第12話

文字数 2,757文字

 右近は、道路を隔てた向かい側にある五階建てマンションの屋上で、一人様子を眺めていた。
 午前中の哨戒を終わらせて戻ると、宗一郎が告げた。香苗が父親に連れ戻された、と。
 先回りをして香苗の自宅で待機し、やがて到着した車から降りてきた彼女は、すっかり怯えきった顔をしていた。俯いて体を硬直させ、父親の一挙手一投足に体を振るわせる。
 まるで、あの頃に戻ったようだった。
 しばらくしてベランダの窓が開き、顔を見せた香苗は酷く気分が悪そうな顔をしていた。先程から微かな風に乗って漂ってくるのは、食べ物が腐った不快な臭い。ベランダに放置されたゴミと、室内に籠っていた臭いが混じり、強烈な腐臭を放っている。マンションの出入り口から出てきた父親と女は、けらけらと笑い声を上げながら、ワンボックスカーに乗ってどこかへ走り去った。
 通りがかった人々が腐臭に顔を歪ませ、足早に通り過ぎる。
 十分ほど過ぎた頃だろうか、再び窓が閉まり、すぐに香苗が鞄を抱えて出てきた。寮へ戻るのかと意外に思って後を追うと、大通りの方へ抜け、薬局へと入って行った。十数分後、重そうなビニール袋を抱えて出てきた彼女は、来た道を引き返した。掃除道具の調達をしたようだ。
 ここで逃げれば父親はまた寮へ来る。そう思ったのだろう。
 どのくらい時間が過ぎたのか、ふと、感じ慣れた気配が感覚に触れた。わずかに遅れて、隣に閃がふわりと着地した。
「どうだ?」
 端的に問われ、右近は振り向くことなく答えた。
「変わりない」
「そうか」
 晴からは愛想がないと散々皮肉られるが、この式神も大概愛想がない。志季や椿、あるいは対となる左近の口数が多いため、悪い意味で目立つのだろうが、何も問題はないので気にしたことがない。むしろ、このままでいいと思っている。
 不意に、右近と閃が同時に後ろを振り向いた。足元に伸びる細い路地に、大河たち三人の姿がある。さらに後ろの民家の屋根を伝い向かってくるのは、二匹の鬼。
 柴と紫苑は同じ屋上で足を止め、大河たちが路地を駆け抜けてマンションへと入って行くまで、じっと見守った。どうやら彼らの監視をしていたらしい。宗史から指示が出ていたようだ。
「もしや、寮を抜け出したか」
「ああ」
 閃の問いに答えたのは、腹心である紫苑だ。少々警戒を含んだ声。柴がついと視線を向けた。
「見張っているのか」
「ああ」
 右近が答えると、柴はそうかと言って逡巡し、踵を返した。まるで、あとは任せたと言うように。
「――柴」
 不意に呼び止めると、柴と紫苑が振り向いた。右近は、視線をマンションの一室に向けたまま一瞬躊躇し、しかし結局告げた。
「何があっても手を出すなと、命を受けている」
 柴が一呼吸置いて答えた。
「承知した」
 それだけ言うと、柴と紫苑は軽い所作でその場から立ち去った。
 遠ざかる気配を感じながら、わずかに眉根が寄る。言わずともいいことを言った。
「酷だな」
 右近は、独り言のように呟いた閃を横目で見やった。
「酷?」
「違うか?」
 即座に問い返され、右近は逃げるように視線を戻した。
 何をもって酷と言うのか。そう問おうとして口を開きかけたが、今度は何も言わずに唇を結んだ。
 沈黙した右近に、閃は嘆息するように目を伏せ、身を翻した。
「哨戒に戻る」
「ああ」
 愛想も労いも気遣いもないやり取りをして、閃は姿を消した。
 ――酷。
 右近は口の中で反復する。
 ベランダにゴミ袋を運んだ香苗が、大河たちが到着したのだろう、後ろを振り向いて部屋へ戻った。
 香苗は、この二年の間でずいぶんと笑顔も増え、主張することができるようになった。けれど昨日の泣き顔は、否応なくあの頃の彼女を思い出させた。
 初めて見た彼女は、泣いていた。
 二年前。
 午前も一時になろうとする時間。哨戒中に突如として感じた霊気。そして同時に起こった小さな地震。自然によるものではないことは、考えるまでもなかった。大地に属する術者がいる。霊気を辿った先は、マンションの一室だった。
 揺れでわずかに開いたカーテンの隙間から中を窺う。見えたのは、薄暗い部屋の中でベッドに横たわり、小さく身を縮めた少女だった。
 怒りや憎しみや恨みといった感情はなく、ただただ悲しみと恐怖と孤独を纏い、身を震わせていた。その属性ゆえ、自分の嘆きに共鳴した大地が慰めるように揺れていることさえ気付いていない。
 彼女の身に何があったのか。このままでは、いつか大きな地震が一帯を襲う。
 主に報告するとしても、このまま立ち去るわけにはいかない。さてどうするか。思案した結果、一度だけ軽く窓を叩いた。気が逸れさえすれば、大地の揺れも収まる。
 もう一度叩くと、目論見通り揺れは小さくなってゆく。右近は周囲を見渡して、完全に止まったことを確認した。
 ひとまず今日のところは一旦引き、主に判断を委ねるか。そう思って踵を返し立ち去ろうとした時、背後でカーテンが動く気配がした。
 振り向くと、小柄な少女が左右に開いたカーテンを両手で握り締め、大きな目でこちらを見上げていた。真っ黒な瞳を濡らし、頬には涙の跡が残っている。
 深夜の時間、しかも二階のベランダに人が立っていれば警戒どころか恐怖でしかないだろう。少女の顔に、じわじわと恐怖の色が滲んだ。ゆっくりと掴んでいたカーテンを離し、わずかに後ろへ下がった。薄く開いた唇は震え、しかし視線を外すことなくさらに後ろへ下がる。
 このまま立ち去れば、夢だったとでも思うだろう。右近は再び身を翻し、その場を後にした。
 その後、宗一郎に報告すると、しばらく様子を窺い少女の現状を探るようにと指示が出た。言われた通り、少女の行動を監視した。
 少女の名は、野田香苗。中学二年生。両親との三人暮らしだが、夫婦仲は良くない。三日と開けず、外まで怒声が響いていた。
 学校生活に問題はない。近所の友人らと共に登校し、真面目に勉学や運動に勤しむ。反抗的な態度やいじめなどといったこともなく、ごくごく平穏で平凡な学生生活。ただ一つ気になることと言えば、放課後に友人と寄り道をするどころか、休日にも一切外出をしないことだ。部活にも入っておらず、学校が終わるとすぐに帰路に付く。
 さすがに自宅の中の様子は分からなかったが、早朝にベランダで洗濯物を干す香苗の姿を毎日見かけた。その後、学校へ行き、帰りにスーパーで買い物を済ませてから帰宅。洗濯物を取り込んだあと、掃除機の音がしていたため、掃除をするのが日課のようだった。
 両親は共働きで、帰宅時間もまちまちだ。時折、どちらかが帰って来ない日もあった。忙しい両親の手伝いをするために、あまり外出しないのだろう。
 学校生活に問題はない。ならば、あの日泣いていたのは不仲な両親に不安になったのだろうと、そう思った。
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