第15話

文字数 3,568文字

 今思えば、それが良くなかった。母のあの一言も影響していたのだろう。「命の恩人」が「憧れの人」になり、見かけてもなかなか声をかける勇気が出なかった。例えるなら、好きな女子や芸能人に腰が引けている状態だ。そんな気持ちを悟られたくなくて、母や祖母にも言わずにいた。
 中学に上がり、勉強に部活、空手教室と忙しくなり、ある日を境に彼の姿を見かけなくなった。仕事中に怪我でもしたのだろうかと思ったが、異動したのだと分かったのは、しばらくしてからだ。
 後悔を抱えながら、将来を見据える時が訪れた。
 小学生の頃から理科は得意で、興味もあった。中学で生物を学んでさらに興味が湧き、高校に入る頃には、自然と医者の道を考えるようになった。だが、母は例の事件の慰謝料は全額学費に充てると言ってくれたが、貯めたバイト代を足しても医学部は金がかかりすぎる。それに、どうしても頭から離れない道があった。
 警察官――ではなく、科捜研。
 空手を習っているからといっても運動が好きなわけではないし、体力に自信があるわけでもない。机で地道な作業をしている方が性に合っている。調べると、科捜研は毎年希望する科の募集がかかるわけではないようだった。とはいえ、どこに就職するにしろ、研究職や技術職を希望していることに違いはない。
 大学の理学部に進学し、犯罪心理サークルにアルバイト。未練がましいなと思いつつも、そこそこ充実したキャンパスライフを送った。何度か京都府警の科捜研の募集を覗いたが、化学科や物理科はあっても、法医科は一度もなかった。
 半ば諦めかけていた四年後。何の因果か、法医科の募集がかかった。
 一度だけ、賭けてみようと思った。これで駄目なら潔く諦める。
 民間企業は倒産や閉鎖、縮小の可能性がある。けれど、国家機関、しかも警察の機関ならその危険はない。それに、公務員で給料も安定しているからだ。聞かれてもいないのにそんな説明を付け加えた近藤に、母は「そう、頑張ってね」と言って苦笑した。
 自分で決めた、たった一度だけの挑戦。
 だから、合格を前提としてできる限りのことをした。筆記試験はもちろん、面接でも手持ちのカードを迷うことなく切った。例の事件を持ち出し、影ながら捜査の手助けができればなんて、殊勝なことを言った。それが功を奏したのか、即戦力ではなく若い世代の育成に力を入れていたのかは分からないが、一カ月後、合格・採用通知が届いた。
 父親の話しを聞いたのは、その時だ。
「ほんと、どうしてあんな男に惚れたのか未だに分からないわ。あたしの人生で唯一の汚点よ。でもね、一つだけ感謝してることがあるの。――貴方をくれたこと」
 照れ臭い台詞を事もなげに口にして、母は笑った。
 科捜研の研究員は、警察官ではないが警察職員だ。警察学校へ入校し、一ヶ月間で警察職員としての必要な知識や教養、心構えを学ぶ。ちなみに、柔剣道などの授業はない。そこから配属された科捜研において研修を受け、さらに秋頃、警察庁の付属機関である警察庁科学警察研究所(科警研)で三ヶ月間の研修が行われ、補助を経てやっと業務に当たることができる。
 忙しい日々を送る中、一年半ほど経った頃。秋の人事異動の時期に、紺野と再会した。
 その前日は、バスどころか終電を逃して科捜研に泊まり込んでいた。
「君はまた泊まったの? ちゃんと帰りなさいって言ってるでしょ。起きて起きて、仕事だよ」
 小言と共に別府にデスクの下から引きずり出され、近藤はのっそりと体を起こした。
「あと髪、いい加減切りなさいって。よくそれで見えるよね」
 半目でぼんやりしているところへさらに飛んできた小言を右から左へ聞き流し、爆発した髪に手櫛を通す。側に転がっていたペットボトルを一気にあおると、やっと脳みそが稼働を始めた。
「……時間、ない」
 時間差でぼそりと答えた近藤に、別府の溜め息が漏れる。と、部屋の外から聞き覚えのある声が届いた。
「おはようございます。昨日依頼した鑑定終わってます?」
 捜査一課の緒方刑事だ。強盗殺人事件の現場から採取された血痕の鑑定結果を受け取りに来たらしい。
「文句なら犯人に言ってよ。あいつらが元凶なんだから」
「いつも心の中で罵倒してるよ。ほら、鑑定結果だって」
 本音をさらりと漏らした別府に小さく笑い、近藤は徹夜で仕上げた鑑定結果を手に部屋を出た。別府は一見温厚そうに見えるが毒舌な一面があり、特に寝不足がたたると血走った目で犯人への罵詈雑言を吐き出す癖がある。刑事ではなく犯人、というところが好意的だ。
 大あくびをしながら個室を出ると、緒方は一人の男を連れていた。物珍しそうに部屋をきょろきょろ見回しているその顔は、寝起きの脳みそには刺激が強すぎてフリーズした。
「近藤くん、立ったまま寝ないでよ?」
 別府が「もう」とぼやいて鑑定結果を奪い取り、緒方へと手渡した。さっそく目を通す。
「どうも。急がせてすみませんね。ああ、やっぱりか」
 彼が隣からひょいと覗き込んだ。
「一致ですか」
「ああ。これで逮捕状を請求できるな。所長、ありがとうございました」
「お礼なら近藤くんに言ってあげてね。徹夜で仕上げたみたいだから」
 三人から一斉に視線を向けられ、近藤はわずかに身を引いた。
「ありがとな、近藤。そうだ、紹介しておきます。このたびうちに配属になった、紺野です」
 緒方に紹介されると、紺野は姿勢を正した。
「紺野です。よろしくお願いします」
「よろしく。所長の別府だよ。で――ちょっと近藤くん。目を開けたまま寝てるんじゃないだろうね」
 別府が呆れ顔で立ち尽くしたままの近藤の腕を掴み、引き寄せた。
「法医科の近藤千早くん。うちで一番の若手。こんなだけど、優秀な研究員だよ」
 嬉しい評価だが余計なひと言に再稼働し、近藤はむっとして紺野を見やった。
 長い前髪の隙間から見えたのは、何かを確認しているような、珍しいものでも見るような瞳。あの事件から十年以上経っている。覚えていなくても仕方ない。でも――。
 期待と諦めが混じった気持ちで見つめ返していると、やがて紺野が口を開いた。
「紺野です。よろしく」
 すとんと落胆が胸に落ち、一気に頭が冷めた。やっぱり、覚えてないか。
「……どうも」
 無愛想に返すと、近藤は身を翻した。
「あっ、ちょっと近藤くん」
 引き止める別府の声を無視して、個室へ戻る。
 ごめんね、寝起きは悪い方じゃないんだけど。とフォローを入れる別府の声を扉で遮って、近藤は乱暴に椅子に腰を下ろした。デスクに転がっていた棒付きの飴に手を伸ばし、包装を剥がす。
 まあ、そんなもんだよね。
 事件そのものは覚えていたとしても、助けた子供のことまで覚えているとは限らない。ましてや、十年以上経ってこんなところで再会するとは夢にも思わないだろう。
 口に放り込んだソーダ味の飴は、いつもより味が薄かった。
 名乗り出ればいいのは分かっているが、天の邪鬼な自分が顔を出した。こっちは覚えているのに相手は覚えていないという屈辱。思い出すまで黙っていてやろう。そしていつか思い出した時は、思い切り馬鹿にしてやろうと決めた。
 そしてもう一つ。落胆というのは少々勝手かもしれないが、十年かけて美化された「憧れの人」と現実の彼は、人違いだろうかと本気で思うほど違いがあった。口は悪いし手も早い。単純で直情的。笑わないわけではないが、相好を崩すことはない。紺野と何度も会ううちに、ガラガラというよりは、ツルハシで地味に削り取られていくような感じで「憧れの人像」は少しずつ崩れていった。
「憧れの人」がすっかり砂と化し、紺野の粗雑な性格にも慣れた頃、鬼代事件が発生した。同情したのだろう、紺野がうちに来てもいいと言ってくれた。とはいえ、連絡しないわけにはいかないし、母には嘘を言いたくない。紺野のことを伝えると、母は驚いたあと、すごく喜んだ。案の定、ご挨拶にだの、店に連れて来いだの言われたが、忙しそうだからと断り続けている。
「紺野さんのところ? じゃあ安心ね。でもいいの? 連日お世話になって。今度絶対お店に連れて来るのよ、いいわね」
 紺野のところに泊まると連絡を入れるたびに同じことを言う。母が信用しているのは、残念ながら息子ではなく紺野の方だ。
 ところが当の本人は、名前を知っているのに額の傷を見ても一向に思い出さない。女の子のような見た目らしいと自覚はあったが、まさか本当に女の子と思われていたなんて。あんな形ではなく名乗り出ていたら、よく覚えてたな、などと感心するのだろう。そして、近藤と紺野、名前が似ていたからと言えば、単純な彼はそうかとあっさり納得するのだろう。
 ただ、正義感が強くて真っ直ぐ。それと、優しいところだけは「憧れの人」と同じだった。
 だから――。
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