第8話

文字数 6,825文字

 紺野との通話を終えた下平は、携帯の時計を見て首を傾げた。八時前。捜査会議は八時半からだ。
 とりあえず腰を上げた時、屋上の扉の前で話が終わるまで待っていた榎本が、神妙な面持ちで歩み寄ってきた。
「おはようございます」
「おう、おはよう。なんだ、まだ早いだろ」
 もう一服したい。下平が煙草を取り出すと、榎本はわずかに目を細めた。
「もう少し、本数を減らした方がいいんじゃないですか? 体に悪いですよ」
「俺にとっては我慢する方が体に悪いんだよ」
 ダイエットと禁煙どっちかしろと言われたら、迷うことなくダイエットする。しらっと吐いた屁理屈に、榎本が溜め息をついた。
 使い捨てのライターを擦って火を点けると、煙を肺まで深く吸い込んで、長く吐き出す。一連の動作と空へ昇っていく紫煙を目線で追い掛ける榎本に、下平は眉をひそめた。何か思い悩んでいるように見える。
「どうした?」
 榎本は、再びベンチに腰を下ろした下平に顔を向けて俯いた。組んだ両手を、いたずらを白状する子供のようにもじもじと揉んでいる。
「まあ、一旦座れ」
 向かいのベンチに促すと、榎本は浅く腰を下ろした。今度は膝の上で両手を組み、じっとコンクリートの床に目を落としている。何かやらかしたとしても、生真面目な分、報告は潔くするタイプだ。そんな彼女がこうも言いあぐねるとは、よほどのことをしでかしたか。
 時間はある。話すまで少し待つか。そう思い、下平は煙草に口を付けた。と、榎本が意を決した表情で顔を上げた。
「あの……っ」
「うん?」
 煙を吐き出しながら視線を向けた下平に、榎本は顔を強張らせて視線を泳がせた。
「あの……信じてもらえないと思うんですけど……聞いて頂いてもいいですか……」
 ぼそぼそと尻すぼみにそう前置きをする彼女をじっと見やる。何があったのか知らないが、非現実的な現実を経験した今なら多少のことには驚かない。
「いいから話せ」
 下平が促すと、榎本は清々しい夏の空の下では似つかわしくない話を語りだした。
 それは、夕方に雨が降った一昨日の夜こと。
 榎本は署を出たその足で、昔、繁華街で襲われかけた時一緒にいた友人の自宅を訪れたらしい。月に何度か会って様子を窺うようにしているそうだ。ひとしきり他愛ない話で盛り上がり、夕食をごちそうになってから午後十時頃に帰路に着いた。


 午後十時半過ぎ。最寄駅から自宅までは自転車で十五分ほど。夜空には薄雲がかかり、時折隙間から月が顔を覗かせる。いつもの道を走っていると、街灯に照らされた女性物のサンダルが片方転がっていた。酔っ払いの落し物だろうか、などと思いつつ速度を落として横目で通り過ぎようとした時、脇にある細い路地に転がったもう片方のサンダルが見えた。
 あの日の記憶が脳裏を掠り、急いで自転車を止めて引き返した。サンダルを回収し路地の奥に目をやると、まるで道しるべのように鞄やポーチ、携帯が散乱している。この奥は、つい最近一軒家が取り壊されて更地になっているはずだ。
 弾かれたように駆け出した。もしそうならば、更地はどん詰まりにあるため、この路地を塞いでしまえば逃げ場はない。できるだけ足音をさせずに、しかし急いで更地に向かう。
 間に合って。
 祈りながら駆ける榎本の耳に、微かにくぐもった女性の呻き声のようなものが聞こえた。ほぼ同時に、更地の奥、月の光でできた塀の影に紛れるようにごそごそ動く物体が目に入った。
「何してるのッ!」
 敷地に駆け込みながら鋭く叫ぶと、その物体は勢いよく振り向いた。ふくよかを通り越した肥満体形の男は慌てて体を起こし、すぐに巨漢を揺らして榎本に向かってきた。力づくで押し通る気だ。榎本は敷地の真ん中辺りで足を止め、斜めがけにしていたショルダーバッグを素早く外して放り投げた。腰を落として臨戦態勢に入る。
 昼間降った雨のせいで地面がぬかるんでいる。相手は大柄な男で足場は最悪。だが、これでも警察学校では上位の成績だった。日々の訓練も怠らず、同じ班の先輩からも指導を受けている。この程度で怯むわけにはいかない。
 あの時とは違う。こんな時のために警察官になった。絶対に取り押さえて、自分の罪深さを思い知らせてやる。
 マスクを顎まで下げたままの男が必死の形相で向かってくる。榎本の睨む視線に男が怯み、速度が落ちた。
 今だ! そう思い地面を思い切り蹴って飛び出した――次の瞬間。
「っ!?」
 男が、消えた。
 榎本は声を詰まらせ、咄嗟に地面を滑って足を止めた。
「え……え……?」
 唖然とした声をもらしながら周囲を見渡す。今しがた目の前に迫っていた男の姿が、どこにもない。まるで幽霊のように、一瞬で目の前から消えた。どうなっている。夢か幻か、それとも男はマジシャンか何かだったのか。
 頭上で、流れる雲の隙間から月が顔を出した。
 混乱する頭を抱えて立ち尽くす榎本の耳に、鼻をすする音が届いた。はっと我に返り音のする方へ顔を向けると、女性がぐずぐずと鼻をすすりながらもぽかんとした顔で地面に座り込んでいる。身を竦ませてサマーカーディガンの前身ごろを両手で掴み、髪も乱れ、足は裸足だ。彼女も男が消えた瞬間を見たのだろう。襲われたことよりそちらの方に驚いているように見える。何がどうなっているのか分からないが、とりあえず保護が先だ。
 榎本は、念のため周囲を警戒しながら彼女の元へと足を踏み出した。その時、地面に映った不自然な影に気付いた。彼女の方から伸びている。民家や塀の黒々とした影から飛び出るようにしてできた、一本の細長い影。周囲には、こんな細長い影ができるような物はない。
 怪訝に眉をひそめて彼女から塀の向こうの民家へ視線を投げ、さらに上へと移し――目を疑った。
 二階建ての民家の屋根の上に、人が立っている。しかも、女性だ。
 声も無く見上げていると、女性が髪をなびかせて踵を返した。
「あっ、ちょっと……っ」
 思わず引き止めようと声を上げた瞬間、先程の男と同じように、突如として消えた。
「え……?」
 一体何が起こっているのかさっぱり分からない。これは夢、それとも見間違いだろうか。
 榎本は混乱する頭を抱え、訝しげに眉を寄せながらも彼女の許へ駆け寄った。
「怪我はありませんか」
 側に膝をついてそう声をかけると、襲われた恐怖を思い出したのだろう、彼女はくしゃりと顔を歪ませて飛び付くようにしがみついてきた。ぬかるんだ地面に押し倒されたせいで、服も髪も泥だらけだ。だが、男はすぐにこちらに向かってきて、下半身を気にするような素振りがなかった。ということは、最悪の事態は避けられたのだろう。
 細い肩を震わせて嗚咽を漏らす彼女の体を、榎本は強く抱きしめた。
 重なる。あの時の自分たちに。
 ただ恐怖しかなかった。元々気が強い性格で、小さい頃はたびたび男子と張り合って喧嘩することもあった。だから男性が怖いと思ったことがなかった。けれどあの時、初めて思い知った。自分は女で、力では男に敵わないのだと。普段、男性は女性に対して手加減しているのだと。
 何故逃げなかったのかとか、自分だったら悲鳴の一つも上げるとか言う女性がいるけれど、それは男性に力づくで襲われた経験がないからだ。それはそれで幸せなことだと思う。だが、本当に被害者のことを思うのならそんな言葉は出てこないとも思う。抵抗しても逃げられず、騒いだら殺すと脅され、一度でも殴られれば男性ですら怯むというのに、女性ならなおさら。自分を過信し、男性の力が本当はどれほど強いか知らないから、簡単にあんなことが言える。
 でも、助けてくれたのも男性だった。三人組の、中年のサラリーマン。無理矢理路地裏に引き摺りこまれる際に蹴飛ばした、空き瓶やポリバケツの音で気付いてくれて、大声で叫びながら助けてくれた。大丈夫かと、怪我はないかと心配してくれて、怯える自分たちに気を使ったのか、不用意に触れようとはしなかった。一人だけ、逃げようとした犯人たちに殴られた男性がいたけれど、彼は笑って言ってくれた。
『こんなの大したことない。あんたたちが無事で良かったよ』
 と。男性の怖さと優しさを、身を持って知った。
 あの時の嬉しさと安心感と心強さは、一生忘れない。
 だからこそ許せなかった。自分より弱いと知った上で、自分の欲望のためだけに女性を傷付ける男が。優しい男性はたくさんいるのに、あんな目に遭ったせいで友人は男性恐怖症になった。父親と弟以外の男性を受け付けられず、夜は家から出られず、女性の多い職場に就職した。飲み会や接待に参加できないため、以前はかなり非難されていたと聞いた。今は過去のことを打ち明けて理解されているようだが、陰口を叩く者も少なからずいるらしい。同じ女性なのに何故理解しようとしないのか、分からない。
 榎本は子供を宥めるように、女性が泣きやむまで飽くことなく背中を撫で続けた。
 その後、彼女に身分を明かして両親に連絡を取り、事情を説明した。できれば車で来て欲しいこと、上着を持って来て欲しいことを伝えると、五分後に車で来た女性の両親と姉が大慌てで敷地に駆け込んできた。
 母親と姉に彼女を任せ、榎本は父親に名刺を渡してから被害届の説明をした。
 この手の犯罪は親告罪となり、被害者が告訴しない限り加害者の刑事責任を問えない。つまり、彼女が被害届を出して告訴しなければ無かったこと――泣き寝入りすることになる。しかし、そう分かっていても、周囲に知られたくないという気持ちと、告訴したことへの「仕返し」を恐れる女性は多い。どう考えても理不尽だ。榎本たちの場合は目撃者も多く、加害者たちはその場で警察に現行犯として緊急逮捕されたけれど、今回は彼女の気持ち一つだ。
 説明が終わると、父親は悲痛な声で言った。
「分かりました。娘と、よく話し合います……」
 榎本は唇をぎゅっと結び、深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
 目の前で突然消えたから捕まえられなかった、などと言えるはずもない。そんなこと、誰が信じるか。
 父親は、何か言いたげに唇を開きかけて、結局何も言わずに口を閉じた。
「消えたの」
 不意に口を挟んだのは、被害者女性だ。彼女は大きな膝掛けらしきものを羽織り、母親と姉に肩を抱かれてはっきりと言った。
「いきなり消えたの。黒い煙みたいなものが来て、飲み込まれるみたいにして消えた」
 と。
 榎本は大きく目を見開いた。黒い煙――確か、河合尊(かわいたける)も同じ証言をした。
「お前、何を言ってるんだ。人が消えるわけないだろ」
「そうよ、幻よ。何を言い出すかと思ったら」
「こんな目に遭えば幻くらい見るわよ。お父さん、早く帰ろう」
「違う、幻なんかじゃない、見たのちゃんと。ね、刑事さんも見たでしょ?」
 両親と姉に諭され、それでも主張する彼女に同意を求められた榎本は困惑した。実は見ましたと言うべきか、見ていませんと答えるべきか。
 唇を噛んで沈黙する榎本に、ほら見ろと父親が言った。
「刑事さんも困ってるじゃないか。すみません、刑事さん。混乱してるみたいなので、今日はこの辺で」
「え、あ、はい。何かあればいつでもご連絡ください」
「ありがとうございます。では失礼します」
「お気を付けて」
 何度も会釈をしながら更地を後にする家族を見送る。榎本は、寂しそうにこちらを振り向いた彼女から、視線を逸らした。
 あの日から、彼女からも家族からも、まだ連絡はない。


 榎本が話し終えると、下平はふかしていた煙草を灰皿に放り込んだ。
「犯罪が起こらないことが一番いい。けど最悪の事態は避けられた。榎本、よくやった」
 もし榎本が気付かなければ、暴行されて殺されていたかもしれない。
 だが、ありがとうございますと言いつつも榎本の顔は晴れない。目の前で加害者が消えたことも信じられないだろうが、何より同じ被害者だから感情移入してしまうのだろう。しかし、榎本は刑事だ。いつまでもそうさせておくわけにはいかない。
「榎本、行くぞ」
 下平は立ち上がり、屋上の扉へと足を向けた。
「え? あの……」
 榎本は動揺しながら腰を上げ、小走りに後を追った。
「その被害者、黒い煙を見たって言ったんだな?」
「あ、はい。飲み込まれるみたいにして消えたと」
 十中八九、いや、完全に悪鬼の仕業だ。となると、状況から見て榎本が見た屋根の上の女は、鬼代事件の犯人の一人。
 下平は屋上を出て、階段を下りながら困惑気味についてくる榎本に説明する。
「お前も気付いただろ、尊たちも同じ証言をした。常識的に考えて有り得ねぇが、この際手掛かりの一つとして考えるべきだ。お前が見た屋根にいた女と菊池雅臣は仲間かもしれん。女を追えば菊池の居場所も割れる可能性がある」
 同時に、鬼代事件の犯人たちの潜伏先が分かる。
 下平は、エレベーターを使わずにそのまま階段を下り続ける。
「た、確かにそうですけど……下平さん、あの話し信じてくれるんですか……?」
「何言ってんだ、当たり前だろ。クソ真面目なお前がそんなくだらねぇ嘘つくわけねぇ。まだ三カ月程度の付き合いだが、そのくらいは分かってるつもりだぞ」
 下平の大きな背中を見つめ、榎本は眉尻を下げてきつく唇を結んだ。
「で、お前、その女の顔見たんだな?」
 下平は目的の階に着くと、迷うことなく廊下を進む。
「はい、一応。でも薄暗くてはっきりとは、って、ここ階が違いますよ」
「いいんだよここで」
 怪訝な顔をする榎本をよそに、下平は「鑑識課」とプレートを掲げた扉を無遠慮に引き開けた。
喜多川(きたがわ)、いるか?」
 名前を呼びながら遠慮なく入り、並んだデスクの一番奥へ向かう。鑑識員たちが下平に視線を投げて次々と挨拶をする。
「あら、下平くん」
 向かう先にあるパソコンの向こう側から中腰で顔を出したのは、下平と同期の女性鑑識員だ。
 おうお疲れさん、と鑑識員たちに挨拶を返しながら足早に喜多川の許に行くと、下平は挨拶もなしに突然切り出した。
「喜多川、お前今暇だよな。よし暇だな、頼みがある」
 尊大に決め付けた下平を、喜多川は腰を下ろしながらにっこり満面の笑みを浮かべて見上げた。
「貴方は鑑識課を何だと思ってるのかしら暇なわけないでしょ」
「今暇だろ」
「やあね老眼が絶賛進行中なのかしら書類作成してるの見えないの?」
「その笑いながら悪態付くのやめろ、怖い。老眼はお互い様だろ」
「失礼ね、あたしはまだ平気よ。そもそも、人に頼みがあるって言っておいてその態度は何なの?」
 喜多川はしかめ面で苦言を呈しながら溜め息をついた。
「すまん悪かった。反省してるから頼まれてくれ」
「全っ然反省してるように見えないわね」
 もう一度溜め息をつき、それで? と先を促す。
「貴方が強引に捻じ込むってことは、何か急ぎの案件?」
「さすが喜多川だ。似顔絵を描いて欲しい」
 後ろで二人の遠慮のない掛け合いを唖然と眺めていた榎本が、あっと腑に落ちた顔をした。喜多川は、普段の現場では写真係だが似顔絵捜査官でもある。被疑者の写真が入手できない時や、整形をしている可能性がある時の整形後の想像画、白骨遺体の複顔などを描き、指名手配書や情報提供を呼びかける際などに使用する。
「似顔絵? 貴方の?」
「そんなわけねぇだろ。俺を指名手配犯にすんな」
 苦い顔で下平は榎本を喜多川の前へ押し出した。
「あら可愛い。初めて見るわね、新人さん?」
 つんのめるようにして前に出された榎本を見るなり、喜多川はあらあらまあと言って口元を押さえた。鑑識員としての腕は確かだが、これでは近所のおばちゃんだ。榎本が姿勢を正し、はいと返事をしながら敬礼した。
「今年の四月から少年課に配属されました、榎本と申します。よろしくお願いします」
 敬礼を解き、これまたきっちりと四十五度のお辞儀をした榎本に、喜多川はけらけらと笑い声を上げた。周囲の鑑識員たちからもくすくすと笑い声が漏れる。
「喜多川よ。よろしくね、榎本さん」
「はいっ」
 硬い声で返事をした榎本に笑みを浮かべ、喜多川は改めて下平を見やった。
「もしかして、榎本さんが犯人を見たの?」
「そんなようなもんだ。榎本、覚えてる範囲でいい、できるだけ詳細に思い出せ」
「はい、分かりました」
 励ますように背中を叩いた下平に、榎本が使命感満載の真剣な面持ちで頷いた。
「また矛盾した要求するわねぇ」
 溜め息をつきながら、喜多川はデスクの引き出しからスケッチブックを取り出した。態度で示した了解に、下平はにっと口角を上げる。
「お前、今日の捜査会議は出なくていい。皆には俺から説明しておくから似顔絵に集中しろ。喜多川、頼んだぞ」
 言うや否や下平はくるりと踵を返した。
「はいはい、頼まれたわ」
 と、不意に下平がUターンして舞い戻ってきた。
「榎本、お前んち住所どこだ?」
「は?」
 きょとんとした榎本を急かし、下平は住所を聞き出すと慌ただしく鑑識課を後にした。
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