第3話

文字数 3,723文字

 アヴァロンを後にして、柴崎は車を待たせている四条通へと向かった。繁華街において夜はまだこれからという時間、すれ違う人々が柴崎をちらりと一瞥して通り過ぎてゆく。
 社長といっても、大企業ではない。店舗を持つのは関西圏内だけで、全国展開しているわけではないのだ。しかし、纏うのは大企業の社長然とした風格と貫録。一方で、周囲に溶け込まない泰然とした姿は、孤高という言葉を彷彿とさせる。
 ふと聞こえてきた華やかな笑い声に、柴崎は視線を投げた。
 後部座席のドアの前で待つ秘書と談話しているのは、一人の女性。高級ブランドのショルダーバッグを肩にかけ、艶のある茶色の髪は緩くうなじでまとめられている。ナチュラルなメイク、ノースリーブワンピースにオープントゥのパンプス。露出が多いわけではなく派手な印象もないが、姿勢が良い立ち姿は凛とし上品で、妙に色気がある。
 運転手兼秘書の彼はもうずいぶんと長い付き合いで、彼女とも顔見知りだ。偶然通りかかって互いに気付いたのだろう。
 彼女が柴崎に気付いて、笑顔でひらりと小さく手を振った。秘書が居住まいを正し、そそくさとドアを開いた。
「お久しぶりです、仁さん」
「帰ってきていたのか」
「ええ、昨日」
 柴崎が足を止めると、彼女はにっこり笑って見上げた。
「冬馬くんに?」
「ああ」
「本社異動させるとか」
 再会を懐かしむことなく投げられた話題に、柴崎は瞬きをして溜め息をついた。
「どこからの情報だ?」
 呆れた声で尋ねると、彼女は艶やかな唇に人差し指を添え、うふふと茶目っ気のある顔で笑った。
「女の情報網を侮っちゃいけません」
「部外者に社内の情報を漏らす不届き者がいるようだな」
 あら、と彼女は拗ねたように唇を尖らせた。
「冷たい言い草。仕返しに彼を誘惑しようかしら。仁さん、たまにはご自分で運転してはいかがですか?」
 ドアを開けたまま硬い表情で待つ秘書を、彼女は流し目で見やる。秘書がわざとらしく咳払いをして、柴崎が低く笑った。
「お前に誘惑されては、男はひとたまりもないな。さっさと退散しよう」
 言いながら彼女の横をすり抜け、後部座席に乗り込む。秘書はドアを閉めると運転席の方へ回り込み、柴崎は窓を下げて彼女を見上げた。
「アヴァロンへ行くのか?」
「ええ、久々ですから。踊り倒します」
「スタッフに迷惑をかけるなよ」
「どういう意味ですか」
 失礼ね、とまた唇を尖らせた彼女に、柴崎は前を向き直って声もなく笑った。
 その横顔を眺めていた彼女が、拗ねた顔を収めて尋ねた。
「どうして、冬馬くんを本社に?」
 柴崎は彼女を見上げて小首を傾げた。
「お前にしては、おかしな質問をする。あれは一介の店長で終わる人材ではない。それだけのことだ」
 少々呆れた顔をして前を向き直った柴崎に、彼女はわずかに眉を寄せ、まるで諭すような口調で言った。
「彼は、貴方のお父様ではありませんよ」
 柴崎の表情は変わらなかったが、即答もしなかった。どこからか響き渡ったクラクションと、往来する人々の笑い声が混ざる。
「何の話だ。出せ」
 そっけない返事を残して柴崎は窓を閉めた。
 ゆっくりと走り出し、車の列に紛れた黒塗りの高級車を見つめたまま、彼女は一人呟く。
「可哀相な人……」
 その言葉は、誰にも聞かれることなく街の喧騒に溶けて消えた。
 やがて車が完全に見えなくなった頃、
「さて」
 彼女は打って変わって表情を明るくし、くるりと身を翻した。
「楽しみだわ。樹くん、良い男になってるかしら」
 浮かれた笑みをこぼし、彼女はアヴァロンへの道を急いだ。

               *・・・*・・・*

 ガガッと無線が繋がったと思ったら、店外清掃に出ていたスタッフの怒声が事務所に響いた。
「業務連絡! 冬馬さん襲撃です! 冴子(さえこ)さんの襲撃……っ!」
「襲撃ってなによ、失礼ね。冬馬くん、今から行くわね」
 マイクを持っている手ごと奪い取られたのだろう、そのままぶつっと無線が切れた。
 冬馬は突然の不穏な無線連絡に目をしばたき、深い溜め息をついてマイクのスイッチを入れた。
「了解」
 彼女のあの勢いは誰にも止められないことくらい、経験上よく心得ている。
 関係者フロアは二階にあり誰でも入れるが、トイレ以外の部屋には指紋認証システムが導入されており、登録された人間にしか鍵が開けられないようになっている。ただ事務所だけは、冬馬がいる間は解除したままだ。
 いっそ閉めておこうか。真剣にそんなことを考えながらスイッチを切り、防犯カメラのモニターへ視線を投げる。エレベーター内の映像にはにこやかな笑みを浮かべてカメラに手を振る冴子の姿が、他の画面には、無線を聞いた彼女のことを知らないスタッフの、フロアやフロントできょとんとした顔で手を止める姿が映っている。
「今日は、客が多いな……」
 溜め息交じりにぼやいた時、勢いよく扉が開き、同時に冴子の浮かれまくった声が飛び込んできた。
「久しぶりー、冬馬くん元気だったぁ?」
 すでに一杯ひっかけてきたような陽気さだ。冬馬は腰を上げた。
「お久しぶりです、冴子さん。お元気そうでなによりです。でも、貴方、今は部外者でしょう。俺の立場も考えてください。スタッフに示しがつきません」
 冴子は、四年前まで同系列の祇園の高級クラブでホステスをしており、月に何度かアヴァロンに顔を出しては踊り狂って満足そうに帰って行く先輩だった。今は、客として来ていた青年実業家と結婚し、アメリカ国籍を取得してニューヨークで暮らしている。また――。
 苦い顔で挨拶と苦言を呈した冬馬に、冴子はぷくっと頬を膨らませて両手を腰に当てた。そうは見えないが、冬馬より先にホステスとして働いていたのだから三十を越えているはずだ。
「そう邪険にしなくてもいいじゃない。あんなに愛し合ったのに。冷たいわね」
「誰がいつどこで貴方と愛し合ったんですか」
 そんな記憶は微塵もない。
「五年前、私と樹くんが私の部屋で」
 女性客に言い寄られることの多かった樹が、唯一関係を持った女性でもある。そこに恋愛感情があったのかどうかは知らないが、誰に誘われても興味を示さなかった樹が誘いに乗ったのは確かだ。
 何か言いたげに見据えてくる視線に息をつくと、冴子が腰に当てていた両手を下ろし、どこか責めるような声で尋ねた。
「辞めたんですってね、樹くん」
 無線を入れてきたスタッフは、ちょうど樹と出会った六年前からの勤務だ。聞いたのだろう。
 六年前、樹は自分の知り合いで事情があり預かっていると伝え、三年前は、その事情が解決して引っ越したと言い、先日樹が来店した時は、例の噂とは無関係で、時間がないらしくすぐに帰ったと説明した。
「少し語弊はありますが――ええ、三年ほど前に」
 冬馬は目を伏せて腰を下ろした。
 ヒールの音がゆっくりと近付き、すぐ横で止まった。冬馬が見上げる。
 見下ろしてくるのは、真っ直ぐで、全てを見透かすような一点の曇りもない眼差し。冬馬は顔を逸らし、ごまかすように開いていたファイルを閉じた。冴子の瞳が、憐みを含んでゆらりと揺れる。
「馬鹿ね。だから言ったのに。絶対に、離しちゃ駄目よって」
 あれはいつだっただろう。確か、二人が関係を持ってしばらくした頃だ。
「いいんですよ、これで」
 冴子は言った。二人は「魂の半身」なのよ、と。
 いわく、諸説あるが、性別や年齢、人種を越え、魂の結びつきによって惹かれ合う相手、あるいは深い縁を持つ相手のことを言うらしい。要するに、スピリチュアルな観念だ。冴子は、樹と冬馬の関係をその「魂の半身」だと思っているらしい。
 確かに、樹ほど理屈抜きで安心できる相手はいないと気付いてはいるが、それが果たして魂云々によるものなのかは、正直分からない。少し視線をずらして、お守りを見つめる。
「元気なの?」
「ええ、元気そうでしたよ」
 即答に少し安心した様子で口角を緩ませ、冴子は「そう」とだけ返した。冬馬の頭にぽんと手を乗せ、あやすようにひと撫でする。昔からやけに子供扱いしてくるのは何なのだろう。
「また、一緒にいられる日が来るわ」
 そう言い置いて、冴子はするりと手を離し、さてと、と伸びをしながら踵を返した。
「久々に踊ってくるわね」
 肩越しに振り向いて笑った冴子に、冬馬はほっとしたように頬を緩める。
「ほどほどにしてくださいね。ご主人も一緒に帰国されてるんでしょう。心配されますよ」
「愛されてるものねぇ」
「自分で言いますか」
「あら、本当のことだもの」
 ふふと笑ってドアを開け、じゃあねと小さく手を振って冴子は事務所を後にした。
 冬馬は一人、苦笑いで嘆息する。相変わらずだ。彼女は昔から、堂々と、愛されている、幸せだと口にする。それが自慢に聞こえないのは、彼女の人柄によるものなのか。時折不思議なことを口にするが、思慮深く、それでいて奔放。魅力的な女性だと思う。樹は、そんな彼女だからこそ興味を引かれたのだろうか。
 こう言っては失礼だが、どこの誰だか分からない女と関係を持たれるよりは、身元がはっきりしている彼女で良かったと思う。
「……保護者か、俺は」
 冬馬は頭を掻いて閉じたファイルを開き、パソコンに向き直った。
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