第14話

文字数 5,918文字

 大広間に入ってすぐ、集まっていた男たちに驚いた。けれどそれ以上に、床に転がったあの男の惨状に愕然とした。
 綺麗な顔立ちをしていた彼の頬は赤く腫れ上がり、いくつもの痣や傷口からは血が滲んでいた。後ろに縛られた手も腕も傷だらけで、全身が埃と砂にまみれ、頭から流れ出た血が白い床を真っ赤に染めていた。正直、弱々しく見上げられるまで、死んでいると思った。
 大丈夫なわけがない。対象である自分を逃がして、大丈夫なわけがない。彼はこうなることが分かっていた。分かっていて、逃がそうとしてくれた。
 怒りに、全身の血が沸騰したようだった。生まれて初めてこんなにも強烈な怒りを覚えた。
 どうやらリーダーであろう、カフスタイプのピアスを着けている男を睨み付けると、男は口にした。
 樹、と。
 偶然だと思った。けれど、鬼代事件とこの誘拐事件。どちらも「樹」が関わっていて、「三年前」は樹が寮に入った時期だ。とても偶然の一致だとは思えない。
 とりあえず黙ってカフス男の話を聞いた。
 矛盾や疑問も多く、アヴァロンだとか噂だとか、何の話をしているのかは分からなかったけれど、この誘拐事件の首謀者はやはり別にいて、さらに依頼主も別にいる。この男たちは金で雇われて、冬馬という男を排除するために便乗したことだけははっきりした。首謀者と依頼主、どちらかが鬼代事件の犯人。あるいは両方。
 男が冬馬へ恨み事を吐いていると、耳をつんざくような大きな雷鳴が轟いた。とたん、ずっと感覚に触れていた悪鬼の霊気が消えた。やはりだ。天候が変わり始めてから聞こえていた、自然の音ではない水音に、もしかしてと思っていた。誰かが悪鬼と戦っている。すぐ側まで来ている。
 男たちが雷に驚いている間、陽は彼の背後に横向きに転がった。声が出せれば霊符が使える。結界で冬馬を隔離しなければ、殺される。床を滑って位置を調整し、彼の手に自分の口元を押し当てた。すると察してくれたようで、小刻みに震える指先に力を込めた。爪でひっかくようにして上からガムテープの端を剥がし、指先で摘まんだ。そこを起点に陽が自ら首を回すと、彼は痛みで小さく震え、しかし五本の指でしっかりとガムテープを握った。
 その時、窓ガラスが粉々に砕けた。
 来た!
 男たちの悲鳴を聞きながら、陽は首を伸ばすように顔を上げ、一気にガムテープを剥がした。
「陽ッ!」
「陽様ッ!」
 力加減を間違えたのかと思うほど勢いよく飛び込んできた志季と椿を見て、陽が叫んだ。
「志季は援護! 椿はこの人を治癒!」
「了解!!」
 軽々と男たちの頭上を越えて陽の前に着地すると、志季はその場で男たちに対峙した。
「お、おい、なんだあいつら……」
「ここ七階だぞ、どうやって……」
「つーか、あの窓ガラスどうやって割ったんだ……」
 などと、困惑した表情でどよめく男たちに視線を巡らせる。約三十人。この程度の人数ならば一人で対処できなくはないが、一つだけ問題が発生した。首謀者がいない。しかしリーダーはいる。他の男たちと違って、冷静な目でじっとこちらを見据えている奴だ。
 一方椿は陽の元に駆け寄り、その顔を見て驚愕した。
「陽様、そのお怪我は……っ」
「大したことない、それよりこれ切ってくれる?」
「これは……なんて事を……っ」
 体を捻って後ろ手を見せると、椿はすぐ背後に回って短剣を具現化し、結束バンドを切り離した。隙間を残してつけられていたが、少し暴れたせいか擦り切れてしまっている。
「陽様、すぐに治癒を致します」
「僕は大丈夫だから、この人をお願い。急いで」
「この方は?」
「僕を逃がそうとしてくれた。助ける」
 はっきりと言い切った陽に、椿は両手首の結束バンドを切りながら大きく頷いた。
「承知致しました」
 意識を失った冬馬の結束バンドを切って、体を慎重に仰向けにする椿の側に、陽は鞄を床に下ろしてハンカチを上に置いた。
「治癒の途中で意識が戻ったらかなり痛むと思うから、これ噛ませてあげて」
「はい、ありがとうございます」
 頭の側面についたおびただしい量の血を見て、陽は唇を噛んだ。仲間であろうとなかろうと、ここまでする奴らの気が知れない。志季と椿の到着がもう少し遅ければ死んでいた。
「許さない」
 陽は小さく呟き、立ち上がった。これから男たちと大立ち回りだ、さすがにこの人数から守り切れない。少し距離を取り、尻のポケットから霊符を取り出して治癒を始めた椿の方へ軽く放る。
「オン・マカ・キャロニキャ・ソワカ。帰命(きみょう)(たてまつ)る、門戸壅塞(もんこようそく)怨敵撃攘(おんてきげきじょう)万物守護(ばんぶつしゅご)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)
 霊符が椿の頭上に飛んで停止すると、瞬時にして床に五芒星が描かれ、ドーム状の結界が形成された。これで手出しはできない。椿も治癒に専念できる。
 陽は顔を引き締め、背を向けた。
 と、ついさっきまで困惑していた男たちから小さな笑い声が漏れ、大きな笑い声に変わった。
「おいおい、なんだよ今の」
「何かのおまじないですかぁ?」
「漫画の読み過ぎじゃねぇの」
「浮いてるあれ、どういう仕掛けだぁ?」
「マジシャンでも目指してんのか?」
「てか、あの女何してんだ?」
「あれか、気功?」
「はあ? 手ぇかざせば痛みが取れますよーってやつ?」
「くっだらねぇ、取れねぇし治らねぇっつーの」
 あからさまに蔑み笑う男たちを一瞥し、陽は固まった筋肉をほぐすように肩を回した。かなり長い時間同じ姿勢だったため、少し痛みが走る。
 隣に立った陽に志季が視線を落とし、うわ、と顔を歪めた。
「お前、それ殴られたのか?」
「うん、ヘマしちゃった」
 ガムテープの上からだったとはいえ、衝撃は緩和されない。口の端が切れて青紫色に変色し、頬が赤くなっている。
「晴が黙ってねぇぞぉ。殴った奴、確実に殺されるな」
「晴兄さんたちが来てるの?」
「ああ。晴と宗史だろ、樹に怜司と、あと大河。精鋭ぞろいだ」
 あ、大河は違うか、と本人が聞いたら拗ねそうなことをさらりと口にする。もし二人の樹が同一人物ならば、GPSが使えないにもかかわらずこの場所が分かったのも頷ける。やはり、同じ人なのだろう。
 陽は気を取り直すように息をついた。
「志季、ここに首謀者はいない」
「だろうな。こいつら揃いも揃って邪気まみれで、一人として霊力感じねぇ」
「けど、首謀者を知ってる人はいる。目の前の人」
「あのホストみたいな奴か。イヤーカフ着けた」
「……うん、そう」
 この式神は一体どこでそんなことを覚えてくるのだろう。陽は複雑な顔で頷いた。
 大広間に連れて来られた時、ほとんどの者が邪気を纏っていることに驚いた。大きさはそれぞれだが、中でも一番大きいのは、冬馬と話をしていたカフス男だ。しかも先程、恨み事を吐いている時さらに大きさが増した。雷の音で我に返り、今はナリをひそめているが、相当溜め込んでいる。次は携帯男。ただ、拉致現場にいたガムテープ男と運転手――確か、智也と圭介と言ったか。彼らには一切見えない。それどころか酷く悲しそうな顔をしている。この状況では、それが異質に見える。
「てことで、あの人を確保しよう」
「了解」
 志季がにやりと不敵な笑みを浮かべると、男たちが警戒し鋭い視線を投げてきた。だが、
「待て」
 カフス男が制止した。
「一つ聞きたいことがある」
 陽と志季が訝しげに眉を寄せた。今から一戦繰り広げようというのに、何だ。
「今、樹っつったな。どんな奴だ、名字は」
 やはり引っ掛かるのか。陽は一呼吸置いて答えた。
「答える必要はありません」
「答えろ」
「ではまずそちらから。先程、そちらのお話でも出てきましたよね。樹という方が。名字は?」
 視線を逸らすことなく、しかも一切の怯えた様子も見せない陽に、男は小さく舌打ちをかました。
「成田だよ、成田樹」
 陽がわずかに目を細めて志季が目を瞠ると、意味を察して智也と圭介も目を見開き、男は息をついた。
「同じ奴か。どうなってんだ……」
 この男は、本当に何も知らないらしい。鬼代事件とこの誘拐事件が繋がっていることも、首謀者とこちらの正体も。
「あーもー、いいわ。わけ分かんねぇから」
 カフス男が苛立った様子で頭を掻いた。
「とにかく、あんたらが何もんか知らねぇし恨みもないけどさ、死んでよ。俺らのために」
 カフス男がにっこりと笑みを浮かべると、それを合図に待ってましたとばかりに男たちが鬨の声を上げ、一斉に襲いかかった。
「よっしゃあ! 肉弾戦来い!」
 表情を引き締めて構えた陽とは反対に、志季が水を得た魚のように顔を輝かせて叫んだ。物騒な式神だ。
「志季、手加減してよ!」
 陽は飛びかかってきた男の右拳を避け、左腕で固定すると右拳を鳩尾に打ち込んだ。
「えっ! 手加減しなくていいけど殺すなって宗一郎から指示が出てんだけど!」
「矛盾してるからそれ!」
「じゃあどうしたらいいんだよ!」
 志季は真正面から襲ってきた男の腹に蹴りを入れ、そのまま後ろに振り上げて背後から来た男にも蹴りを入れた。蹴られた男二人は勢いよく後ろに吹っ飛んで壁に激突した。志季に襲いかかろうとしていた男たちが動きを止め、呆然と立ち尽くした。
「あ、わり。つい力が入っちまった」
 蹴りの恰好のまま、手刀を顔の前に立てて軽い詫びを入れる。
「志季、手加減!」
 叱咤の声を上げながら、陽は背後に迫っていた男の鳩尾に、振り向きざま右肘を打ち込んだ。すぐさま後ろへ押し戻すように腹を蹴る。
「分かったって! 加減な、加減」
 意外と難しいな、と不安になるようなことを呟きながら、繰り出された拳を手の平で受けて顔面を殴り飛ばす。
「このガキ……ッ」
 男がぼやいて、陽を背後から羽交い絞めにした。正面から男が警戒心もなく突っ込んでくる。陽は脇を締めて腕を固定し、掴んだ。片足で飛び跳ね、突っ込んできた男の体を、壁を歩くようにして蹴り飛ばす。そのままバック転の要領で羽交い絞めにしていた男の背後に回って着地した。男はエビ反りになってバランスを崩し、転倒した。ここぞとばかりに背後から襲いかかってきた男の足を勢いよく払い、立ち上がる。
 智也と圭介が男たちの向こう側で立ち竦んでいる姿が目に入った。彼らは、どうしてあちら側にいるのだろう。邪気も見えない、こんな状況に慣れている風でもないのに。
 正面から来た男の拳を避け、背後に回って両手で背中を押すとちょうど向かってきた仲間と顔面をぶつけ合って転がった。結界で隔離された椿と冬馬の元へ駆け寄る男たち数人が視界に映ったが、放っておいた。無駄だ。あれほどの邪気を纏っていれば、穢れと認識されて弾かれる。
「うおっ!?」
 案の定、手を伸ばした一人が結界に阻まれ走った火花に悲鳴を上げた。椿は我関せずで冬馬の治癒を続けている。
「いって……何だぁ? なんかあるぞ」
「何があんだよ、何もねぇだろ」
「いやマジだって。なんか壁みたいなもんがあんだって」
「壁ぇ?」
 男たちは間抜けな声を漏らしながら、目を細めて凝視する。そこへ、カフス男が檄を飛ばした。
「たかが二人に何してんだッ! さっさと片付けろッ!」
 大広間に響き渡った鋭い声に、男たちが「クソっ!」と悪態をつきながら起き上がる。中にはナイフを取り出す者や、持ち込んだ鉄パイプや金属バットを手にする者もいた。
「何だよ、結局それかよ」
 志季が白けた目で見渡しながら、素手で殴りかかってきた男の拳を手の平で受け、小石でも蹴るようにひょいと足を払った。男はくるくると空中で回転し、床に落下した。
「男は拳でやってなんぼだろうが」
 どこから仕入れた理屈だろう。陽は男の腹に膝蹴りを入れつつ、何とも言えない気持ちで胸を張る式神を横目で見やった。まさか晴が教えているわけではあるまい。
 手に武器を持った男たちが、陽と志季をそれぞれ取り囲む。じりじりと間を詰め、互いにタイミングを計る。すっかり陽が落ちてしまった。窓が大きなおかげで月の光が室内を照らし、見るには困らないが悪鬼の活動が活発になる時間だ。これ以上長引かせると面倒になる。
「おい良親、どうなってる。聞いてねぇぞ」
「俺もだ。あいつ、知らなかったのかよ」
 ピアノにもたれかかったまま、高みの見物を決め込んでいた良親と呼ばれたカフス男と携帯男が、舌打ちと共に忌々しげにぼやいた。
「あの二人、相当仕込まれてんな。しょうがねぇ、これで駄目なら俺が着物の方だ。お前はガキをやれ」
「分かった。ったく、面倒だな」
 良親は実に面倒臭そうに頭を掻き、携帯男は生き生きした表情で指の関節を鳴らした。
「お前ら、それでやれなかったら報酬無しだからなー。気合入れてけよー」
「はあ!?」
 武器を得て余裕が生まれたのか、リーダーの宣言に男たちから一斉に非難の声が上がる。
「うっせぇな、さっさとや……っ」
 ぴくりと陽と志季が何かに反応したと同時に、床が大きく横に揺れた。緊張感が走り、全員が動きを止めて足を踏ん張る。一瞬男たちがうろたえ、天井から塗装やコンクリートの欠片がぱらぱらと降ってきた。地震か、長ぇな、と各々口にする。
 違う、これは――。
 不意に、外から声が響いた。志季と椿が粉砕した正面の大窓の方だ。
「何だ……?」
 窓に近い良親が気付き、呟いて首だけで振り向いた。陽と志季も含め、全員がそちらへ視線を投げる。ざざざざざ、とまるで波のような音が近付いてくる。一緒に人の声がする。しかも複数の怒鳴り声。
 訝しげな面持ちで良親がピアノから体を離した時、あ、と陽と志季が同時に察した声を漏らした。波のような音は、土だ。土が集まる音。それに、聞き覚えがある声。
 しかしこれではまるで、下から上へせり上がってきているような――。
「加減しろと言っただろうが!」
「したよ、したけど――っ!」
「速い速い速い落ちる!」
「何これ楽し――!」
「はしゃぐな馬鹿! 落ちたら死ぬぞ!」
「おい、何なんだこれは!」
「俺たちにも分かりません――っ!」
「着くぞッ! せぇのぉ……ッ」
 一つ聞き覚えのない声が混じり、
「飛べ――――――ッ!」
「ぎゃ――――――ッ!!」
 野太い叫び声と共に、割れた窓から見知った七人の男と見知らぬ一人の男が、不格好に飛び込んできた。
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