第1話

文字数 6,139文字

「加藤さん、資格の勉強頑張ってるね」
「何て言ったっけ。CG……」
「CG-ARTS検定よ。CGクリエイターとかWEBデザインとかのやつ」
「そうそれ。いいなぁ、あんなに夢中になれるものがあるって羨ましい」
「分かるわ。あたしも何か始めようかしら」
 会社の食堂で一緒にランチをしていた先輩たちの会話を聞きながら、大塚音羽(おおつかおとは)は弁当を広げた。視線の先には、窓際の席で一人、テキストを広げて何か書き込んでいる同じ部署の先輩がいる。
「加藤さん、資格取ったら辞めちゃうって聞いたんですけど、ほんとですか?」
 音羽は今年の春、大学を卒業して会社に入社した新人社員だ。
 少々マイペースな部分を除けば、後は普通の女子社員だ。すべてにおいて平均的な評価を下されることが多い音羽は、これまでの学生生活においても平和な日常を過ごしてきた。学校の友達やバイト先でも、これと言ったトラブルはなかった。皆、良い人ばかりだった。もちろん、ちょっとしたすれ違いでの喧嘩や、飲み会などの席での彼氏や職場の愚痴や文句を聞き、酔っ払った先輩の介抱もしたが、その程度はご愛敬、お互い様というやつだ。
「そうみたいだよ。小さい頃からの夢だったらしいんだけど、諦めてたんだって。でも最近になってやっぱり諦めきれないって思って、また始めたみたい」
「今年で三十五だっけ。すごいわよね。旦那さんは知ってるのかしら」
「知ってるらしいよ。旦那さんときちんと話し合って決めたんだって。旦那さん優しい、羨ましいっ」
「て言うか、あんたどっから情報仕入れてんのよ」
「えー、そんなの本人から聞けばいいじゃん。別にヤバい話じゃないんだし」
「そりゃそうだけど。加藤さんと特別仲が良いわけじゃないでしょ。あんたのその人懐っこさ、表彰もんよね」
「ありがと」
 えへへ、と肩を竦めておどけて見せる先輩を、音羽は卵焼きをつつきながら笑った。
 入社当時から何かと世話になっている二人の先輩は、突っ込んだ方が水川真奈美(みずかわまなみ)、おどけた方が嶋京香(しまきょうか)という。初対面から親しく接してくれて、二人のお陰で早々と他の先輩たちとも馴染むことができた。噂に上がっている加藤も、いつも優しく指導してくれた。いつか辞めると聞いた時は寂しかったが、その時は彼女の夢が叶った時なのだから、笑って送ってあげなければと思っている。
「三十五で夢追い人とか、どうかしてんじゃないの?」
 不意に、音羽の背後からそんな辛辣な意見が割り込んできた。同じ部署の葉山智佐子(はやまさちこ)だ。智佐子は日替わりのメニューを乗せたトレーをテーブルに置きながら、加藤の方を見やる。
「クリエイターだがデザイナーだか知らないけど、才能がある人はもっと若くから発揮してるもんでしょ。もっと現実見て合理的に生きなさいよって感じ」
 ふんと馬鹿にした風に鼻で笑い、智佐子は背を向けて椅子に腰かけた。
 ついさっきまでの和やかな空気が、一気に重苦しいものに変わる。この人まただ、そう思いながら、音羽は卵焼きを無理矢理お茶で流し込んだ。
「そうですか? あたしはいいと思いますけど、そういうの」
 京香がカレーをすくいながらしらっと言い放つ。
「年とか関係ないでしょ。そりゃね、アイドルになる! とか言われたらさすがに、まあちょっと一旦落ち着こうかって言うけど。でも、いくつになっても何か目標に向かって頑張れるって、素敵だと思いますよ」
「何言ってんの? いい年して目標とか夢とか青臭い。馬鹿馬鹿しいこと言ってると後々困ることになるんだから」
「はあ!?」
「ちょっと、やめなよ」
 真奈美に止められて京香はぶつぶつぼやきながら目の前のカレーにがっついた。京香も黙ってサンドイッチをつまむ。ふん、と背後で笑う鼻息が聞こえた。音羽も食べかけの弁当のおかずをいくつか口に運んだが、結局半分以上残したまま蓋を閉じた。
「葉山のババア! むっかつく――――っ!」
「口悪いわね。気にしなきゃいいじゃない。どうせ僻みなんだから」
「そうだけど! そうだけどさ! 何が合理的に生きなきゃ、よ! アラフォー契約社員で実家暮らし独身彼氏無しの女が何を偉そうに語ってんのって話よ! て言うか合理的に生きるって何!? どういう生き方が合理的なの!?」
「いや、あの年で契約社員だろうが実家暮らしだろうが独身で彼氏いなかろうが構わないでしょ」
「分かってるっつーの! そうじゃなくて!」
「はいはい。まあ一旦落ち着きなさいよ」
 自分が言った台詞で諌められ、京香はうっと声を詰まらせた。
 外の空気が吸いたいと言い出した京香のために、三人は会社の屋上に来ていた。晴れ渡った青空が、内勤の音羽たちには良い気分転換になる。普段ならば。
 佐智子と少々やり合った後で、まだ興奮が冷めない京香はペットボトルのお茶を半分ほど一気に飲み干した。ぷはっとオヤジよろしく息を吐いた京香は、ベンチにだらしなく背中を預けて呟いた。
「葉山って、何であんななのかなぁ?」
「あんたが知らないのにあたしたちが知るわけないでしょ。ね、音羽」
「え、ああ、はい」
 音羽にとって、佐智子は今まで周囲にいなかったタイプだからよく分からない。年も一回り以上離れているし、先輩だし強く言えない立場ではある。だが、佐智子が確固たる持論を持っていることは分かる。
 以前、急ぎの書類を皆が残業で作成している時も、一人でさっさと帰った時があった。その時、荷物をまとめる佐智子に思わず言ってしまったのだ。帰るんですか? と。すると彼女は言った。
「あたし契約社員だからいいのよ」
 と。すっかり正社員だとばかり思っていたため驚くと、彼女は聞いてもいないのにべらべらと説明してくれた。
「契約社員は正社員より給料が少ないんだから、同じ業務をする必要ないの。あたし残業したくない人だし、社員になると休日出勤とかしなきゃいけないでしょ。無駄な時間使いたくないの。だから社員にはならないの。彼氏を作らないのも結婚をしないのも同じ理由よ。実家だったら無駄なお金使わなくてすむし、自分の時間を取られなくていいでしょ。あたしは合理的に生きてるのよ。自分に向いてないことやできないことを客観的に分析して、冷静に判断して生きてるの。夢とか理想とか追いかけて、時間を無駄に使いたくないのよね」
 そう自信満々に語ってじゃあねと立ち去る佐智子の背中を、音羽は黙って見送るしかできなかった。そういう考え方もあるのかと、そういう生き方もあるのかと漠然と思った。
 佐智子は自分の仕事はきちんとやり終えるし、ミスもほとんどない。何も問題はないが、どうにも自我が強すぎるというか、自分の考えに自信があり過ぎるというか、協調性はないと言っていい。仕事には支障がないのだから悪いわけではないが、何かこう釈然としないのは何故だろう。
 黙り込んだ音羽に、真奈美が言った。
「あの人がどう思っても、あたしたちには関係ないでしょ。むしろ、そんな人のことで怒ってる時間がもったいないわ」
「……真奈美って割り切った考え方するよね」
「割り切らなきゃやってけないわよ。面倒だし。ほら、お昼休み終わるわ。戻ろ」
「はーい。音羽、ごめんねー。なんか巻き込んじゃって」
「あ、いえ。大丈夫です」
 真奈美の言うことはもっともだ。佐智子とは仕事で顔を合わせる以外で何も関係がない。彼女の持論も、いかにも自分が正しいと言わんばかりな言い草ではあるが、それを押し付けられるわけではない。ああそうですかと聞き流せばいいことだ。
 音羽は気持ちを切り替えるために短く息を吐いて口角を上げた。午後の仕事も頑張らなければ。
「お詫びになんか奢りなさいよ」
「何でよ!」
 ぎゃあぎゃあと騒がしく屋上を出て行く二人を、音羽は小走りに追いかけた。
 葉山佐智子が事故死したと部長から報告があったのは、それから数日後のことだった。
「車のスリップ事故に巻き込まれたんだって」
「うわ、運悪ぅ」
「会社からお香典は出るそうよ」
「へぇ。お通夜とか葬儀は?」
「部長は参列しなきゃいけないみたいだけど、他の人は個人に任せるって」
「どうする?」
「俺、特別親しかったわけじゃないしなぁ」
「あたしも。それに用事があるし」
「あたし、あの人苦手だったのよね」
「俺パス。同じ部署ってだけでよく知らねぇし」
「だよねー」
 報告があった朝は、そんな会話で持ち切りだった。だが、すぐに皆不参加を決め、何事もなかったように仕事に取り掛かった。
 そんな光景を目の当たりにした音羽は、眉を寄せた。
 確かに協調性がなく、少し変わった人だったかもしれない。けれど不慮の事故で亡くなった人に対してそんな冷たい態度はないじゃないかと思う。
「真奈美先輩。葉山さんのお通夜って行きます?」
 早々に仕事に取り掛かった真奈美に背後から声をかけると、真奈美は驚いた顔で振り向いた。
「ううん、あたしは用があるから。音羽、行くの?」
「行きます。あたし、短い期間だったけど一緒に働いてましたし。お焼香くらいは」
「そう……」
 回転する椅子をくるりと回し、真奈美は小さく唸った。
「あたし、今日は彼氏の親に紹介してもらう約束なのよ。県外から来てもらってるからどうしてもずらせなくて。だから一緒には行けないけど、香典、連名にしてもらっていい?」
「あ、はい。もちろん」
「ランチの時に渡すから、よろしくね」
「はい」
 彼氏さんの親に紹介ってじゃあ結婚間近ですね、と言いたかったが真奈美は話が終わるとすぐにパソコンに向き直ってしまった。朝一番に急ぎの仕事を任されていたから、時間がないのだろう。お昼休みに聞こう、とおめでたい話題ができたことに、こんな時に不謹慎だと思いつつ自然と心が弾む。
 昼休み、真奈美から香典を預かると、京香も便乗してくれた。
「あんた、あんなに怒り狂ってたじゃない。いいの?」
 真奈美からの突っ込みに、京香は当然のように頷いた。
「確かに親しくもなかったけど、音羽の意見にも一理あると思ったのっ。悪い?」
 別に、とにやにや笑う真奈美に京香が真っ赤な顔をして突っかかる。いつも通りの光景に笑いながら、音羽は預かった香典を財布に大切にしまった。
 音羽は早めに会社を出て、コンビニで香典袋を買い、急いで帰宅した。大学時代に祖母が亡くなった時に買った喪服に着替え、すぐに会場へ向かった。部長に通夜に参加することを伝えた際に教えてもらった住所を頼りに、携帯の地図アプリを確認しながら探す。
 最寄駅から徒歩十分ほどの住宅街にある地域の公民館で、佐智子の通夜は執り行われていた。
 遺族として通夜や葬儀の経験はあるが、知り合いとして通夜や葬儀に参加したのはこれが初めてだ。誰一人として知り合いがいない参列者の中、音羽は前に並ぶ佐智子と同年代くらいの女性に倣って何とか焼香を済ませた。通夜振る舞いをすすめられたが、明日も仕事のため丁重にお断りをさせてもらった。
 会葬御礼をいただき、敷地を出てから大きな仕事をやり遂げたような気分でこっそり息を吐きながら、駅へと向かう。その途中で、数人の女性の集団に追いついた。数メートル先の会話が耳に入ってくる。
「なんか、やりきれないわねぇ」
「そうねぇ」
「後味悪いわよね」
「亡くなった人のこと悪く言いたくないけど、佐智子だって良くなかったじゃない」
「それはまあ、そうだけど……」
 佐智子の知り合いか同級生のようだが、何のことだろう。野次馬根性が頭をもたげ、音羽は歩調を彼女たちに合わせた。
「高校の時って、あんなに意固地じゃなかったわよね」
「あたしも思ってた。いつ頃からだっけ?」
「ほら、専門学校卒業して何年か経ってからよ。デザインの仕事に就きたいって夢を諦めて、派遣会社に登録した頃」
「あー、そうそう。その頃からよね。佐智子が変わったのって」
「たまに皆で集まる時だってさ、彼氏とか結婚話とか、あと仕事の話ししたらすぐに不機嫌になってたわよね。自分じゃ隠してるつもりだったみたいだけどバレバレよ。だから集まりに呼ばなくなったんじゃない。空気悪くなるって」
「あたし言われたわ。学生時代の集まりって、その時の思い出話を話すもんじゃないのって。びっくりしたわよ」
「やだ、あの子そんなこと言ってたの?」
「そりゃそういう話もするけど、近況報告とか気分転換って感じよね、普通」
「ほら、あの子、契約社員で働きだしたのってここ数年だったじゃない。それまでパートとかバイトとか」
「そうそう。彼氏ができたって話も聞いたことないしね。だからあたしたちがその手の話すると不機嫌になってたのよ」
「でも、佐智子は彼氏を作らないのも結婚しないのも正社員にならないのも、自分にとって合理的な生き方だって言ってたわよ」
「強がりに決まってるじゃない。そうじゃないと不機嫌になんてならないわよ。それにあの子、負けず嫌いだったから。見栄っ張りで恥をかくのが嫌いだったし」
「自分が正しいって感じの子だったわよねぇ」
「佐智子のうち、離婚して父子家庭じゃない? それを負い目に思ってるように見えたけど、お父さんすごく優しい人だったわよねぇ」
「多分、そういう問題じゃないんだと思うわ。うちも母子家庭だから、気持ちは分かるの。母は優しいけど金銭的に苦しいし、皆にはお父さんがいるのに何であたしにはいないのって思ってた。でも、自分が捨てられた子供だって、恵まれてないって思いたくなかった。もちろん、頭では分かってるのよ。片親だから恵まれてないわけじゃないって。母も兄も優しかったし、幸せだったもの。でも、心のどこかに他の子を羨む気持ちはあったんだと思う。両親と子供が揃ってる家庭に憧れてたから。だから、あたしは早く結婚して自分の家庭が欲しかったの」
「それであんたあんなに早く結婚決めたんだ」
「そうよ。結局、自分が置かれた環境から目を背けても何もならないのよね。無いものは無いって認めて、それをどう補うか考えて、自分の手で掴むしかない。でも佐智子は、掴むことを諦めて手放した」
「……あの子、自分の生き方に本当に満足してたのかなぁ」
「さあ……もう、分からないわね……」
 そこで彼女たちの会話は途切れた。
 音羽は外灯が照らす道の真ん中で足を止め、両腕で自分の体を抱きしめた。
 誰一人として佐智子との良い思い出話をする者がいないことに、恐怖を覚えた。ついさっき通夜に参列したばかりなのに、お悔やみの言葉を述べていたのに。それなのに会場から出たとたん、彼女に対する不満を口にする。もし自分が佐智子だったら、きっと耐えられない。
 友達にすら泣いてもらえないような人間になりたくない。
 ふと頭に浮かんだ言葉に驚いて、音羽は頭を振った。喪服姿の男女が、音羽を一瞥しながら追い越して行く。
「っ!」
 音羽は微かに漂う線香の香りから逃げるように、小走りに駅へと向かった。
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