第9話

文字数 2,223文字

 約束の土曜日。香穂が選んだのは、結局以前来たファミレスだった。それはそれで構わないけれど、人が少なそうな、穴場的なカフェなどを選ぶと思っていただけに、少し拍子抜けした。
 香穂の自宅は伏見区。怜司は中京区だ。いわく、自宅近くにお気に入りのカフェがあるが、誘っておいて自宅から近い場所を指定するのも図々しい。かと言って、自分の体質もある。また迷惑をかけるわけにはいかない。迷いに迷った挙げ句、の結果らしい。
 お気に入りのカフェは、会社の近くに本店がある「メリッジャーレ」という店の支店だそうだ。本店は常に混み合っているが、支店は住宅街の中にあるため比較的落ち着いているらしい。ケーキに定評があり、コーヒーは自家焙煎にこだわり、しかもコーヒーインストラクターがいる。リクエストをすればその場でブレンドもしてくれると聞いた。いつもは横目で通り過ぎるだけだが、支店があるのか。
 特別コーヒー好きというわけではないが、興味はある。
 あの日と同じように、話は弾んだ。五十嵐の作品だけでなく、これまで読んで面白いと思った本の話も出た。読んでみようかと思っていた本を香穂が持っていて、また逆もあり、来週の土曜日にまた会う約束をした。
「じゃあ、次はメリッジャーレにしましょうか」
 行き慣れた場所の方が、香穂ももっと落ち着けるだろう。怜司がそう提案すると、彼女はあの春の陽射しのような笑顔で頷いた。
 それがきっかけとなり、ほぼ毎週、土曜日午後一時からの数時間が、香穂との時間になった。
 元々香穂が通っていたカフェということもあって、店員に顔を覚えられ、「里見さん」が「里見くん」になり、敬語がタメ口になった十二月。
 夕方、外回りから戻ってきた川口は、どんよりとした暗雲を背負っていた。
「聞いたか、里見。広報の三井(みつい)が香穂ちゃんに告ったんだって。クリスマス近いもんなぁ」
 自然と息が詰まったのは、すっかり香穂ちゃん呼ばわりの川口のせいではない。他の課の情報をどこから仕入れてるんだ。怜司は、隣の席でうなだれて溜め息をつく川口を白い目で一瞥し、気を取り直すように密かに息を吐いた。
「そうですか」
 あ、打ち間違えた。
「でも断られたんだってよ。しかも、理由を聞いたら今度はなんて返ってきたと思う? 好きな人がいます、だってさぁー。前までは仕事が理由だったじゃねぇかぁ。誰だ、香穂ちゃんの心を盗んだ奴はー」
 あ、また間違えた。自然と眉間には皺が増える。
 やけくそ気味に吐き出した川口に、うるさい仕事しろ、と向かいの席の先輩から小言が飛んだ。
「なー、誰だと思うー?」
 懲りずに身を乗り出して寄ってきた川口に、怜司は眉根を寄せた。
「知りません。何で俺に聞くんですか」
「何でって、お前、あれからほんとに香穂ちゃんとなんもないのか?」
「何もって、何がですか」
「合同飲みの時だよ。送ったんだろ。連絡先とか交換しなかったのか? 恋愛フラグ立ちまくってたろ」
 なんだ恋愛フラグって。
「送ったって言っても、店の外までです。後日お礼は言われましたけど、何もありません」
「ほんとかー? こっそり連絡取ってんじゃねぇの?」
 なんだこの勘の鋭さは。
「してません。それより、さっさと資料作らないと帰れませんよ」
「分かってるよぉ。つーか、お前そういうとこは冷めてるよなぁ」
 二十代とは思えん、と川口は余計なことを呟きながら身を引き、しぶしぶと手を動かした。
 ――好きな人がいるのか。
 反復すると、心のどこかが針でちょんと刺されたように痛んだ。
 そんなことがあった翌日、終業後に商品管理部の女性から声をかけられた。ぱっちりした二重瞼の、綺麗な人だ。何かヘマをしただろうかと思いながらついて行くと、顔を真っ赤にし、潤んだ目で見上げられ、告白された。
 彼女は言う。ずっと好きだったと。友達からお願いしますと。
 入社してからの記憶を辿ってみたが、彼女と言葉を交わすどころか顔すら見た覚えがない。もちろん、好意を寄せてくれるのは嬉しい。けれどこちらがどういう人間かも分からないのに、何故好きだと思えるのだろう。
 すみません、と断ろうとして、不意に香穂の顔が頭をよぎった。――彼女には、好きな人がいる。いい機会かもしれない。
 ――何が?
 冷静な自分の声が問う。
 ――何を、どうするのに、いい機会なのか。
 薄く唇を開いたまま何も言わない怜司を見上げ、彼女が不安げな顔で首を傾げた。
 やがて出てきたのは、自嘲的な笑みだった。情けないというより、最低だ。せっかくこうして勇気を振り絞ってくれた相手を、利用しようとした。自分が楽になるために。
「あの……」
 彼女の言葉を遮るように深く頭を下げ、言葉にした。
「すみません。お気持ちは嬉しいですが、好きな人がいるんです。応えることはできません」
 明瞭に伝えて頭を上げると、彼女は悲しげに目を細めていた。けれど、ぐっと唇を噛んだあと、泣くでもなく走り去るでもなく、笑った。
「分かった。ありがとう、はっきり言ってくれて。ごめんね、時間取らせちゃって」
「いえ」
 じゃあ、と小さく言い置いて、彼女は小走りに立ち去った。
 彼女の足音が聞こえなくなって、怜司はゆっくりと深く息を吐いた。やっと自覚したというよりは、認めたと言った方が正しい。往生際悪く認めようとしなかったせいか、今は気持ちがすっきりしている。けれど同時に、苦い気持ちも込み上げた。
 自分に、恋愛は向いていないと分かっているのに。
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