第13話

文字数 5,190文字

 忌々しげに睨み付ける大河たちに、女はふんと鼻を鳴らして携帯を引っ込めた。
「分かったらとっととゴミ捨てろ!」
 おら行け、と父親が春平の肩を押しやった。渋面を浮かべ、大河たちも車から降りる。
 さっきまでは必死で気付かなかったが、木々に覆われて真っ暗だった脇道の入り口と違い、この辺りだけ多少開けており月の光が届いている。
 左手は雑草が伸び放題のちょっとした広場になっていて、その向こう側は森が広がっており、土で汚れた低いガードレールが設置されている。おそらく崖になっているのだろう。そして右手にずらりと連なっているのは、雑木林と同化しそうなほど朽ち果てた廃屋群だ。車を横付けした一棟だけ二階建てだが、他は全て平屋になっているようで、こういう場所には付き物らしい、塀にはスプレーで落書きがされ、屋根は傾き、車庫らしき建物のシャッターは外れ、雑草が建物の中から好き放題に伸びて顔を出し、鬱蒼と茂った木々に屋根を覆われ、蔦が這っている。植物に浸食され今にも取り込まれそうだ。廃ホテルも相当なものだったが、ここに比べればまだきちんと形が残っていただけマシだった。ここは、これぞ廃墟といった様相だ。先程女が言っていたモーテルとはここのことか。
 弘貴、春平、香苗が荷室へ行ったので、大河は後部座席の古紙の束を両手に抱えて廃墟を振り向いた。
 まるで人の出入りを拒むように雑草が伸び、細い木々が枝を伸ばしている。玄関だった場所は扉が外れて中が窺えるけれど、かろうじて手前が見えるくらいで、奥に行くほど闇が濃くなっている。
「向こう、鉄線張ってある上に不法投棄禁止って張り紙までしてあんじゃねぇか」
「しかも亀岡市名義」
 弘貴たちの方から舌打ちと共にそんなぼやきが聞こえた。どうやら不法投棄の場所としても知られているらしい。しかも廃ホテルと違い所有者が分かっていて、対策もされている。誰かが切ってしまったのか、玄関前に鉄線は見当たらない。
 大河は両手に古紙の束を抱えたまま重苦しい息をついた。
 脅されたんだから仕方ない、好きで不法投棄するわけじゃない、と割り切って捨ててしまえばいいのだろうが、あとで絶対に後悔すると分かっているだけに、どうしても手が止まる。
「ったく」
 車のエンジンを切り、運転席のドアに背を預けて煙草をふかしていた父親が舌打ちをかました。咥え煙草をして大河から古紙の束をひったくる。
「貸せ。こうやるんだよ」
 言うや否や、何の躊躇いもなく玄関から勢いよく束を一つ放り込み、立て続けにもう一つも投げ込んだ。ゴンと何かにぶつかったような音と、ガサガサとビニールを擦るような音が混じった、形容しがたい音が響く。
「分かったかガキ」
 やっていいことと悪いことの区別もつかないお前に言われたくない。何故か自慢げな顔で見下ろされ、大河はむっとして背を向けた。こんなこと、親に知れたら確実に激怒される。
「おい、お前らも早くやれ」
 弘貴たちも躊躇しているらしい。父親が声を張った。
 進まない気が動きを鈍くしているのか、それとも収まらない悪寒がそうさせているのか。やだなぁ、と口の中で呟いてのろのろと古紙に手を伸ばす。
 と。
 ゾワッ、と全身が悪寒に襲われ、反射的に肩が跳ね上がって体が硬直した。背中には嫌な汗が伝うのに、一気に血の気が引いたような寒気がする。邪気だ。それもかなり濃い。
 しかし、違和感を覚えた。薄すぎて判然としないが、邪気に混ざっているのはほんのわずかな霊気だ。
「何だ、これ……」
「邪気、だよね……?」
 二人も気付いたらしい、弘貴と春平の怪訝な声で我に返った。香苗も不安そうに辺りをきょろきょろと見回している。父親が舌打ちをかました。
「おい、お前ら何やって……」
 ――誰ぞ。
 不意に何か聞こえた。大河は勢いよく顔を上げ、辺りを見渡した。
「何だ? 今の」
 父親にも聞こえたらしい。煙草を口元で止めたまま、眉をひそめて視線を巡らせている。
 ――誰ぞ。
 もう一度。
 聞き間違えではない。周囲に木霊する、くぐもった低い男の声。何かいる。
 大河は、ゆっくりゴミ袋を地面に置く弘貴たちに駆け寄り、揃って広場側へ移動して周囲を警戒する。
「これ……」
「ああ、マジでヤバい。どこだ」
 弘貴はその正体を口にしなかったが、察しはつく。大河はごくりと喉を鳴らした。
「ちょっと誰よ、変な声出してるの。恐がらそうとしても無駄よ、さっさと終わらせなさいよ」
 助手席のドアが開き、女が携帯を手に眉をひそめて降りてきた。女に構っている余裕はない。しきりに周囲を見渡す大河たちを、父親が怪訝な顔で見据える。
 ――誰ぞ。
 突如、ザッ! と図ったように揃った葉音が擦れる音が響き、全員が一斉に廃墟群を振り向いた。バタバタと羽ばたく音が微かに届く。雑木林から鳥たちが飛び立ったようだ。ほっと安堵の息を吐いたのは父親と女だけで、大河たちは弾かれたように雑草が生い茂った広場の方を注視する。
「……来る」
 大河が印を結び、小さく呟いた。弘貴たちがそれぞれポケットから霊符を取り出して構える。
 体の中から拳で叩かれているのかと思うほど、心臓が大きく脈打つ。息が浅くなって、荒くなる。手にはじわりと汗が滲む。
 ――我が縄張りを荒らすは、誰ぞ。
 怒りと憎しみから生まれた、低い、低い声。
 怒らせた。
 緊張感と緊迫感が入り混じり、息苦しいほどの空気が漂う。父親と女もそれを肌で感じたようで、強張った顔でせわしなく視線を泳がせている。
 しんと静まり返った森の中。野生動物が草木を掻き分けて疾走するような葉音が森中に木霊する。それは次第に大きくなり、やがて見えた光に、大河たちは息を詰めた。
 広場の向こうの森の中。木々の隙間に、ちらりと小さな光が見えた。一瞬消えて、また見えた光はひと回り大きくなっている。瞬きも忘れて光を探す。息を詰め、目を凝らし、集中する。
 葉音がすぐそこまで迫り見えたのは、赤い二つの光――大きい。
「ちょ、ちょっとあんたたち、さっきから……っ」
「大河ッ!!」
青龍(せいりゅう)白虎(びゃっこ)朱雀(すざく)玄武(げんぶ)勾陳(こうちん)帝台(てんたい)文王(ぶんおう)三台(さんたい)玉女(ぎょくにょ)!!」
 女の声を遮って弘貴が叫び、間髪置かずに大河が印を結んで真言を高らかに唱えた。瞬時に巨大な結界が形成され――。
「っ!!」
 姿を視認する暇もないほど一瞬だった。それは森の中から物凄い勢いで飛び出し、砂を巻き上げながら一直線に、なんの躊躇いもなく突撃してきた。結界が散らした火花はこれまでで一番大きく派手で、まるで一発のダイナマイトが爆発したような音と衝撃だった。父親と女が悲鳴を上げる。強烈な衝撃を受け止めきれず、印が外れて後ろへ吹っ飛ばされた。ドンッ! と車体に背中を強く打ち付け、くぐもった呻き声が上がる。落下するように地面に尻もちをついた。
「大河!」
「大河くん!」
 それを注視したまま三人が心配の声を上げ、香苗が駆け寄って側にしゃがんだ。
「い……っ、た……」
 廃墟に突っ込まなくて済んだのは幸いだった。背中のボディバッグが多少クッションになったようだが、痛いことに変わりはない。大河は唇を噛み、うなだれて苦悶の声を絞り出した。
「大丈夫?」
「うん、なんとか……」
 香苗が背中をさすってくれる。痛みは走るが、異常な痛みはない。骨折や罅はどうやら免れたようだ。それより。大河が顔を上げて前を見据えると、香苗も顔を強張らせて振り向いた。
「ひ……っ、あ……」
 女が悲鳴にならない声を漏らし、助手席のドアを背中で滑って地面にへたり込んだ。口は開いたまま顔を強張らせ、恐怖の表情で見つめている。
「な、んだよ……あれ……っ」
 車の前方に回り込んできた父親が、愕然と呟いた。
「だからやめろって言っただろうが。怒らせちまったんだよ」
 弘貴が嘲笑の混じった声で言った。
「この一帯を縄張りにする、酒吞童子をさ」
 大河は香苗に支えられながらゆっくりと立ち上がった。視線の先には、結界に激突して弾き返され、広場の真ん中で浮かぶ巨大な生首。
 頭に長く太い二本の角を持ち、太い眉の下でぎょろりと大きく見開かれた目は赤く充血し、武骨な鼻は先端が曲がった鉤鼻。人一人を丸のみ出来そうな大きな口には上下に鋭い牙が生えている。絵巻物に描かれている鬼そのものの顔の回りで揺れるのは、首の下まで伸びた黒髪の癖毛。
 イケメンの二人とは正反対だ。
 威嚇するように、おおおお、と吐き出される低い唸り声が空気を揺らす。大河と香苗は酒吞童子を見据え、弘貴と春平の隣に並んだ。
「とりあえず結界で隔離しよう。大河くん、もう一回九字結界張れる?」
「余裕」
「弘貴、結界に弾かれた隙を狙うからタイミング合わせて。阿閦如来(あしゅくにょらい)でいく」
「おうよ」
「香苗ちゃんは携帯を取り返してしげさんたちに連絡。ダッシュボードの上」
「はいっ」
「皆、集中して――」
 未熟な陰陽師四人と、鬼の総大将とも称される酒吞童子が、互いの隙を狙って睨み合う。わずかな油断も隙も許されない、張り詰めた緊迫感。
 父親がわずかに足を後ろに下げた拍子に、パキ、と小枝が折れた。
「大河くんッ!」
青龍(せいりゅう)白虎(びゃっこ)朱雀(すざく)玄武(げんぶ)勾陳(こうちん)帝台(てんたい)文王(ぶんおう)三台(さんたい)玉女(ぎょくにょ)!!」
 大河が真言を唱え始めたとたん、香苗が身を翻して車に走り、酒吞童子が咆哮を上げた。
 香苗は後部座席に飛び込むと、運転席と助手席の間から身を乗り出して、ダッシュボードに放置された携帯に手を伸ばす。すると助手席のドアが開き、女がシートを支えに立ち上がった。
「何やってんのよ!」
 この執念はいっそ称賛ものだが、構っている暇は一秒たりともない。携帯を掴んで手を引っ込めようとした時、女が鬼の形相で手首を掴んだ。
「拡散されたいの!?」
 香苗は一瞬息を詰めて唇を噛むと、強く女の手を振りほどいた。真っ直ぐ女を見据えて、言い放つ。
「好きにすればいい」
 まさかそう返されると思っていなかったのだろう。呆然とする女を無視して、香苗はするりと後部座席に戻りながら携帯の電源を入れた。立ち上がるまで少し時間がかかる。もどかしげに、早く早くと口の中で呟いた時、大河がすぐ目の前まで押しやられてきた。
 香苗が車に飛び込んだあと、咆哮に応えるかのように酒吞童子の髪が逆立ち、次の瞬間には引力に従って後方へなびいた。その一瞬の間に弘貴と春平が地面を蹴って左右に駆け出す。大河は瞬く間に間を詰められ、結界を形成すると同時に激突された。火花の隙間から、一瞬だけぎょろりと見開かれた眼と視線が合った。
 今度は吹っ飛ばされないように息を詰め、全身に力を込めて前のめりで足を踏ん張る。しかし容易に両足は地面を滑った。車にぶつかるギリギリのところで持ち堪えたが、腕から全身に伝わった痺れで、膝が笑う。霊力は十分余裕があるけれど、何度もこの衝撃を受けると体力を消耗する。だがここで倒れるわけにはいかない。大河は歯を食いしばり、顔を上げた。
 一方、酒吞童子は、結界に弾かれて空を滑るようにして後方へ飛ばされた。急ブレーキをかけたようにぴたりと空中で止まったとたん、弘貴と春平が両側から霊符を放った。
「オン・アキシュビヤ・ウン! 帰命し奉る、障壁成就(しょうへきじょうじゅ)、ばん……っ」
 酒吞童子がぎょろりと目の玉を左右に動かしたと思ったら、宙を飛んでいた霊符が突如として炎に包まれた。
「げっ!」
「鬼火……!?」
 弘貴が言葉を詰まらせ、春平がその現象を口にした。鬼火。要するに火の玉だ。霊符が灰となって舞い落ちる。隔離しようとしたことが怒りを煽ったのか、酒吞童子が再び咆哮を上げると回りに無数の鬼火が出現した。
「マジか……っ」
「まずい! 大河くん結界を拡大して!」
 弘貴と春平が一斉に大河の方へ駆け出した。春平の警告が飛び、大河は反射的に霊力を解放しながら地面を蹴った。あの衝撃は、初陣の時のそれと比較にならない。あまり広げると耐えられないかもしれない。二人の背後から、鬼火が一斉に襲いかかった。
「弘貴、春!」
 先程の二倍ほどの大きさまで広げると、弘貴と春平が息の合ったスライディングで結界の下から滑り込んだ。直後、結界一面に鬼火が激突し火花を上げる。
「この……ッ」
 さらに霊力を注いで強化する。廃ホテルの時と違って、一方向からなら九字結界で十分対応できる。だが、ここから先はどうする。
 絶え間なく襲う鬼火の衝撃を受けながら、大河は弘貴と春平のところまでゆっくりと後退する。すぐさま二人が立ち上がった。
 今はあんな恐ろしい容貌でも大明神として祀られているくらいだ、霊刀で一刀両断するわけにはいかない。それに、大河の霊刀は酒吞童子の首を切り落とした童子切安綱を模したものだ。樹いわく、コピーとはいえ切り落とされた時の無念を思い出してさらに怒らせるかもしれない。
 そもそも、怒らせたのはこちらだ。五体投地して謝ったら許してくれないだろうか。
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