いて、下平は手探りで尊の腕を掴み、ゆっくりと腰を上げた。視線は雅臣へ向けたまま、尊を引っ張り上げる。まだ力が入らないのか、千鳥足で進む尊の背後にぴったりと付いて下平も続く。触手の先端が、恨みがましく二人へ向いた。
 渋面を浮かべた雅臣と下平の間に、一触即発の空気が流れる。
 下平はゆっくりと深呼吸をして頭を落ち着かせ、状況を整理した。
 護符があって女性たちがいれば、悪鬼と術は封じられる。おそらく雅臣自身も尊には近付けない。尊を殺害しようとしている以上、邪気を抱えているのだ。あの巨大な悪鬼にさえ効果があったのなら、間違いない。逆に問題なのは、彼らが到着するまでにどう時間を稼ぐかだ。
 聞きたいことは山ほどあるんだけどな、と時間稼ぎの方法を捻り出そうと思案する。と、車の側まで来た時、不意に慌ただしい足音が近付いてきた。下平たちが来た道の方からだ。
「下平さん!」
 見えた榎本の姿と響き渡った声に、下平はもちろん、雅臣と尊が弾かれたように振り向いた。
 ――何でいるんだ。
「捕まえろッ!」
「来るなッ!」
 雅臣と下平の鋭い声が混ざって木霊する。下平が強く地面を蹴り、即座に反応した触手が勢いよく榎本へ向かう。えっ、と驚いて榎本が足を止めた。間に合わない。
「くそ……ッ」
 さすがに人外の速度には勝てない。触手が一瞬で榎本に迫り、体にぐるぐると巻き付いた。そしてそのまま空中へ持ち上げながら展望デッキの前、本体の方へと縮んでいく。高さは二メートルほどだが、速度が速い。
「きゃあっ!」
「榎本!」
 展望台の方へと攫われる榎本を、下平は目で追いかけながら足を止める。迷うことなくそちらへ身を翻した時、すでに目の前に触手が迫っていた。しまったと思った時には遅かった。避け切れず、腕に何本か触手が掠る。痛みに顔を歪めた隙に、触手が体にぐるぐると巻き付いて持ち上げられた。
「この……っ、放しやがれッ!」
 腕ごと拘束されているため、身動きが取れない。足をばたつかせ、必死に体をよじってみるがびくともせず、一気に榎本の隣まで引っ張られた。榎本が困惑した顔で振り向く。
「何なんですかこれ……っ!」
「話はあとだ! 尊、さっさと乗れ!」
 榎本の言葉を遮って叫び、下平は上から状況を見下ろした。
 尊はボンネットに後ろ手をつき、強張った顔で雅臣を見つめている。じりじりと後ずさるように、車体に沿って運転席のドアの前へ移動した。雅臣が、ゆっくりと歩を進めて距離を縮めていく。その姿は、獲物を逃がすまいと威嚇する獣のようだ。と、突然後部座席のドアが開き、一人の女性がドアの上部から顔を出した。下平がぎょっと目を剥き、ちょっと(あや)! と叫ぶもう一人の女性の声が漏れ出た。
「おい……っ」
「何やってんのよ、早く乗りなさいよ!」
 下平が苦言を呈するより先に、彩と呼ばれた女性が怒鳴った。到着した時とは別人のような気丈さだ。しかし尊は雅臣に気を取られているようで、立ち竦んだまま動こうとしない。もう! と彩が苛立ちを口にし、ドアを回り込もうとした、その時。
「う……っ、うわあああっ!」
 とうとう堪え切れず、尊が悲鳴を上げながら来た道の方へと駆け出した。
「ちょっと……!」
 思わず追いかけようとした彩を、もう一人の女性が車内に引っ張り込んでドアを閉めた。
「馬鹿……っ!」
 下平が苦々しくぼやく。雅臣は芝生と駐車場の境目でぴたりと足を止め、尊を目で追いながら霊刀を横に平行に上げた。
 霊符が二枚揃っていて、悪鬼も雅臣自身も近付けない。恨みの深さから考えて、自らの手で殺害したいはずだ。だが女性たちを考慮すると、術は行使しない。けれどこの状況では。
 尊が自分の足につまずいて転んだ。這うようにして地面を進む。
「オン・ノウギャバザラ・ソワカ」
 冷静な声で、雅臣が真言を唱えた。とたん、霊刀が渦巻いた水を纏う。廃ホテルで怜司が行使していた、凄まじい勢いで悪鬼を貫いていた術だ。人体に直撃すればタダでは済まない。
「やめろ菊池ッ! 話を聞け!」
 下平が叫ぶのも空しく、雅臣が力強く霊刀を薙いだ。帯状の水の塊が勢いよく空を切る。尻もちをついたまま振り向いた尊が、地面に丸くなって伏せた。
「やめろぉ――――ッ!!」
 下平の絶叫が、山中に木霊した。
 両親や松井桃子(まついももこ)や友人たち。雅臣が失踪して一年経った今でも、全員が心配しているのだ。桃子や友人らは、雅臣の分の授業のノートを取り、プリントを保管していた。いつ帰ってきてもいいように、受験勉強を再開できるようにと。父親は、何故あの時突き放すようなことを言ってしまったのかと後悔していた。母親は寝込むくらい心労が祟っている。
 こんなにも心配され、愛されていることを伝えなければ――。
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