第14話

文字数 6,367文字

「あのっ、華さんたちがこっちに来てくれてて、昴さんたちはすぐ近くまで来てるみたい! 多分五分くらい!」
 連絡がついたらしい、香苗が携帯を鞄に突っ込みながら車から飛び出してきた。助手席の外で、女が忌々しげに香苗を睨みつけている。今そんな場合ではないだろう。
「さすが!」
 弘貴がぱちんと指を鳴らした。
「邪気で気付いてくれたんだな。てことは、柴と紫苑も近くまで来てるかもしれねぇ」
「じゃあ五分間、なんとか踏ん張ろう。弘貴、さっきのどう思う?」
「断言はできねぇけど、多分、視認してからだな」
「同感。てことは、目を塞いじゃえば鬼火は防げるね」
「だろうな。問題はどうやって塞ぐかだけど……」
「ちょっ、待ちなさいよ!」
 突然女が声を上げた。振り向くと、一人逃げ出した父親を、女がつんのめりながら大河たちの背後を駆け抜けて後を追っていた。と、鬼火の攻撃が止んだ。どうやら結界外に出た父親と女に標的を定めたようだ。
「馬鹿が……ッ」
「弘貴!」
 弘貴が悪態をついて駆け出し、春平も後を追う。
「弘貴くん春くん駄目!」
「香苗ちゃんッ!」
 続けて香苗が追いかけ、その後に結界を解いた大河が続く。
 酒吞童子の大きさなら、一口で飲み込まれる。あるいは噛み殺すつもりかもしれない。どちらにせよ、香苗は父親が殺害される光景を目の前で目撃することになる。影正のことを思うと、あんな父親放っておけばいいとはどうしても思えない。それに、廃ホテルの時のような後味の悪い思いを皆に味わわせたくない。とにかく視界を防ぎさえすればいい。
でもどうすれば。
 先頭を行く父親が足をもつれさせてすっ転び、後ろを走っていた女が父親に躓き、覆いかぶさるようにして転んだ。持っていた携帯が手から放り出され、くるくると回りながら地面を滑った。
「何やってんのよ!」
「うるせぇ、さっさとどけ!」
 我先にと互いを押し合いながら立ち上がろうとする二人に酒吞童子が迫り、大きく口を開けた。父親と女の顔が恐怖に満ちて青ざめる。
 間に合わない!
「皆、酒吞童子の目を塞いで!!」
 突如、香苗が鞄を開けて叫ぶと、中から擬人式神が飛び出した。
 そうか!
 大河は霊符を取り出し、弘貴と春平が擬人式神に驚いて身を屈めながら足を止める。三十体ほどだろうか、まるで燕の水平飛行のように素早く空を切り、一瞬で弘貴と春平を追い抜くと、大口を開けた酒吞童子の背後から顔面に回り込んでべたべたと張り付いた。擬人式神を振りほどこうと髪を振り乱し、唸り声を上げながら暴れる。視認しないと鬼火が使えないと決まったわけではない、急がなければ。
「香苗ちゃん止まって!」
 指示を送ると、香苗は足踏みをするように止まって振り向いた。一方大河は地面を滑りながら霊符を構え、真言を唱えながら足を止めた。
「ノウマク・サマンダ・ボダナン・ハラチビエイ・ソワカ! 帰命(きみょう)(たてまつ)る、地霊掌中(ちれいしょうちゅう)遏悪完封(あつあくかんぷう)阻隔奪道(そがいだつどう)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!!」
 霊符が酒吞童子の頭上へ飛び、ゴゴ、と地面が微かに揺れたと思ったら、左右の森から巨大な蛇のような形をした大量の土が飛び出してきた。一瞬のうちに酒呑童子の頭上から下へ周囲を回りながら囲み、霊符と共にきゅっと縮んだ。狭い道の真ん中に、大きな土の塊ができた。廃ホテルで行使した初級ではなく上級だ。不安だったがなんとか上手くいった。そう簡単には破れないだろうが、念には念を。
「弘貴、春、結界!」
 結界ではなく地天の術を行使したのは、初級では強度が足りないと判断したからだ。弘貴と春平が行使しようとした術は中級だった。
 再び駆け出しながら指示を出すと香苗が後を追ってきて、弘貴と春平は我に返って霊符を構えた。
「オン・アキシュビヤ・ウン! 帰命(きみょう)(たてまつ)る、障壁成就(しょうへきじょうじゅ)万象奸邪(ばんぞうかんじゃ)遠離防守(えんりぼうしゅ)、急急如律令!!」
 二人が放った霊符は土の塊の上で浮かび、唱え終わるや否や、キンと甲高い音を響かせて地面に五芒星が出現し、ドーム状の結界が形成された。
 その間、大河と香苗は腰を抜かしたように地面に尻もちをついた父親と女の元へ行った。父親の様子を見て大河は目を細めた。今までの勢いはどこに置いてきたのか、ずいぶんと大人しい。地面に目を落としたまま茫然自失し、唇は震え、噛み合わない歯がかちかちと小さく音を立てている。
「な、何なの……何なのよあんたたち、何したの!? ていうかさっきから何なのよこれ、意味分かんないんだけど!」
 女が黄色い声で喚き散らす。父親の方が大人しく従ってくれそうだ。大河は香苗に父親を任せ、女の腕を掴んで無理矢理引っ張り上げた。
「いた……っ、痛いわね! 触らないでよ!」
「うるさい! 死にたくなかったら黙ってろ勝手に動くなッ!」
 あれだけの恐怖を味わっておいて、この女は状況把握ができないのか。それとも恐怖のあまり興奮しているだけなのか。どちらにせよ、うるさい。大河が鋭く一喝すると、女は肩を竦めた。一方香苗の方は、一瞬躊躇し、両手でゆっくりと父親の腕を掴んで引っ張った。ゆらりと腰を上げ、香苗に促されるがまま足を引きずるようにして歩く。
 あれだけ自分をないがしろにした父親の手を、香苗はどんな思いで引いているのだろう。
 荷室のところまで連れて行くと、女は乱暴に大河の手を振りほどき、父親の方は、香苗が手を離すと脱力したように崩れ落ちた。何か言いかけて口をつぐんだ香苗の横顔は、何とも言えない複雑な色が浮かんでいた。
「油断はできないけど、しげさんたちが来るまではどうにかもつかな」
「そろそろ来る頃だよな」
 結界の前で様子を眺めていた弘貴と春平が、安堵の息を漏らした。大河と香苗も顔を見合わせてほっと息をつく。
「土下座して謝ったら許してくれないかなぁ。あと社の掃除するとか、お酒お供えするとか。封印できないよね、一応神様だし」
 香苗がくすくすと笑った。不意に女が「あっ」と声を上げてせわしなく地面を見渡した。
「携帯ないんだけど、やだマジで!? ちょっと最悪!」
 最悪なのはお前だ、と大河は白けた目で女を見やる。状況把握だとか興奮以前に神経の太さに呆れる。弘貴と春平も呆れ顔だ。
 もうほっとこう、と視線で訴え、香苗が苦笑いを浮かべたその時、ぱらぱら、と砂がこぼれる音がした。一斉に険しい面持ちで土の塊に視線を投げる。
 まさか――。
 女がきょろきょろと地面を見渡すと、土の塊の向こう側からメッセージの着信音が鳴った。
「あっ、あったあった」
 女が嬉しそうに大河の横を小走りにすり抜けた。頭の中お花畑か! 大河が心の中で毒を吐き出し手を伸ばそうとした、次の瞬間。
 爆発したような轟音と鼓膜が破れそうなほどの咆哮が森中に響き渡り、土の塊と結界がほぼ同時に弾け飛んだ。
「うわっ!」
「きゃあっ!」
 腕を交差した弘貴と春平が大量の土と爆風を至近距離で浴び、堪え切れずに尻もちをついた。女の悲鳴に混じって、車が急停止する甲高い音が聞こえた。
 上級の地天の術と中級の結界を同時に。これが鬼の総大将と称され、大明神として祀られた酒吞童子の力。
 大河は咄嗟に香苗を背中に押しやり、襲いかかる土から顔を逸らし、片腕で顔を庇う。初陣の時と同じ、鼓膜に薄い膜が張っているような不快感。前を見ていなかったせいで土の塊が顔に直撃した。結界のおかげで多少スピードが殺されているのだろうが、痛いものは痛い。
 ほんの一瞬だった。首を振って土を払い、目をうっすらと開いて前を見て――戦慄した。
 車と土の塊があった真ん中より少し手前で、土まみれになった女がしゃがみ込んでいた。そこへ、いつの間にか駆け出した香苗と、向こう側から大口を開けた酒吞童子が競うように距離を詰める。香苗が女の襟元を掴んで後ろへ引き倒したのと、酒吞童子の口が迫ったのが、同時だった。
 もう、香苗の名前を呼ぶ隙も、やめろと叫ぶ余裕もなかった。大河は反射的に地面を強く蹴った。また弘貴と春平が立ち上がりながら駆け出し、その向こう側から昴と美琴の姿が見えた。
 ドンッ!!
 スローモーションのような一瞬を破ったのは、地面を揺らすほどの衝撃。
 四方八方に土煙が上がり、真正面から再び爆風を受けた。だが、足を止めて交差した腕で顔を庇った大河がそれを感じたのは、足元だけだった。土煙に軽く咳き込みながらそろそろと視線を上げると、目の前には大きな背中が二つ。見覚えのある着物だった。さらに視線を上げ、柴、紫苑、と口の中で呟く。
 では、香苗は?
 大河は我に返ると、顔面蒼白で二人を横に押し退けるようにして前に一歩進み出た。それ以上動くな、というように柴が腕で大河を止める。
 次第に収まっていく土煙から現れた光景に、目を瞠った。
 右近が半身の体勢で香苗を右腕に抱え、酒吞童子の顔面に左手をついている。そしてその左隣には、黒づくめの白い髪の男。右手は同じく酒吞童子の顔面に手をつき、左手には風呂敷を提げている。あの風圧は、二人が着地した衝撃と力づくで酒吞童子の動きを止めたせいか。
 酒吞童子の左右から、弘貴と昴、春平と美琴が回り込んできて、まさかの人物に目を剥いた。
右近と背中合わせに立つ男が誰か。認識したとたん、心臓がどくんと大きく跳ねた。あの時の光景が次々と脳裏に蘇る。
 視界を塞いだのは、舞い散る鮮血、力なく傾いだ穴の開いた背中、動かない影正の体、滝のようにとめどなく流れ出る血液。
 体温が上がり、視界が狭くなり、心臓の鼓動が速くなる。同時に体の奥底からじわじわと滲み出る、暗くて黒い何か。気持ち悪い。けれど押さえられない。考えるより先に体が動いた。
「――ッ!」
 父親と女以外の全員が一斉に大河に視線を投げ、酒吞童子が警戒するように唸り声を上げた。息を詰めて飛び出そうとした大河の腕を、柴と紫苑が両側から掴んだ。強く握って引き戻す。
「落ち着け」
 紫苑と隗の声が重なった。
 目を見開いて獣のように荒い呼吸を繰り返す大河に告げたのは、紫苑。今にも噛み付かんばかりに牙を剥き出した酒吞童子を諌めたのは、隗だ。
「ここで争えば、関係のない者まで巻き込みかねん。(こら)えろ」
 冷静な紫苑の説得に、大河は俯いてきつく唇を噛んだ。
 すぐそこには道路があって、車が走っている。民家も遠くない。大河は体全体を使って息を整える。紫苑の言う通りだ、無関係の人たちを巻き込みたくない。落ち着け、落ち着け、落ち着け。何度も何度も自分に言い聞かせ、滲んだ黒い感情を無理矢理押し込める。さらに強く噛んだ唇が切れた。口の中に広がった血の味に、少しだけ理性が戻った。
 大河は大きく深呼吸をした。
「……ごめん……大丈夫……」
 大河がぼそりと呟いても、二人は力を緩めたものの離そうとはしなかった。
 一方、隗は酒吞童子に告げた。
「酒吞、俺だ。(かい)だ」
 名を聞いたとたん、険しい顔で唸り声を上げていた酒吞童子の顔が、徐々に緩んでゆく。比例して唸り声も小さくなる。蛇のように揺れていた髪は落ち着き、眉間に寄っていた皺が減り、こぼれそうなほど見開いていた目は柔らかくなり、色が深紅から黒へ、牙を剥き出しにしていた口も徐々に閉じられた。上下にある牙は元々収まらないようで、口からはみ出たままだ。
 ふと、大河は視線を上げた。邪気に混じっていた霊気が濃くなっていく。あ、と大河は口の中で呟いた。酒吞童子は鬼であると同時に神でもある。あれは神気だったのだ。怒りで邪気が増幅し、神気が薄れていたのか。
 隗が顔面についていた手を下ろすと、右近も倣うように手を離し、香苗を抱えたままとんと大河の方へ跳んだ。弘貴たちも隗を警戒しながら小走りに集まってきた。
「隗……?」
 野太くしゃがれた声は、怪訝ではあったが先程までの怒りに満ちたものではなかった。
「ああ、俺だ。こんなナリをしているがな」
 隗は少々不満そうな息をついた。知り合い、なのだろうか。柴と紫苑以外の誰もがそんな疑問を頭に浮かばせる中、酒吞童子の目が驚いたように大きく見開いた。
「その気配……、誠に、あの隗か」
「何度も言わせるな。そうだと言うておる」
 呆れた息をつくと、隗はゆらりと視線を巡らせた。足元で呆然とする女を見下ろし、大河たちに順に視線を滑らせる。弘貴たちが一斉に臨戦態勢に入った。近くで車の走行音が聞こえ、エンジン音が消えた。すぐにドアが閉まる音と慌ただしい二つの足音が響く。
「そういきり立つな。今宵の目的は貴様らではない」
 隗は下げていた風呂敷をちょいと持ち上げた。細長いものが二つ包まれているのが分かる。大きさと形からして一升瓶、酒か。もしかして、酒を持参で酒吞童子に会いに来たとでも言うのか。
 茂と華が酒吞童子の横を警戒と怪訝が混じった表情をしてすり抜け、隗を見て小さな驚きの声を上げた。小走りに大河たちと合流する。
「まったく。久しく来てみれば、一体何の騒ぎだ」
 誰にともなく呆れ顔で隗が尋ねた。偶然居合わせたような言い回し。本当に偶然なのだろうか。しかし、そうだとしても何故助けた。タイミングから見て柴たちと同時にここへ到着したのだろうが、わざわざ仲裁に入る理由にはならない。柴たちに任せればいい。不自然だ。
 酒吞童子が答えた。
「そやつらは、我が縄張りを荒らしたのだ」
 憎々しく顔を歪め、ぎょろりと動いた目の玉に睨まれた女が引き攣った悲鳴を漏らした。隗が車の側に放置されたゴミ袋を一瞥し、ふんと鼻を鳴らした。
「なるほど、仕置きの最中だったか。それは邪魔をしたな。だが酒吞よ、鬼二匹に式神二体、加えて未熟とはいえこの数の陰陽師らを相手にするのは、さすがのお前でも無謀というもの」
 合わない数に首を傾げると、右近の隣にふわりと(せん)が降ってきた。
「この場は、俺の顔に免じて収めろ」
 思いがけない台詞に、大河たちが目を丸くした。何だって?
「ならぬ!」
 カッと目を見開いて酒吞童子は鋭く一蹴した。
「幾度となく我が縄張りを荒らし、この地を穢れで満たす者共を見逃すわけにはいかぬ! そやつらを見せしめにしてくれようぞ!」
 再び唸った酒吞童子に、隗は頭を掻いて嘆息した。
「あ、あの……っ」
 声を上げたのは、香苗だった。
「待て」
 腕からするりと抜け出した香苗を右近が制止した。香苗は右近を見上げ、大丈夫、と少しぎこちない笑みを浮かべる。再び酒吞童子に向き直り数歩前に出ると、皆が見守る中、緊張の面持ちで深々と頭を下げた。
「ほん、本当にすみませんでした。もう二度としません。お約束します」
 予想していなかったのだろう、酒吞童子が目を丸くした。
 大河は柴と紫苑の手を解き、弘貴と春平も駆け寄り、香苗と共に横一列に並ぶ。
「すみませんでした」
 声を揃えて謝罪を述べ、頭を下げる。そんな四人を見つめていた隗が、酒吞童子に視線をやった。
「だそうだが?」
 酒吞童子は眉根を寄せ、呆然とする父親と女をぎょろりと見やる。ひっ、と女が喉から小さな悲鳴を上げた。再び大河たちへ目を向け、じっと頭を下げたまま上げようとしない四人に、酒吞童子は口をへの字に曲げた。
 くくっと喉で笑ったのは隗だ。
「酒吞。今やお前も神の端くれであろう。悔い改めた者への寛大な措置もまた、役目ではないのか?」
 むう、と酒吞童子は悩ましい声を上げ、やがて逡巡するように目を伏せた。
「二度はないと心得ておけ」
「はい、ありがとうございます!」
 四人が声を揃えて礼を告げると、酒吞童子はすうっと音もなく上昇し、隗は森の方へ体を向けた。大河が勢いよく頭を上げて口を開く寸前、止めたのは柴だった。弘貴たちも頭を上げる。
「隗」
 隗は動きを止めたが、しかし振り向かない。
何故(なにゆえ)だ」
 端的に問う。何故、敵対するのかと。裏切ったのかと。
「さてな」
 答えにならない一言を返し、隗はとんと跳び上がり酒吞童子と共に姿を消した。
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