第9話

文字数 3,182文字

 ベンチなどがないので直接地面に正座して擬人式神を並べ、まずは深呼吸。それから意を決したように顔を引き締めて、順に手をかざす。淡い黄金色の光が、漏れることなく人型へ吸い込まれていく。
「すごいよねぇ」
 ぽつりと呟いた茂を、柴と独鈷杵を手にした美琴が振り向いた。
「僕なら、半分近く漏らしちゃうな」
 擬人式神は、偵察や監視、あるいは触手が使えない悪鬼相手なら翻弄することもできるけれど、使い道は限られていた。向き不向きもあるし、夏也と香苗がいるからと、訓練はあまりしてこなかった。それがここにきて後悔することになるとは。
「あたしもです」
 静かな同意に、茂は美琴を見下ろした。独鈷杵を握りしめ、真剣な眼差しをした香苗の横顔を真っ直ぐ見つめている。
「だから、戻ったら特訓します」
 強く断言し、美琴は顔を参道の方へ戻した。負けず嫌いの彼女らしい。香苗と距離が縮まっても、悔しさは変わらないのだろう。それと、戻ったらと、はっきり言った。俄然、勝つ気でいる。
 初めこそ、教わる側だった。けれど今では、美琴も香苗も夏也も、実力では自分より下だと評価されている。それでも、やはり学ぶことはある。性格や性別、年齢、特技、育ってきた環境や経験。一人として同じ人間はいないし、同じ人生を歩んできた人はいない。だからこそ、立場が逆になった今でも、学ぶものはある。学ぶことをやめては、成長はない。
 美琴は、それをよく分かっているのかもしれない。
 懐かしい感覚が蘇った。教師は教える側だ。けれど、生徒から教わることも多かった。教師を辞めた今でも、子供たちから学ぶことは多い。
 茂は倣うように前を向き、遠くへ視線を投げた。
「僕も特訓するよ。だから、絶対に、皆で生きて帰ろう」
 相手が誰であれ、負けるわけにはいかない。
「はい」
 美琴の強い返事に呼応するように、さわりとぬるい風が馬場を吹き抜けた。
 ふと、美琴が思い出したように携帯をポケットから引っ張り出した。
「何か気になるかい?」
 尋ねると、美琴は口ごもって携帯をオフにした。
「紺野さんたち、まだ着いてないかなと思って……」
 恥ずかしそうにぼそぼそと答える美琴の横顔が、じんわりと赤くなっていく。垂水区は、神戸市の一番西に位置する。そして明石市と加古郡を挟んだ先が、加古川市だ。ここからだと、高速を使えば一時間ほどの距離になるが、位置だけで言えば海を挟んだほぼ真向かいになる。変化した右近なら、海を越えてあっという間だろう。
「大丈夫だよ。栄明さんもいるし、使いも付いてる」
 笑いを噛み殺しながら言ってやると、美琴は少しばつの悪そうな顔をして、こくりと頷いた。こういうところが可愛いのだ。噛み殺したはずの笑い声がつい小さく漏れて、じろりと睨まれた。
 それから打ち合わせ通りに準備を終え、グループメッセージを通話状態にした。右近が三メートルほどの水龍を形成し、本殿の敷地に結界を張ると、柴は見張りについた。
 その間に、オレンジ色と茜色が混じった空は西から闇に飲まれ、景色が曖昧になっていく。
 背後では、右近の結界が黄金色の光を放ち、周囲をほのかに照らす。大鳥居の前を行き交う車のヘッドライトは見えるけれど、人の姿は見えない。いつも通り授与所は終わっているし、普段からこんな感じなのか。それとも、参拝できないと告知されていたからか。
 長いようで短くもあった日暮はあっという間に過ぎ去り、辺りは闇に包まれた。悪鬼の気配は、まだ感じない。
 堪え切れなくなったのか、不意に、馬場の東側を見ていた香苗が深呼吸した。目を閉じて胸に拳を当て、ゆっくりと。落ち着けと、自分に言い聞かせるように。
「かな……」
「香苗」
 右近と、西側を見張っていた美琴の声が被った。香苗と右近が振り向き、茂は横目で見やる。香苗に背を向けたまま、美琴はもごもごと口ごもった。
「……戻ったら具現化のコツ教えるから、擬人式神のコツ、教えてよ」
 ぼそぼそと、ぶっきらぼうに出された交換条件。
「う、うん!」
 嬉しそうな大きい返事に、美琴は少しだけ顔を赤くして短い溜め息で答えた。
 落ち着いたか、はい、と話す右近と香苗の声に交じって、ほんと世話が焼ける、と呟いた美琴のぼやきを、茂は聞き逃さなかった――と。
 微笑ましいやり取りとは反対に、不意に水龍が動きを止め、右近がぴくりと反応して刀を具現化しながら険しい顔で空を仰いだ。同時に、
「来たぞ」
 手に持っていたそれぞれの携帯から柴の声が届いた。一瞬で場の空気が張り詰める。
()の方角。悪鬼と隗しか見当たらぬ。気を付けろ」
「了解」
 声を揃えて返事をし、通話状態にしたまま携帯をポケットに突っ込んでそれぞれの方向を注視する。子は北。本殿の裏の方角だ。人の感覚では、まだ邪気を感じ取れない。それだけ距離があるということだ。茂が見据える参道や周辺にもまだ人の影はないが、霊刀を具現化し、意識を集中する。
 その横で、美琴が独鈷杵を手にゆっくりと息を吐いた。維持においては問題ないが、具現化はまだ時間がかかる。けれど、初めて具現化した廃ホテル事件の日よりは、格段に速くなっている。きっと、部屋で何度も何度も繰り返し練習しているのだろう。この調子なら、あっという間に皆と同じ速度で具現化できるようになる。
 努力は恐ろしい。けれど、嬉しくもある。茂は喜びを覚えつつ、感覚に触れた禍々しい邪気に生唾を飲み込んだ。
 茂、美琴、右近は刀の柄を握り直し、香苗は霊符を持つ手に力を込める。
 暗闇をほんのりと照らす結界の光。境内の外から微かに届く車の走行音。息苦しいほど張り詰めた空気。次第に近付いてくる邪気に比例してぞわぞわと肌が粟立ち、空気が穢れていく感覚すら覚える。
 柴は隗がいると言ったけれど、ずいぶん近くまで来ているはずなのに、悪鬼の邪気が強大すぎて感じ取れない。この様子では、術を仕掛けられてもぎりぎりでないと気付けないかもしれない。
 と、参道の上空。東から黒い塊が姿を現した。小ぶりの悪鬼だ。その下に、人の形をした影がぶら下がっている。
「――昴」
 ぽつりと呟いた右近の言葉が耳に刺さった。
「え……」
 美琴と香苗が振り向いた。
 悪鬼と影は空中を滑りながら高度を落とし、二の鳥居の少し向こう側で着地した。居心地が悪いのか、それとも指示が出ていたのか。悪鬼が役目は済んだとばかりに飛んでいき、人影はゆったりとした足取りでこちらへ向かいながら、霊刀を具現化した。
 この霊気は、間違いなく昴だ。
 行き交っていた車が途切れた。
 闇を背負い、結界のほのかな光が姿を照らす。まるで闇の中に浮き出たようなその姿は、今の彼の立場を如実に表しているようだ。
「昴さん……」
 香苗が、くしゃりと顔を歪めて震えた声で呟いた。
「香苗」
 叱咤するように美琴に呼ばれ、香苗はぐっと唇を噛んで表情を引き締めた。
「陽動の可能性がある。二人とも、油断しないでね」
「はい」
 昴が、地面を踏みしめるようにゆっくりと近付いてくる。二の鳥居をくぐり、広場を通るその足取りは、異様なほど落ち着いている。けれど、時間を稼いでいるようにも見える。
 やはり陽動だろうか。しかし、隗と昴が組んでいるのなら、実力的に見て皓と満流はいない。となると、杏もいない。だとしたら他の仲間。椿の可能性もあるけれど確率的には――いや、今は理屈を捏ねている場合ではない。警戒して然るべきだ。
 ザッ、と砂利を擦って、昴が石橋の数メートル手前で足を止めた。
「香苗ちゃん!」
「皆、行って!」
 茂の指示に、香苗が食い気味に指示を出す。出した相手は、擬人式神。咄嗟に昴が霊刀を構え、池から二十体の式神が一斉に飛び出した。一直線に昴へ襲いかかる。一拍置いて右近が、さらに一歩遅れて茂が駆け出した。
 次の瞬間、頭上を何かがものすごい勢いで吹っ飛んで行った。
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