第1話

文字数 3,401文字

 午後七時。下京警察署・少年課。
 あの後、もう一人の被害者の少年の自宅へ行き野瀬歩夢(のせあゆむ)から証言が取れたことを伝えると、同じ内容の話をしてくれた。そのまま河合尊(かわいたける)の自宅へ再訪したが、尊に取り次ぐどころか話も聞かずインターホン越しに追い返された。ヒステリックに喚き散らす声というのは実に不快だ。通りすがりの人々から怪訝な視線を向けられ、辟易した気分で署に戻ることになった。
「――というわけだ。明日、もう一度河合尊に話を聞きに行く」
 了解しました、と少年襲撃事件担当の刑事らは疲労混じりの返事をし、溜め息と共に解散した。
 下平(しもひら)は、労いの声を掛け合いながら荷物を抱える後輩らを横目に、再度デスクに向かった。まだ報告書が途中だ。というより、わざと時間をかけている。
「下平さん、帰らないんですか?」
 向かい側から声をかけてきた榎本(えのもと)に、キーボードを叩きながら生返事をする。
「ちょっと時間がかかってな」
「珍しいですね」
「まあな。あと少しで終わるから、気にする必要ねぇぞ。明日もあの母親に会うんだ、帰ってしっかり休んでおけよ」
 ちらりと上目遣いで言ってやると、榎本はうんざりした顔で素直に頷いた。いつもなら、先輩より先に上がることを拒むのに。よほどあの母親に毒されたらしい。
「では、お先に失礼します。お疲れさまでした」
「おー、お疲れさん」
 会釈をして通り過ぎた榎本の気配が感じられなくなってから、下平はキーボードを叩く手を早めた。
 ほんの五分足らずで報告書を上げ、さてと目的の作業へと取り掛かる。自分のIDと所属、氏名を打ち込んで検索をかけた。検索者氏名は近藤千早(こんどうちはや)
 近藤の写真と経歴が映し出され、下平はざっと目を通した。
 所属は京都府警察本部・刑事課科学捜査研究所。階級は研究員主任。専門は法医学。他には現住所や本籍地や略歴が並んでいるばかりで、特にこれといって注目する点は見当たらない。科捜研所員は警察官ではなく公務員だ。とは言え、警察関係者である以上、犯歴はないだろう。となると。
 下平は過去の事件、事故、補導歴などから検索をかけた。
「ん」
 ヒットだ。マジか、と呟き内容に目を通す。しばらくして、
「あ――――?」
 素っ頓狂な声を小さく漏らしながら、目を細めて画面に顔を寄せた。五十代に入ってから少しずつ老眼が進行している。しかも、報告書や資料などのほとんどはデータ化されパソコンで閲覧するため、やけに目がかすむ。だからと言って、さすがにこれは見間違えない。
「これ、ほんとか……?」
 思わず疑ってしまう記述に、下平は眉根を寄せながら背もたれに体を預けた。
 この内容が間違っていなければ、そして近藤千早が鬼代事件に関係しているのなら、科捜研に入ったのは計画の内か。いや、しかし事が上手く進むとは限らない。むしろ皆無に近い。手の込んだ罠を仕掛けるほどだ、簡単に疑われるような行動はしないはず。何か、目的があるのか。
 下平は腕を組み、喉の奥で唸った。今のところ、黒に近いグレーとしか言いようがない。
「まあ、とりあえず報告はしねぇとなぁ」
 北原(きたはら)に調べて報告すると約束している。下平はログアウトしてパソコンを閉じ、横に置いていた携帯と煙草を掴んで少年課を出た。
 紺野(こんの)たちと会ってからすっかり常用するようになってしまった、屋上の喫煙所。夏真っ盛りのこの時期、夜の七時といえども空はまだ十分明るい。
 下平は色の剥げたベンチに腰を下ろし、ひとまず煙草に火を点けた。紫煙を吐き出しながら、携帯で北原の番号を呼び出す。
 久々の非番にこの時間帯なら、彼女と一緒に食事中だろうか。しかし、これ以上夜が更ければ余計邪魔をするかもしれないので、そうなる前に報告を済ませるに限る。コール四回で通じた。
 もしもしお疲れ様です、と定番の挨拶の後ろから換気扇らしき機械音が響き、ドアが閉まる音と共に消えた。自宅か。
「おう、俺だ。すまんな、邪魔したか?」
「いえ、大丈夫です」
 彼女との憩いの時間を無駄に削るわけにはいかない。照れ臭そうな声に頬を緩め、下平はさっそく本題に入った。
「近藤千早の件なんだが、特にこれと言って不審な点はなかった。ただな――」
 つい先ほど仕入れた情報を伝えると、思った通り素っ頓狂な声が返ってきた。
「はぁ?」
 しばらく妙な沈黙が流れ、今度は怪訝な声で尋ねられた。
「それ、本当なんですか?」
「俺もそう思った。けどまあ……本当なんだろうな」
 さすがにあれで虚偽は有り得ないだろう。溜め息と煙混じりに言ってやると、北原は低く唸った。
「もし近藤さんが事件に関わっているとしたら、科捜研に入ったのって故意、なんでしょうか」
「やっぱそう考えるか。けど、そうそう上手くいく保証なんかねぇだろうしな」
「そうですよねぇ。うーん……正直、その件が事件に関わるきっかけになったとは思えないんですけど……」
「まあな。ただ、何がきっかけになるかなんて、人には分からねぇからな。他に何かあるのかもしれねぇし」
「それは、そうですけど……」
 そうすぐに迷いは消えないか。北原の困惑した声を聞きながら、細く紫煙を吐き出す。
「紺野にはどうする? 話すか?」
「え、あ……」
 電話越しでも困った雰囲気が伝わってくる。経歴に不審な点はないが、過去に傷はある。世の中を混沌に陥れるような事件を起こすきっかけと考えるには弱いが、完全に否定できない。北原が迷うのも分かる。
「北原」
「はい」
 下平は煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「言うべきことは言えと言ったが、考えようによっては、今紺野に報告して近藤に問い詰められるより、行動が分かる今の状態でしばらく様子を見るって手もある。もし本当にあいつが関わっているとしたら、姿をくらます可能性もあるからな」
 北原によると、近藤は問い詰めても上手くかわす、つまり口が立つタイプだ。だとしたらわざわざこちらが疑っていることを知らせるよりは、余計な詮索をせずに様子を見た方が正解かもしれない。
「そう、ですよね……」
 煮え切らない声色だ。と、電話の向こう側から扉が開く音と間延びした女の声が届いた。
「ねぇたくちゃん、ご飯冷めちゃうよぉ」
 下平は肺に入れかけた煙を勢いよく噴き出した。携帯を耳から離し、軽く咳き込んだ。そういえば(たくみ)だったなと先日交換した名刺の名前を思い出す。分かったすぐ行くから、と北原の慌てた声が小さく聞こえた。
「も、もしもし、すみません。えーと」
「ああ、いい。すまん邪魔したのはこっちだ」
「いえそんな、すみません……」
 恐縮している様子がまざまざと想像できてしまい、下平は今にも漏れそうな笑いを堪えた。早々に話を終わらせないと大爆笑してしまいそうだ。
「とにかく、少し様子を見よう」
「はい、分かりました」
「それと襲撃事件のことなんだが、紺野に伝えとくから明日にでも聞いてくれ」
「重ねがさねすみません……」
「いやいいって。じゃあな、彼女の飯、味わって食えよ。たくちゃん」
「下平さんッ!」
 からかい口調であだ名を呼んでやると、間髪置かずに怒声が鼓膜を直撃した。結局堪え切れず高笑いを上げながら、紺野さんに言わないで、と言う北原の訴えを途中で遮断した。
「ありゃあ、すでに尻に敷かれてんなぁ」
 込み上げてくる笑いを落ち着かせるために、深く煙を吸い込んだ。いいネタにはなるが、紺野に言えば二人で連絡を取り合っていることがばれる。事件が解決した後にでも、笑い話として話すか。
 吸い込んだ紫煙を、空に向かって吐き出す。
「笑い話か……」
 そうなるのは、一体いつになるのだろう。
 鬼代事件は、話を聞いた限りでもかなり複雑な事件だ。少年襲撃事件とアヴァロンの噂の件だけを見ても、時間をかけて罠を張っていることが分かる。そうなると、事件自体はかなり前から計画されていた可能性がある。長期化は避けられないだろう。
 そんなにしてまで、犯人はこの世を混沌に陥れたいのか。一体、何があった。
 下平は上を向いたままもう一度煙草を吸い込んで勢いよく吐き出すと、体勢を戻して紺野のアドレスを呼び出した。
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