第8話

文字数 2,730文字

 頂上までは、料金所からスカイテラスまで三十分から四十分。そこからさらに徒歩で最短二十分だ。
 片側一車線道路。雑木林に挟まれ、木漏れ日が落ちる道がひたすら続き、しかもカーブが多い。視界は鮮やかな緑一色で覆われる。時折視界が開け、折り重なるように連なった山々を目にすることができるが、それもあっという間だ。
 さらに標高が高くなってからやっと視界が開け、谷が深くなる。比例して陽の歓声も大きくなった。上るにつれて、晴れ渡った濃い青空が近付くような錯覚に陥ることから、「青空へ駆け上がる道」という煽り文句が付いているらしい。所々に設けられた待避所で停車し景色を眺めたいところだが、今日のところはおあずけか。
 と、そこで気付いた。もしかしなくても、山頂は禁煙なのでは。
「陽、酔ってねぇか?」
「はい、大丈夫です」
「酔ったら言えよ」
「はい」
 酔っていたら待避所で停めようかと思っていたのだが、残念ながら思惑は空振りに終わった。景色に夢中になる無邪気な陽とは反対に、晴は喫煙所のことで頭をいっぱいにしながら上へ上へと車を走らせる。
 ドライブウェイ中腹、標高千メートルにある上平寺越駐車場(じょうへいじごえちゅうしゃじょう)を素通りするとさらに視界は開け、目的地である伊吹山山頂も望めるようになる。
「あ、志季」
 追いついてきたらしい。ちらりと一瞥すると、伊吹山へ向かって木々の上をぴょんぴょん飛び跳ねる物体が見えた。
「えらい時間かかったな」
「まさか、道に迷ってたなんてことないですよね?」
 冗談交じりにあははと笑った陽に、晴は口をつぐんだ。
「……否定してください」
「無理だ」
 方向音痴というわけではないのだが、好奇心が強すぎてあれこれ興味をそそられた挙げ句迷子、なんてことがないと言い切れないのがあの式神だ。沈黙が落ちた車内に、今度は二人の溜め息が漏れた。
 上平寺越駐車場を過ぎてしばらく行くと、ヘアピンカーブにNo.36と呼ばれる待避所が設けてある。おそらく、三十六番目の待避所という意味だろう。ここは、ガードレールの代わりに盛土がされており、向こう側は木々も山もなく、青い空と白い雲だけが広がっている。そのため、角度によっては盛土が隠れ、まるで道路と空が繋がっているような錯覚を起させる。晴が速度を落とした。
「おー、すげぇな」
「ほんとに道と空が繋がってるように見えますね」
 前に身を乗り出して「うわぁ」と感嘆の声を漏らす陽にくすりと笑い、晴はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
 滋賀県米原市。標高千二百メートルにあるスカイテラス伊吹山に到着したのは、七時前。手を伸ばせば届きそうなほど近い空はまだ青く、普段は見上げる山々が、今は眼下に連なっている。道路の両側にも駐車スペースが設けられ、メインの駐車場と合わせた収容台数は六百台。通路は駐車スペースをぐるりと囲む形で設けられている。
 一方通行を促す看板に従って緩やかに上る通路を進むと、やがて前方に茶色い屋根の建物が見えてくる。スカイテラスだ。
「僕たちだけの貸し切りみたいですね」
「似たようなもんだ」
 地面に書かれた案内表示に従って、とりあえず右折する。普通なら、駐車スペースを横切るなんて真似はしないしできないが、事実貸し切り状態だ。晴は白線で囲まれたスペースを無視してスカイテラスへと一直線に向かう。スカイテラスの入り口付近に、腰に手を当てて偉そうに突っ立っている神が一柱。
「遅い!」
 荒げた声が、だだっ広い駐車場に響く。このまま轢いてやろうか。晴は志季の目の前のスペースに車を滑り込ませ、停車した。
「お疲れさまでした」
「おお」
 シートベルトを外して外に出ると、晴は思い切り伸びをした。夏とは思えないほどひんやりした、澄んだ空気。天気もいい。しかも人がいない。これがただの観光なら最高なのだが、まだ続きがある。ちょっとした山登りをしなければならない。やれやれと溜め息をつきながら左右に傾けた首が、軽快な音を鳴らした。
 通路を横切って、志季がつかつかと歩み寄ってきた。
「待ちくたびれたぞー」
「事故ったら洒落になんねぇだろうが。つか、まず一服させろ。ここ喫煙所あるのか?」
「ここと向こうのトイレの間にあるみたいですよ。僕、何か飲み物買ってきますね。何がいいですか?」
「ビールって言いたいとこだけど、水。悪いな」
 いえ、と笑顔を残して自動販売機へ向かった陽と、早く吸ってこいと余計な一言を吐いて陽に続いた志季を見送り、晴は右手に建つ公衆トイレへと足を向けた。立地的にこうするしかなかったのだろう。ここより低い場所に建てられ、下り階段が設えられている。
 誰もいないのだからと思わなくもないが、陽の近くで吸うわけにはいかない。数時間ぶりの一服をじっくりと堪能する。
 スカイテラス伊吹山は、土産物屋とフードコートが一体となった施設だ。西側に設置された屋内席とテラス席、二階の展望台にもテラス席があり、天気が良ければ穂高岳や御嶽山などの名峰が一望できる。フードコートには、カレーやうどん、そばといった定番のメニューに加え、よもぎソフトクリームや薬草ソフトクリームなど、ここでしか味わえないスイーツもある。樹や双子がいたら大喜びで飛び付くだろう。ソフトクリームにかぶりつく三人のご機嫌な姿がありありと想像できて、晴は笑いを噛み殺した。
 また土産物コーナーでは、日本そばの発祥地とされる伊吹山らしく伊吹そば、琵琶湖の魚を使った佃煮やお菓子、地酒や地ビールなども売られている。こんな形でなければ間違いなく買って帰っていたのに。他には、もともと薬草がよく採れていたところに織田信長が薬草園を作らせたらしく、薬草の入浴剤や薬草茶、関ヶ原の戦いにちなんだグッズなどが販売されているそうだ。
「薬草茶か……」
 ふと、桜の顔が浮かんだ。生まれつき機能が弱い体に、薬草は効くのだろうか。などと思ってみても、店が開いていないのだから買うに買えないのだが。ホテルに売っていたら買ってみようか。
 そんなことを考えながら一服を終え、車へと戻る。どうせ山頂は禁煙だ。車に煙草を放り込み、水を喉に流し込みながら気持ちを切り替える。
 ここから山頂までは、二つのルートがある。スカイテラスの向かって左側から延びる西遊歩道と、駐車場からの中央遊歩道だ。東にも駐車場に繋がる遊歩道が設けられているが、こちらは下山専用らしい。
「西遊歩道は四十分くらいで、中央遊歩道は二十分くらいらしいです。ただ、中央の方はかなり急勾配な階段が続くみたいですよ」
「まだ時間もあるし、西だな」
 携帯の時計を確認し、即決してさっさと歩き出す。苦笑いの陽と、呆れ顔の志季が続く。志季に抱えられるという手もあるが、それは最終かつ緊急手段だ。
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