第10話

文字数 2,737文字

 結局、母にも警察官にも鉢合わせせずに東門街を抜けることができた。しかし、ぽつぽつと会話はあったものの、盛り上がることもなくホテルに到着した。
 外観は比較的落ち着いていて小洒落ているが、それが余計に現実味を連れてきて、今すぐ逃げ出したい衝動にかられた。
 ここで、今からこの人と。とは思うものの、自分がそういう行為をしている姿がまったく想像できない。心臓は早鐘を打ち、手に汗が滲む。決めただろう、怖気づくな。
 そう自分に言い聞かせる美琴とは裏腹に、明は外観を見上げるなり「ああ」と腑に落ちた声を漏らした。
「見覚えのある風景だなと思っていたけど、ここか」
 どうやら来たことがあるらしい感想に、えっと目を丸くする。京都に住んでいるのに、神戸のラブホテルに来たことがあるなんて。そんな人には見えないのに、初めてではないのだろうか。とりあえず入ろうかと言って自動ドアをくぐる明のあとを、慌てて追いかける。
 入って正面に、仕切りが白く覆われたフロント。その左手に巨大な部屋パネル、右手はパーテーションで仕切られた小部屋が四つ。椅子とテーブルが設置されているので、待合室だろう。今は全て開いている。そして正面奥へ延びる通路の先がエレベーターホール。
 本来、十八歳未満は入れない。美琴はマフラーに顔をうずめ、明のあとに続きながら、こっそりロビーを見渡した。
 もっといかがわしい、いや、ムーディな色の照明や内装を想像していたのだが、いざ入ってみると、本当にここがラブホテルかと思うほど落ち着いている。照明は落としてあるが暖色で、内装も無駄な装飾はない。床も照明を反射するくらい綺麗に磨かれている。
 部屋パネルのほとんどは消灯していて、二部屋だけが点灯していた。どっちがいい? と聞かれたので恐る恐るパネルの写真を覗き込むと、値段は同じだが、一部屋は真っ白なレースの天蓋付きベッドが映っており、もう一部屋は白と茶を基調にしたシックな雰囲気だった。迷うことなく後者を選んだ。部屋によって内装や値段が変わるのか。
 明は躊躇いなく部屋のボタンを押し、そのままエレベーターへ向かった。フロントに人はいないし、鍵はどうするのだろう。
 そんな疑問を抱えてエレベーターに乗り込むと、明が突然くっと笑いを噛み殺した。口を手で覆い、小さく肩を震わせている。何かおかしなことをしただろうか。
 困惑の表情で見上げると、明は「ごめん」と一つ謝って息を吐き出した。
「実は、前にもここに泊まったことがあるんだ。出張する時のホテルは弟が手配してくれるんだけど、直前で彼の機嫌を損ねてしまって。珍しくホテルまでの地図を紙で渡されたから、おかしいなと思って来てみたら、ここだった」
 なるほど、そういう理由だったのか。しかし、ふふふふと笑い声を漏らす明は楽しげで結構だが、出張先の宿泊場所の手配を弟がするなんて。家族経営の会社か何かだろうか。それに。
「でも、ここって……」
 ラブホテルなのだが。男一人では泊まれないのでは。美琴が小首を傾げると、エレベーターが五階に到着した。明は「開」ボタンを押して先に出るよう手で促した。
「ラブホテルによっては、ビジネスプランやファミリープランがあって、今では同性でも入れるし、女子会に利用する人もいるらしい。ここ数年で増えたとは聞いていたけど、まさか自分が泊まることになるとは思わなかったよ」
 そう言って、明はまたくつくつと笑った。色んなプランがあっても本来はラブホテルだ。それを一人で、しかも強制的に宿泊させられて腹が立たなかったのだろうか。そして何がそんなにおかしいのだろう。
 エレベーターを降りると、廊下の両側に扉が並んでおり、一番奥の部屋の上部でランプが点灯していた。部屋番号が付いているのにわざわざランプで位置を知らせるのは、部屋を間違えないためか。
「初めは驚いたけど、これが結構快適だったんだ。部屋自体もそうだけど、お風呂やベッドも広いし、ウェルカムドリンクやフードは無料だし、宿泊だったから朝食の無料サービスもあって部屋まで運んでもらえる。その上チェックアウトが昼の十二時だから、ゆっくりできる」
「え、そうなんですか?」
 小学校の修学旅行で泊まったホテルは、ユニットバスでちょっと狭かった。ウェルカムドリンクやフードなんてないし、朝食はもちろんレストランで、チェックアウトは十時だった。ホテルも色々だし、食事のクオリティもあるだろうが、人によってはこちらの方がお得だと思う客もいるだろう。
「うん。至れり尽くせりだろう? 設備やアメニティも充実しててこの料金なら、リーズナブルだと思うよ。それでもラブホテルはラブホテルだから、さすがに嫌がると思ったんだろう。帰って弟に伝えたら、思い切り舌打ちされたよ」
「そう、ですか……」
 弟の嫌がらせは失敗に終わったわけだ。なるほど、先程の笑いは思い出し笑いだったか。ランプが点灯する部屋のドアを、明は躊躇いなく開いた。鍵が開いている。部屋を選んだ時点で、解錠されるようになっているのだろうか。
 どうぞと促されて入ると、たたきがあってスリッパが並んでいた。右手に自動精算機があり、左の壁に取っ手の付いた四角い切り込みが二つ、上下に並んでいた。何だろうこれ、と思いながらスリッパに履き替え、奥へ延びる廊下を恐る恐る進む。と、背後でカシャンと鍵が閉まる音がした。勢いよく振り向くと明と目が合い、はっと我に返った。
 雰囲気に完全に飲まれて、普通に会話をして普通に驚いてしまった。これでは慣れていないと――いや、どうせ分かることだ。ごまかそうとする方が無理だったのだ。それに、今までの会話や態度でもう分かっているかもしれない。やっぱりやめようと、言われるだろうか。
 視線を泳がせながら俯いた美琴に、明が静かな声で言った。
「オートロックになってるんだ。基本的に、清算するまで鍵は開かない仕組みになっている。もちろん、災害時にはちゃんと開くよ」
「……そうですか」
 立ち尽くした美琴を見据え、明がゆっくりと歩み寄った。二歩分の距離を保って立ち止まる。
「一つ、聞いてもいいかな」
「……はい」
「君、初めてだよね?」
 やっぱりバレていた。こんなに恰好良くて、女の扱いに慣れている人なら、きっとすぐに分かる。観念してこくりと頷く。
「何か、理由が?」
「……家の、事情で」
 ぽつりと答えると、沈黙が流れた。息苦しい空気。
「分かった。本当に嫌だと思ったら、きちんと言ってくれるかな。大丈夫。僕は、嫌がる女性を無理矢理抱く趣味はないから。いいね」
「……はい。すみません」
「謝ることじゃない。さあ、入って。冷えただろう」
 すみません、と囁くようにもう一度謝って、部屋へと向かう。
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