第1話

文字数 3,563文字

宗史(そうし)のことは分かるか?」
 志季(しき)の問いかけに、冬馬(とうま)は聞き覚えのある名前を記憶から掘り起こした。
「確か、椿(つばき)さんの主だったか?」
「そう。宗史には(さくら)って妹がいるんだけどな、あいつ生まれつき体が弱くて、ほとんど家から出られねぇんだよ。色々あってさ、龍之介(りゅうのすけ)は桜を狙ってんだ。今、家に桜と母親しかいねぇし、あいつが事件に関わってるならこの状況を見逃すはずねぇ。絶対来てる」
 冬馬はぎょっとして志季を見やった。
「大丈夫なのか、それ」
「多分結界で隔離してるし、左近(さこん)――宗史と桜の父親の式神がいるから心配はしてねぇんだけど、ただなぁ、あいつらがどう出てくるか……」
「……平良(たいら)か?」
 濁した言葉を代弁すると、神妙な顔をしていた志季がははっと笑った。
「いいねぇ、やっぱお前察しがいいわ。てことだからさ、お前、俺らのこと気にしなくていいから、龍之介の馬鹿捕まえることに専念しろ。ぼこぼこにしてもあとで治癒してやるから遠慮すんな。あ、でも殺すなよ?」
「分かった」
 すんなり了解すると、志季は満足そうに笑みを浮かべた。
 日本を代表する大企業の親族と、陰陽師家の娘。彼らの間に確執があるとは聞いていたが、想像以上に複雑らしい。しかも彼女は体が弱いときた。結界で守られ、式神が護衛についているからといっても、逃げられないと知っていて、あの男は。
 どこまでも卑劣な。
 冬馬は眉間に皺を寄せて、唇を一文字に結んだ。
「あ? なんだ、もう始まってんじゃねぇか」
 ふわりと着地した住宅の屋根の上から見えるのは、玄関灯が点いた門前に、真っ赤なスポーツカーが停まった屋敷だ。冬馬の実家も大概広いが、こちらも相当な敷地を有している。ただ、計算し尽くされた桐生家の日本庭園とは違い、こちらは綺麗に手入れされているものの、塀に沿って植えられた桜の木や庭木、小ぢんまりとした池があるだけで、他は何もない砂地だ。
 そんな庭で、縁側から漏れる明かりと月光に照らされて、着物姿の人物――おそらく左近だろう――と二人の女が対峙している。しかも、双方手に刀。三人ともせわしなく動いているが、女二人が下がっても何故か左近は刀を薙いでいる。悪鬼でもいるのだろうか。
 志季が唐突に舌打ちを打ってぼやいた。
「龍之介がいねぇ上に犬神がいやがる。左近の野郎、油断しやがったな。冬馬、犬が二匹いるの見えるか?」
 冬馬は目を凝らした。
「いや、見えないな。犬神って、確か呪術だったよな」
「ああ。あれも悪鬼だから、やっぱ無理か……」
 志季は眉根を寄せて逡巡し、あっと声を上げてぽんと手を打った。
「そうか、よし行くぞ」
「え、は?」
 そうかって何が、と考える暇もなく、何やら一人で納得した志季に、今度は二の腕を強く掴んで引っ張られた。次の瞬間には宙に浮いており、あっという間に道路と塀と庭木が眼下を後ろへ流れる。
 廃ホテルでのバンジーもどきは怖くなかったが、さすがに腕一本で宙吊り状態はそうもいかない。マジか、と足元に目を落としたその時、視界に飛び込んできた男を見て、恐怖が吹っ飛んだ。
「龍之介ッ!」
 靴越しに地面の感触がした瞬間、冬馬は志季の腕をふりほどいて地面を蹴った。おっと、と志季が驚いて手を離し、刀を交えていた左近と女二人が動きを止めて視線を投げた。
 慌てた様子で縁側に姿を見せた龍之介が、声に振り向いてぎょっと目を剥いた。
「お前……っ、なんで……っ!」
 鬼気迫る勢いで迫る冬馬に足を止め、龍之介はひっと引き攣った悲鳴を上げて身を竦ませた。自覚しているようで何より。冬馬は勢いのまま縁側に上がり、逃げようと身を翻した龍之介の首根っこを引っ掴んで力任せに庭へ放り投げた。
「うわっ」
 悲鳴を上げ、砂埃を上げながら地面を転がる龍之介を追いかけて、冬馬も庭へ飛び降りる。全身砂だらけになってうつ伏せに止まった龍之介を無理矢理仰向けにさせ、胸倉を掴んで引っ張り上げた。そして、少し目を回した龍之介の頬へ目がけて、振り上げた右拳を躊躇なく振り抜いた。
 ゴッ! と容赦なく骨と骨がぶつかる鈍い音が庭に響き渡る。
「あが……」
 白目を剥いて口の端と鼻から血を垂らしながら、龍之介は言葉にも呻き声にもならない声を漏らして地面に転がった。だらしなく口を開けたままぴくぴくと痙攣している。冬馬はそんな龍之介を見据えてゆっくり歩み寄ると、再度胸倉を掴んで上半身を起こした。
「これで終わりだと思うなよ。立て」
 怒りを押し殺した低い声で宣言して龍之介を引っ張るが、意識が飛びかかっているようで、全身に力が入っていない。首は後ろに反ったままで肩は下がり、両腕もだらんとぶら下がったままだ。怯えた様子といい反応の遅さといい、武道どころか喧嘩の一つもしたことがないのだろう。この男は、表沙汰になっていない悪行も、同じように人に手を汚させて自分は安全な場所にいたに違いない。
 歯が欠けそうになるほど、強く奥歯を噛み締める。冬馬は龍之介に馬乗りになり、押しつけるように地面に押し倒すと右拳を振り上げて、勢いよく振り下ろした。
 刀身がぶつかり合う金属の音と砂の擦れる音に混じって、一台の車のエンジン音が近付いて、止まった。
 しばらく身じろぎ一つせずに見据えた拳は、龍之介の顔の真横の地面に叩きつけられている。
「――くそッ!」
 これは、弱さだろうか。仲間をやられたのに、失神しかけている相手をこれ以上殴れない。はっきり意識があればもう二、三発殴ってやれるのに、加減できなかった。志季は遠慮するなと言ったけれど。
 自分の迂闊さと、龍之介の貧弱さへの苛立ちが混じった悪態を吐き出し、冬馬は長く息を吐いた。と、数人の慌ただしい足音がこちらへ向かってきた。対峙する志季たちの向こう、玄関の方からひょいと覗き込んだのは、つい先ほど見たばかりの顔だ。
「えっ、なんで……っ」
 怯えた様子で身を引いたのは、先程のカップル男だ。背後から、運転手と智也(ともや)を刺した男も顔を見せた。
 冬馬は目を見開いて三人を凝視したまま立ち上がり、駆け出した。うわっ、と叫んで後退した男を止めたのは、運転手だ。
「馬鹿っ、あいつから金もらわねぇと逃げらんねぇだろ!」
「そそそうだけど、でもさっきからなんか気持ち悪ぃし……っ」
「ごちゃごちゃ言うな! 今度は三人だ、行くぞ!」
 どうやら龍之介から逃走資金を受け取るために来たらしい。カップル男はくそっと悪態をつき、先行した運転手と智也を刺した男に続いた。智也を刺した男が、ポケットから折り畳みナイフを取り出した。血を拭き取った跡が残っている。交戦している志季たちの周りをぐるりと回り込み、こちらへ向かってくる。
 冬馬は地面を滑って足を止めた。脇をしめて拳を握り、右足を後ろに下げて半身に構える。ナイフ男が、まるで見せつけるように目の前にナイフを掲げ、足を止めることなく右上に振り上げてすぐさま左斜め下へ振り下ろした。間髪置かずに今度は左上から右下へ振る。
 冬馬はステップを踏むように後ろへ下がってそれを避け、男が右下へナイフを振り下ろした瞬間、身を低くすると同時に踏ん張って地面を蹴った。一瞬で男の懐へ飛び込み、左拳を腹に叩き込む。ごふっ、と呻き声を上げて男はナイフを落とし、手で腹を押さえて体を折った。千鳥足でよろよろと後ろへ下がってがっくりと膝をつく。しばらく息もできないだろう。
 続けざまに向かってきたカップル男が拳を大きく振った。冬馬は左腕を立ててそれをガードし、男の顔面へ拳を一発打ち込み、さらに腹を足で蹴り飛ばした。男が後ろに吹っ飛んで地面を転がる。間髪置かずに、運転手が転がったナイフを拾い上げて真正面から襲いかかった。右手で突くように向けられたナイフを、冬馬は右半身を後ろに下げて避け、左手首を男の腕に添えてガードしつつ手首を掴んだ。そして、右拳を男の顔面に叩き込む。ガッ、と呻き声を上げた隙に、右手でナイフを持つ手を強く握り、外側へ捻った。腕を外側に捻られた痛みでバランスを崩した男は、尻から地面に半円を描くように転がった。その際、男の尻ポケットから何かが放り出された。冬馬はナイフをもぎ取ってから手を放し、数歩下がって距離を取る。
 あっという間に、三人の男が地面に転がった。
「くそ……っ、強ぇとは聞いてたけど……っ」
 運転手が捻られた腕を押さえながら体を起こし、ちらりと龍之介を一瞥する。金を受け取りに来たのなら、引き摺ってでも龍之介を連れ帰りたいはずだ。
 来るか、と冬馬が折り畳んだナイフを握って構えると、運転手は小さく舌打ちをかました。
「引くぞお前ら!」
 よろよろと立ち上がる仲間に告げて、運転手は一人さっさと踵を返した。それを追いかけるように、カップル男とナイフ男は、肩を貸し合いながらおぼつかない足取りで背中を向けた。
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