第5話

文字数 6,215文字

 身支度を済ませて部屋を出ると、ちょうど美琴(みこと)が部屋から出てきたところだった。訓練用の身軽な格好だ。
「おはよう。早いな」
「おはようございます。今日、出掛けるので」
 独鈷杵を作りに宗史らと外出し、さらに午後一時より会合が開かれる。その分減ってしまう訓練時間を補うためだろう。
「……怜司さん、大丈夫ですか?」
「ああ、意外と平気だな」
「そうですか」
 良かったです、と小声で付け加えた。何となく並んで廊下を進む。
「そうだ、美琴。昨日話せなかったが、どんな独鈷杵にするか決めたか?」
「はい。華さんたちの独鈷杵を参考にしました。やっぱり、独鈷杵にします」
「そうか。まあ、使いやすいからな。三鈷杵(さんこしょ)五鈷杵(ごこしょ)は嵩張るし」
「はい」
 独鈷杵は、金剛杵(こんごうしょ)の一つである。両端にある爪の数や形でその呼び名と意味が変わり、七鈷杵(ななこしょ)九鈷杵(くこしょ)宝珠杵(ほうじゅしょ)と数も多い。現在、宗史らを含め霊刀の使い手は全員独鈷杵だ。人と仏が一体となる、という意味を持つ独鈷杵は、爪が一つでポケットに入れておきやすいという、実用的な理由で選ばれやすい。
 材質はどうする、他の物も確かめてから決めようと思ってます、と慎重な意見を述べる美琴を見下ろす。
 昨日の訓練時、部屋に籠っている理由が判明した。おそらく誰もが、人との接触を避けるためだと思っていた彼女の行動は、意外にも部屋での自主練だった。真言や霊符の予習、さらに独鈷杵のイメージトレーニングを自らの意思で始め、一年経た今、実を結んだ。
 その陰ながらの努力は、樹のそれと似ている。
 哨戒から戻ってからの自主練はもちろん、彼の部屋の本棚は、両家所有の文献や書物を書き写したであろう無数のノートが占領している。初めてそれを見た時、恵まれた才能に胡坐を掻いている男ではないのだと驚いた。おそらく今は、大河の指導に時間を取られる分、部屋で筋トレや無真言結界のトレーニングをこなしているのだろう。
 ただ内通者がいると確定した今、美琴が部屋に籠っている間、本当に自主練をしていたのかどうかは分からない。他の者に対しても同じことが言えるが、美琴の場合は一人の時間が長すぎる。
 個室で一人きりの時間、何をしているのか誰にも分からないのだ。
 階段に差し掛かった時、背後で扉が開く音がした。
「あ、怜司さん、美琴ちゃん、おはようございます」
 香苗だ。またこちらも早起きの上に、訓練用の服装だ。
「おはよう、香苗」
「……おはよう」
 立て続けに、今度は子供部屋の扉が開き、(あい)(れん)を連れた(はな)夏也(かや)が出てきた。
「あら、おはよう。皆早起きね」
「おはようございます、怜司さん、美琴ちゃん、香苗ちゃん」
 藍と蓮が怜司たちの姿を見たとたん、元気に走り寄って足にしがみついた。
「おはよう。藍、蓮、おはよう」
 口々に挨拶を交わし、怜司が腰を曲げて頭を撫でてやると、今までならば無言でこくりと頷いていたけれど、一昨日の迷子事件で宗一郎のお叱りが効いたのだろう、
「おはようございます」
 と昨日から口を揃えて返してくるようになった。
 正直なところ、藍と蓮が自分たちの環境を正確に理解しているとは思えない。けれど、寮に引き取られた理由が理由だっただけに、口数が少ないことを懸念しつつも強く言えず、ここまで来てしまった。ただ、謝罪や礼を言うべき時は言うし、勉強の理解度も早く、表情も豊かだ。それに子供の成長は差が出やすい。(しげる)はもちろん、律子(りつこ)夏美(なつみ)、家政婦の妙子(たえこ)ら「先輩ママ」たちの助言を受けながら、華を中心に全員でゆっくりと成長を見守ってきた。
 それをあの一言でこうも変化させるとは、さすが宗一郎、二人の子を育ててきた先輩パパだ。
「そうだわ、怜司くん。樹、起きてくるかしら」
「あの様子じゃ無理じゃないか? 昼まで起きてこないと思う」
「じゃあ、樹の分はいいかしらね。もし起きてきたらパンもあるし」
「苦くなければ何でも食べるからな。それより」
 ぞろぞろと廊下を行きながら、怜司は歩く速度を緩めて華の隣に並んだ。先に双子を連れた夏也と美琴、香苗が行く。
「藍と蓮に、話したのか?」
 小声で尋ねると、ええ、と華が頷いた。
「さっきね。あの子たち、柴と紫苑のこと覚えてたわ。助けてくれた男の人がいたの覚えてる? って聞いたら、覚えてるって。長い髪の鬼さんだったって」
「ちゃんと鬼だって認識してたのか」
「みたいね。まあ角があるし、あのあと皆で話したし。話の内容をきちんと理解してたかどうかは分からないけど、子供の勘とか敏感さって馬鹿にできないから。ほら、事件後もそうだけど、大河くんが山口に帰る時とか、戻ってきた時も」
「ああ……」
 あの時のやり切れない気持ちを思い出したのか、華は俯き加減で悲しげな笑みを浮かべた。
 改めて思い出す。公園襲撃事件の後、藍と蓮は大河に泣きながら謝った。つまり、影正が殺害されたことを理解し、そこに至った原因は自分たちのせいだと判断したことになる。そして大河が寮を出る時はぎゅっと唇を噛んで涙を堪え、タクシーが走り去り見えなくなったとたん、大声で泣いた。大河が戻ってきた時は、怯えたような顔で様子を窺っていた。
 思っている以上に、藍と蓮は聡いのかもしれない。
「一昨日のことも話したわ。二人が見つけて教えてくれたのよって。だからちゃんとお礼言ってねって言ったら、分かったって」
「そうか……それなら、心配ないかもな」
 ええ、と華は頷いた。
 子供は豊富な知識がない代わりに、本能でその本質を見抜くと言われる。
 藍と蓮は、寮の全員に懐いている。もしその説が本当ならば、内通者の本質は悪ではないことになる。寮で笑いながら共同生活をし、一方で凄惨な事件を起こす。また、もし柴と紫苑に懐いたとしたら、鬼の本質も悪ではないことになる。人を食らい生きる鬼の本質と、むやみに食らうことをしなかった個々の人格。
 彼らはその矛盾を、どう捉えているのだろう。
「っと、どうした?」
 夏也たちがダイニングに入ってすぐの辺りで立ち止まり、怜司と華は足を止めた。
夏也たちの頭越しに見えたのは、柔軟の最中だったらしい、中断して庭から室内を黙って見つめる大河と弘貴と春平の姿。そして、縁側でこちらを振り向いた柴と紫苑、手をつないでゆっくりと二人に歩み寄る藍と蓮だ。
 蝉の声と、活動を始めた人の微かな声や車の走行音が届く。
 藍と蓮は、柴と紫苑の側で足を止めた。真っ直ぐ見据えてくる二人の横顔に、怯えた色は見えない。ただ、少し緊張している様には見える。
 柴がおもむろに投げ出していた足を上げ、振り向いて姿勢正しく正座した。紫苑も庭に向けていた体を双子に向けた。
 四人が正対した状態で、藍と蓮はつないでいた手を離し、二人をじっと見上げたまま口を開いた。
「助けてくれて、ありがとうございました」
 声を揃えて告げると両手を前で合わせ、ぺこりと頭を下げた。
 その様子を黙って見つめていた柴が、静かに言った。
「怪我は、無かったか」
 一言ずつ区切るように問うと、藍と蓮は頭を上げてこくりと頷いた。
「それは、良かった」
 それだけ告げて、柴は口をつぐんだ。しばらく沈黙が流れ、不意に藍と蓮が動いた。大きな目で二人を見上げたまま、藍は柴へ、蓮は紫苑の方へ近付き、遠慮がちに何かをねだるようについと着物の袖を引っ張った。
 怜司の隣で、華が微笑んだ。
 真っ直ぐ見上げる黒目がちな大きな瞳と、袖を掴む小さな手を交互に見やる。先に動いたのは柴の方だった。鋭い爪を気にしているのだろうか、ゆっくりと、少々戸惑い気味に腕を伸ばして藍の体を反転させ、そのまま両脇を掴んでひょいと抱えて自分の膝に乗せた。とたん、藍の顔がほころんだ。甘えるように背中を柴の胸に預け、腹に回された手の指を一本、ぎゅっと握る。
 それを羨ましそうに見ていた蓮を、紫苑が小さく息をついて同じように膝に乗せた。蓮は紫苑を振り向いて見上げ、ぱっと満面の笑みを浮かべた。紫苑が少し驚いたように目を開いた。
 一連の様子に、大人組みが安堵の笑みを漏らす。
「さあ、朝食の準備しなくちゃ」
 華の清々しい声で、全員が動き出す。思い出したように挨拶が飛び交う。
「柴、紫苑、悪いんだけど、そのまま双子をお願いしていいかしら」
 気安く声をかけ、さらに双子を任せた華に少々戸惑った様子を見せたが、柴はああと一言言って承諾した。ありがとう、と笑みを返して華と夏也はキッチンに入り、怜司は美琴と香苗と共に縁側へ向かう。
 さっそくおもちゃを見つけたらしい、長い髪を双子に弄ばれる柴と紫苑の前を通り過ぎながら声をかけたのは、美琴だ。
「おはよう」
 ぶっきらぼうだが自然な挨拶に、二人はおはようと返す。柴と紫苑が、さっさと靴を履いて庭に下りた美琴を視線で追いかけた。続けて声をかけたのは香苗だ。
「あのっ、柴さん、紫苑さん、おはようございますっ」
 こちらは対照的に緊張気味だ。怖がっているわけではないと分かるのは、初対面の相手に対して、香苗の態度は大体こんな感じだからだ。唯一、大河だけは例外だったが。
「おはよう」
 挨拶を返した二人に香苗ははにかんだ笑みを向け、おもむろに正座した。二人を交互に見て、意を決したように口を開く。
「あのっ、あの時、助けていただいてありがとうございましたっ」
 言うや否や両膝に手を置き深々と頭を下げた香苗を、柴と紫苑は双子の時と同じように静かに見下ろした。
「童子を連れて、よく耐えた」
 柴が告げた賛辞の言葉に、香苗は目を真ん丸にしてゆっくりと頭を上げた。
「無事で、良かった」
 付け加えられた一言に香苗はくしゃりとはにかみ、ありがとうございます、と嬉しそうに肩を竦めた。
「香苗、と言ったか」
「……あっ、はいっ」
 香苗は突然呼ばれた名前に驚き、一拍遅れて弾かれたように姿勢を正した。自己紹介もまだなのに名前を知っているのは、公園で仕入れたのか、監視していた時に知ったのか。
「皆、名は呼び捨てる。お前も、同じで構わぬ」
「え……いえ、でも……」
 眉尻を下げた香苗に、柴は首を傾げた。
「何か、不便でもあるか」
「ふ、不便というか、その……お二人とも、年上なので……」
 しどろもどろに答える香苗に、ほう、と感嘆を吐いたのは紫苑だ。
「良い心掛けだ。しかし、柴主が良いと仰っている。謹んでお受けしろ」
 非常に上から目線の意見だが、蓮に長い爪をいじられながらでは様にならない。大河たちが笑いを噛み殺した。
「えっと……」
 香苗は困惑した顔で逡巡し、じゃあ、と言って小首を傾げた。
「謹んで、お受けします……?」
 疑問符が付いているのは仕方がないだろう。紫苑が満足気に頷いた。
「行って良いぞ」
「あ、はい。……失礼します」
 もう一度紫苑が頷いた。平安時代に生きていたのだからと思わないこともないが、違和感は拭えない。
 何やら複雑な面持ちで庭に下りた香苗を見送り、怜司は息をついて縁側に腰を下ろした。
「柴、紫苑、おはよう。早いな、眠れなかったのか?」
「いや」
 藍が膝から下りて向き合い、柴の髪を三つ編みに編みはじめた。
「世話になる以上、何かせねばと思い、周囲を見回るつもりだったのだが……」
 そう言って柴は庭へ顔を向けた。その先には、弘貴と柔軟をこなす大河の姿がある。二人の側には、グラスが三つと空になったポット。何か話でもしたようだ。
「動いちゃ、駄目」
 ぷっくりと頬を膨らませ見上げる藍に、柴は顔を戻した。
「すまない」
 素直に謝った柴に笑みを返した藍は、またせっせと手を動かした。拙い手付きで編まれていく自分の髪に目を落とし、柴は「上手いものだな」と言って藍の頭を撫でる。一方、紫苑の方はと言えば、角に興味を持ったらしい、膝の上に立ち手を伸ばす蓮の体を、倒れないようにと支えている。角を握られ、さすられ、引っ張られるがままの紫苑の表情は、どこか複雑そうだ。
 どう見ても子供の世話を任されたお父さんにしか見えない。
 自らの立場を理解し、礼を告げ、こちらの体調を慮り、恩を感じ、それを返そうとする。本格的に認識を改める必要がありそうだ。
「そう気負うことないだろ。二人が双子を見てくれる間に俺たちは訓練ができるし、用事を済ませられる。助かるよ」
「それならば、良いが」
 怒られた手前動けないようだ。柴は真剣な顔つきの藍を見下ろしたまま言った。
「お前も早いが、平気なのか」
「ああ、問題ない」
「……痛くはないか」
 重ねて問うてきた内容に逡巡し、ああと気付く。怜司は奇妙な呻き声を上げながら柔軟をする大河を眺めて息をついた。
「俺はな。というか、なんで乱闘で筋肉痛になるんだ……」
 訓練でもならなかったのにどういうことなのか。樹の喜び勇む顔が目に浮かぶ。
 怜司は呆れ気味にぼやき、柔軟を終わらせて玄関の方へ向かう美琴を見送った。裏庭の物置きへ木刀を取りに行ったのだろう。同じく終わった春平と香苗が向かい合う。軽く手合わせをするようだ。
 現在、寮の学生組の中で一番実力があるのは美琴だ。僅差で弘貴、春平、香苗、大河と続く。これに陽が加わると、陽が一番だ。しかし、大河の成長速度と身体能力を鑑みると、陽はさすがに越えられないにしろ、寮内での順位はあっという間に変わるだろう。加えて無謀とも言える昨日の人選。あれは、柴と紫苑が寮を――正確には大河を監視していると確定した上で、彼を囮にこちら側へ引き入れるためだ。つまり、当主陣は柴と紫苑が敵ではないと判断していたことになる。彼らが大河を監視していた目的や、何故復活させられたのかという疑問はあるものの、二度にわたっての加勢と大河の存在を考慮すると妥当な判断だ。
 何にせよ、大河の経験値は着実に上がっている。当然、学生組は焦るだろう。訓練を初めて一週間やそこらの奴に負けてたまるかと。春平と香苗はそう考えていないかもしれないけれど、柴と紫苑が加わり、あの満身創痍を目にすれば危機感は確実に煽られる。
 ただ、それは彼らだけではない。これまで対峙したことのない量の悪鬼だったとはいえ、何人も犠牲者を出した。それが例え犯罪者だったとしても、犠牲者を出したことに変わりはない。実力不足を痛感した。
 そしてもう一つ、捨て置けない理由がある。
 怜司は靴に手を伸ばした。
 あの時――大窓から放り出された時に一瞬見えた、樹が浮かべた笑み。
 あれはどう見ても諦めの表情だった。三年前とは違うと分かっておきながら、樹は諦めたのだ。宗史や晴、大河、椿(つばき)志季(しき)がいたにもかかわらず、しかもこの二年、あんな面倒な男の相棒をしてきた自分を、見くびった。
 心底腹立たしかった。
『怜司くん以外とはコンビ組まない』
 そう言って自分から指名しておいて、いざとなったら見くびった。これに腹が立たないわけがない。
 確かに樹より実力は劣る。何か隠していると察していたのなら、本当は内通者だと疑っていたのかもしれない。それとも――自惚れだったのか。
 何にせよ、あの甘党奇行種に見くびられたとなってはプライドが許さない。
 怜司は立ち上がり、両手を組んで伸びをすると、藍と蓮のおもちゃになりつつある二人を振り向いた。
「柴、紫苑、あとでどっちか手合わせ付き合ってくれないか」
 次に何かあった時は、絶対にあんな顔をさせてやらない。いっそ助けてくれと言わせてやる。
「私が相手をしよう」
 名乗りを上げた紫苑にありがとうと返すと、怜司は力強く一歩を踏み出した。
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