第19話

文字数 2,225文字

「そこまでですよ」
 不意に、少年の声が耳に飛び込んできた。すぐには反応できなかった。幻聴だとも思った。けれど、近付いてくる足音がやけにリアルで、雅臣はゆっくりと目を開いた。
 黒い雲の向こう側に、人影がある。長袖パーカーのフードを被り、ポケットに両手を突っ込んでゆったりとした足取りでこちらへ歩み寄ってくる。
 誰に声をかけたのだろう。雅臣がぼんやりとそんなことを考えていると、動きを止めていた雲が怯えたように再度蠢いて、勢いよく雅臣に襲いかかった。
「しょうがないですねぇ」
 溜め息まじりにそうぼやいた次の瞬間、少年が地面を蹴った。ポケットから出したその手の中に、細長い何かが現れたのが見え、一瞬にして視界を真っ黒に塞がれた。と思ったら、横に一線、定規で引いたような真っ直ぐな線が入り、雲が上下に分かれた。間髪置かずに、今度は縦や横や斜めに不規則な線がいくつも入る。数え切れないほど細切れになった雲が、まるで無念を嘆くように低く呻きながら、霧となって空気に溶けてゆく。
 瞬きをする間もないほど、一瞬のことだった。
 何だ、これ。
 目の前で何が起こっているのか、理解できない。
「おや、もう同化しましたか。今までで最速ですね」
 黒い霧の向こうで、少年が驚いたようにそう一人ごちた。消える霧に合わせて唸り声も小さくなり、やがて完全に消えた頃、少年がついと雅臣を見下ろしてにっこり笑った。
「貴方が煽ったのが良かったようですね」
 人好きのする笑み。けれど、手の中にはそんな笑みには似合わない物が握られていた。――日本刀。こんなものを持ち歩けば、確実に職質を受けるのに。いや、さっきの光景が見間違いでないのなら、何もないところから突然現れたのだ。
「ああ、気に病む必要はありませんよ。悪いのは貴方じゃありません。何も知らず、貴方にあれだけの悪鬼を生ませた彼らが悪いんです。自業自得ってやつですよ」
 少年は、笑みを湛えたままおどけるように肩を竦めた。
 同化、悪鬼、生ませた――日本刀といい、一体どこから現れて、彼は何を言っているのだろう。
「まあ、残念ながら一人は見えていたようですが。命拾いをしましたねぇ、彼」
 ね、と同意を求められても、意味がさっぱり分からない。返答に困る雅臣に構わず、少年は続けた。
「この世に、平等などありません」
 手の中の刀が煙のように消え失せ、少年は何かを握ったままの手をポケットに突っ込んだ。目を疑うような光景と、突然語り出した少年に言葉も出ない。
 雅臣は、少年のポケットに突っ込まれた手から上へ、ゆっくりと視線を動かす。こちらを見下ろす少年と目が合って、その眼差しに思わず息をのんだ。
 背筋が凍るほど冷ややかな、漆黒の瞳。
「容姿、家柄、環境、才能、頭脳、力、思想、性別、人種、趣味嗜好、職種、果ては個人の信条までも優劣を付け、己がいかに優れているかを知らしめるために人を陥れ、屈服させ、優位に立とうとする。それが人の本性です。ゆえにこの世は、不平等と理不尽で成り立っている。貴方もそうでしょう。力あるものに理不尽に虐げられ、蔑まれ、大切なものを奪われた。違いますか?」
 まだ中学生にも見える少年の口から出る言葉とは思えなかった。けれど、先程までの気さくな口調と打って変わって、淡々とした口調には妙な重みがあった。
 この少年も、自分と同じく虐げられてきたのだろうか。不思議と引きつけられる闇のように黒い瞳を直視して、雅臣は小さく頷いた。
「俺は、あいつらに……消えて欲しいと、思った。あんな奴ら、いらないって」
 こんな見ず知らずの少年に何を言っているのかと頭の片隅で考えつつも、口は止まらない。
「あいつらの欲のために、何もかも失った。親の信用も、松井さんとの時間も、全て……ッ!」
 雅臣は両腕を振り上げ、力任せに地面に叩き付けた。何度も、何度も、何度も。そして、叩き付けた位置から手前に引き摺った。手の側面が擦れて、地面に血の筋を作る。
「俺は、これからどうすれば……っ」
 背中を丸め、地面に額を押し付けて、呻くように呟く。
 生まれた時から築いてきた両親との絆は、きっともう修復できないほどに壊れている。
『もういい、好きにしなさい。その代わり、何があっても自分で何とかしろ』
 向けられた目には、間違いなく失望があった。
「もう、帰れない……」
 帰る場所すらも、失った。
 本山たちから暴行を受けている時でさえこぼれなかった涙が、初めてこぼれた。
 少年の靴底が、ざっと地面を擦る。一歩一歩近付いて、目の前で止まった。
「来てください」
 その一言に、雅臣はゆっくりと顔を上げた。少年が腰をかがめ、自分よりやや小さな手を差し出していた。とても温かい笑顔と共に。
「僕と一緒に来てください。そして、一緒にこの世を導いてください。正しい人々が、正しく生きるために、光ある道へと」
 正しい人々が、正しく生きるために。
 そんな世の中になれば、もう誰も傷付かずに済むだろうか。理不尽に嘆くことはなくなるだろうか。大切な人たちが皆、笑って幸せになれるだろうか――両親も、友人も、彼女も。
 目の前にいる少年が何者なのか、何をしようとしているのか、どうして自分なのか。全く想像がつかない。ここで彼の手を握れば引き返せないことも、何となく分かった。けれど、行かなければと思った。
 彼らがこれから先、笑って生きていけるように――。
 雅臣はゆっくりと手を持ち上げ、少年の手を握り返した。
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