第3話

文字数 4,831文字

 早めの昼食を取った後、紺野と北原は兵庫県警察・生田警察署(いくたけいさつしょ)の少年課を訪れた。
 沢渡は、二人を迎え入れると長机に促した。下平と同じ年くらいか少し下か、眼鏡をかけてショートカットの彼女は、はきはきした口調で言った。
「ごめんなさい、ちょっと忙しくて。少し待っていただけますか?」
「はい、お気になさらず」
「夏休みだから色々とねぇ。すぐ終わりますから」
 そう言って沢渡は近くの自席に戻り、せわしなくノートパソコンのキーボードを叩いた。
 生田警察署の管轄は、中央区のフラワーロードから西側と、ポートアイランドと水上警察署(すいじょうけいさつしょ)の管轄である一部の海沿いを除いた区域である。つまり、繁華街のほとんどが管轄区域だ。
 夏休みともなると、ハメを外しすぎた少年少女たちや、いわゆる高校デビューならぬ夏休みデビューが横行するらしい。そうなると当然、少年課の刑事たちは忙しくなるだろう。
 せわしなく鳴っていたキーボードを叩く音が鳴り止み、沢渡はよしと一人ごちてパソコンを閉じ、立ち上がった。
「ごめんなさい。えーと、それで、樋口美琴の件でしたね」
「はい。当時の彼女の様子をお伺いしたくて」
 紺野が告げると、沢渡は「そうねぇ」と言いながら向かいの席に腰を下ろした。
「正直、下平さんから問い合わせがあって思い出したんですよ。薄情だと思います?」
「いいえ。俺たちも、全ての事件を覚えているわけではないので」
 事件に大小は関係ない。事件を追っている時は全力だ。それは当然だが、解決して時間が経つと、どうしても大きな事件や難解な事件ばかりが記憶に残る。それは仕方のないことだ。
 沢渡は眼鏡を指で押し上げた後、補導した時の様子を語った。
 当時中学二年生だった美琴を三宮で補導したのは、今から約二年前の、そろそろ夏休みも終わろうかという頃のこと。
 2006年に改正された兵庫県の青少年愛護条例では、青少年(18歳以下を指す)の深夜外出(午後11時から翌日午前五時)を制限しており、美琴を補導した時には十二時を回っていた。
 場所は、阪急三宮駅の西口。あの場所は、改札を出て階段を下りると、現在は三宮周辺の再開発に伴い閉店してしまっているが、ファストフード店があり、前には広いスペースもあるため待ち合わせスポットとして認知されている。
 その前を東西に伸びるサンキタ通り商店街は、各種飲食店、携帯ショップ、薬局、コンビニ、カラオケ、ゲームセンター、果ては占いの館など様々な店が軒を連ね、駅前ということもあり昼間は大勢の人々が行き交っている。だがほとんどの店は深夜営業をしておらず、阪急電鉄の最終便も十二時台のため、その時間を回る頃には閑散とする。
 それでも繁華街を有する駅前というのは、どうしても男女の情事が付きまとう。二人の男にしつこく言い寄られていた美琴を見つけ、すぐに未成年であると判断し補導した。
 最近では、大人びて見える子供たちは少なくない。特に女子は男子よりも成長が早く、早々に化粧を覚え、私服だと中学生なのか高校生なのか判別が難しい。高校生の中には大学生に見える子供もいるほどだ。美琴は、さすがに大学生には見えなかったものの、ずいぶんと大人びて見えたそうだ。
 ただ、その原因は外見だけではなく、署での受け答えのせいでもあったらしい。妙に落ち着いており、補導されたことに対して全く動揺を見せなかった。以前も補導されたことがあるのかと思って調べたが記録はなく、本人も初めてだと言う。
「長いこと少年課にいると、何となく分かるようになるんですよ。ああこの子は何か抱えてるなって。彼女もそうでした」
 沢渡は一旦言葉を切り、でも、と続けた。
「勘違いだったんでしょうね。あの子の場合、特にこれと言って問題はなかったんですよ」
 美琴の母親は、三宮でホステスとして働いていたらしい。補導したので迎えに来て欲しいと伝えると、母親はすぐに迎えに来て一緒に帰って行ったという。引き渡す際も、母親は非常に恐縮した態度で何度も謝罪をし、深く頭を下げた。母子家庭で母親は水商売。だから問題があるというわけではない。当たり前だ。
「夏休みだったし、単に羽目を外したかったのかなと思ったんです。色々と我慢もしているでしょうし」
 それから年を越し、初夏の訪れを感じ始めた頃。深夜のパトロール中に偶然母親と再会したらしい。彼女は元気ですかと尋ねると、母親は「ええまあ」と答えた。はっきりしない答えにじっと見つめると、どこか後ろめたそうな表情で言った。
「どうしても家計が苦しくて、親戚のところに預けたんです」
 事情を知っていたため、沢渡はそうですかと納得した。子供を手元で育てられないことに後ろめたさを覚えるのは、普通の母親として当然だ。では今はどこに? と聞くと、彼女は言った。
「京都に」
 と。
 それ以降、沢渡は樋口親子と関わることはなかったそうだ。
「親戚、ですか?」
 少しの違和感を覚えた。
「ええ、そう言ってましたよ」
 何だか嘘臭い。隣でメモを取っていた北原も腑に落ちない顔をしている。
「母親は、今も同じ住所ですか?」
「さあ? パトロールで何度もお店の前を通ってますけど、あれから会ってませんから」
 もし変わっていなければ直接行って話を聞きたいところだが、華と同様、美琴に連絡されると困る。どうするか。
 沢渡が溜め息をついた。
「彼女がどんな事件に巻き込まれたのか気になりますけど……」
 窺うような視線を向けられ、紺野は苦笑いを浮かべた。
「すみません」
「ですよね。こちらこそごめんなさい、分かってるんです。ただ、思い出すと元気なのかなって気になってしまって」
 そのあたりは、刑事は皆同じか。似たような事件が起こった時や、ふとした時に過去の事件を思い出し、被害者や遺族は今どうしているだろうと思うことはよくある。
「分かります。大丈夫、元気そうでしたよ」
 こちらも会合で一度会っただけだが、まあ元気そうには見えた。非常に無表情ではあったが。
 そうですか、と沢渡が笑みを浮かべた時、出入り口の方から声がかかった。沢渡は「はいはい」と返事をし、腰を浮かせた。
「すみません、そろそろ」
「はい、すみませんお忙しいところ。ありがとうございました」
 いいえ、と沢渡は笑みを浮かべて鞄を抱え、慌ただしく外へ駆け出した。
 沢渡を見送り、紺野と北原も少年課を後にする。
「今までとちょっと違いますね」
「だな。親戚ねぇ……」
「それ、本当なんですかねぇ。親戚だったら何で寮に入ってるんでしょう」
「そこなんだよな。それと、俺たちがあいつらに情報を渡した時、美琴はいなかったろ。もし親戚ならいてもおかしくないと思うが……」
「いくら親戚でもってことなんですかね? もしそうなら、ちょっと可哀相な気が……」
 うーん、と二人同時に唸り声が漏れた。
 補導されてから約十カ月の間に美琴は寮に入った。それは間違いないだろう。もし土御門家、賀茂家どちらかの親類だったとしたら、力を持っていてもおかしくはない。けれど、それなら寮ではなく自宅の方で預かるはずだ。それとも、美琴自身が寮に入ることを望んだのだろうか。寮に入ったがゆえに、当主自らが監視できないため疑われているとも考えられる。
「母親は美琴ちゃんが京都にいることを知ってるってことは」
「母親に承諾を得てるってことになるな」
「ですよね。もし親戚だって話が本当だとしたら当然ですけど……でも何でしょう、なんか腑に落ちないんですよねぇ」
 北原が顔をしかめた。
 家庭環境に問題はない。けれど経済的には問題があった。だから京都の親戚に預けた。辻褄は合うが、北原が言うように腑に落ちない。何故だ。
「今からどうします? 通っていた中学なら資料に残っていたので分かりますよ」
 駐車場へと続く自動ドアをくぐり抜けながら、そうだなと思案する。
 もし話の全てが真実だとしたら、樋口美琴は被疑者から外してもいいだろう。しかし、この消化不良に似た判然としない気分を解明してからだ。
「中学と、あと一応自宅にも行ってみるか。母親に話は聞けないが、賃貸だし引っ越してたとしたら隣近所から話が聞けるだろ。まずはそっちからだな」
「分かりました」
 車に乗り込み、ナビに住所を打ち込んで検索をかける。検索結果を確認し、北原はゆっくりと発車させた。
 生田警察署の駐車場を出て、北側を走る山手幹線へ出る。そこからは西へほぼ道なりだ。かつて美琴が住んでいたのは、須磨区(すまく)にあるUR住宅、いわゆる団地だ。ここからだと三十分ほどかかる。
 十分ほど走って長田区(ながたく)に入ったところで、携帯が鳴った。確認すると、下平の名が表示されていた。
「もしもし」
「俺だ。すまんな、出られなくて。今日は非番で寝てたんだ」
 起きて間もないのか、まだ寝ぼけ声だ。
「そうでしたか、すみませんお休みのところ」
「いや大丈夫だ。それより、どうした? 何か調べものか?」
 ライターを擦る音がした。長く息を吐き出したところを見計らって、紺野は言った。
「下平さんに、お伺いしたいことがありまして」
「俺にか? 何だ?」
「よろしければ、今日お時間いただけませんか」
 紺野のかしこまった声に何か感じたのか、沈黙が流れた。
 下平の返答次第によっては協力を仰ぐことになる。それには直接顔を見て話をする必要がある。電話だと、どうしても機微が分からない。
 紫煙を吐く息が聞こえた後、下平が言った。
「分かった」
 刑事歴は彼の方が遥かに長い。何か察したような、重苦しい声だった。
「ありがとうございます。今神戸にいるので、戻ってからになりますが」
「ああ、それなら仕事上がりでどうだ? ついでだし、飯食おう。連絡してくれ」
「分かりました。では、後でまた」
「ああ」
 通話が切れたことを確認し、紺野は画面をオフにして内ポケットにしまった。
「北原、お前、今日仕事終わり大丈夫か?」
「大丈夫です。下平さんと会うんですよね」
「ああ」
 分かりました、という北原の了承を聞き、不意に振り向いた。
「そういやお前、最近彼女と会ってねぇって言ってたけど、大丈夫なのか? 明日、久々の非番だろ。今夜から会わねぇのか」
 事件捜査の最中にほぼ休みは取れない。一日休めばそれだけ証拠が薄れるからだ。実際、鬼代事件が起こってから休暇は取れておらず、以前も二ヶ月近く休暇が取れないことがありさすがに死ぬかと思った。だが、長引くことが予想される鬼代事件において、上層部から交代で休暇を取るようにと通達が来たのだ。捜査員の体を心配しているというよりは、警察であろうとも、昨今働き方の改革に力を入れる政府の方針には逆らえないと言ったところだろう。
「彼女、今日女子会なんですよ。明日昼から会うんで大丈夫です」
「女子会ねぇ」
 酒を飲みながら一体何を話しているのやら。
「まあ、呼び出しがないことを祈って、羽伸ばして来いよ」
「嫌なこと言わないでくださいよぉ。それでなくてもしょっちゅう約束ドタキャンしてるんですからぁ」
 北原はハンドルにしがみつくようにして、眉尻を下げた情けない顔で訴えた。この様子ではすでに尻に敷かれていると見た。
「そういう紺野さんはどうするんですか?」
「掃除して寝る」
 一瞬沈黙が流れ、北原がちらりと紺野に視線を投げた。
「何だよ」
「いえ……彼女に紹介頼みましょうか?」
「いらねぇよ! 余計な世話だッ!」
 運転中の北原には手が出せない。忌々しげに睨みつけると、北原は楽しげに笑った。最近神経が太くなってきたように思えるが気のせいか。成長したと思えば頼もしいが、憎たらしくなったものだ。
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