第11話

文字数 3,318文字

 下平は肩の力を抜くように息を吐き、空のグラスを掲げた。
「北原、ウーロン茶の追加頼んでいいか」
「あ、はい。ビールじゃなくていいんですか?」
「込み入った話を聞くのに酒はな。つーか、料理冷めてんじゃねぇか? 先に食ってからにしよう」
「ああ、そうですね」
 テーブルを埋め尽くす料理の数々は、もう半分ほど冷めてしまっている。たこわさびや餃子に刺身、茄子の揚げ浸し、唐揚げ、天ぷら、牛カツ、ホッケに京野菜のサラダ。北原の前には丼が置かれている。
「そういや、前に北原がお前の作る飯が美味いって言ってたけど、料理好きなのか?」
 下平が餃子に手を伸ばしながら言った。紺野はサラダを自分の皿に取り分けながらぐっと声を詰まらせた。そんなこと覚えていなくてもいいのに。
「一人暮らしが長いので身に付いただけです」
「俺も長いが、全く身に付かんぞ。もう向いてねぇと思うことにした」
「あれ? 下平さん、ご結婚は?」
 追加注文を終わらせた北原が余計な質問をした。確かに指輪をしていないことには気付いていたが、わざわざ突っ込むことではないし、人によっては繊細な問題だ。もし離婚してたらどうすんだコラ、と心の中で突っ込むと、下平が何でもないことのように答えた。
「十年くらい前に別れたんだよ。娘が一人いる」
 ほら見ろ馬鹿! と叱責を込めた視線で北原を睨むと、しまったと言った表情を浮かべて肩を竦めた。二人の無言のやり取りを見て、下平は笑い声を上げた。
「そんなに気ぃ使わなくていい。孫もいるし、今でもたまに会ってんだよ」
「孫!?」
 紺野と北原の声が重なった。
「お孫さんがいらっしゃるんですか?」
「おう。女の子でな、今二つだ。可愛いぞぉ」
 自慢気に相好を崩した下平は、写真を携帯の待ち受け画面にして孫を溺愛するおじいちゃんの顔だ。五十代の下平なら、孫がいてもおかしくない。しかし刑事としての顔しか知らないため、意外さは倍増だ。
「まあそれは置いといて、これが不思議なもんでなぁ」
 下平はホッケの身をほぐした。
「分かると思うが、こんな仕事だし、出掛ける約束しててもしょっちゅうドタキャンするだろ。向こうもそれを承知で結婚したらしいんだが、いざ子供ができると無性に腹が立つらしい。俺からしてみれば、事件はこっちの都合で起こるわけじゃねぇんだからしょうがねぇだろとしか言いようがない。だからしょっちゅう喧嘩してた。けど、別れて別々に暮らしだすと、もっとやりようがあったんじゃねぇかって思うんだよな。今でも、約束しててもやっぱドタキャンする時があんだよ。でも向こうは、しょうがないから次時間ができたら連絡してね、と来る。俺も、悪いなまた連絡するって素直に言えるんだよな。結婚してた時は言えなかったことが言えるんだ。何なんだろうな、これ」
 ははっ、と短く笑い、ホッケを口に放り込んだ。と、
「勉強になります」
 至極真剣な眼差しで下平を見つめて、北原が言った。丼を抱えていると様にならない。
「お、予定があるのか?」
「いえ、今のところは。でも彼女はいるので」
「じゃあ今からだな。まあ、向こうも機嫌の良し悪しがあるからな。でも何かしらのフォローはした方がいいぞ」
「やっぱりそうですか」
「ああ。同僚の話では、記念日じゃなくても花買って帰るとか、ベタだが意外と効果があるらしい。甘いもんはタイミングを外すと大激怒だ」
「ダイエット中とかですか」
「そう。事前調査はしとけよ」
「了解です」
 いくつになっても恋愛の悩みは尽きないらしい。恋愛指南講座の様相を呈してきた二人に、紺野は溜め息をつきながら茄子の煮浸しに箸を伸ばした。こちらに矛先を向けられないよう、黙っておく方が得策だ。
 楽しそうに体験談を語る下平と、しっかり頷きながら真剣に耳を傾ける北原はまるで親子の様だ。紺野はこっそり口角を上げた。
 途中、追加をしながら料理を平らげ一息ついたところで、下平が煙草に手を伸ばした。
「じゃあ、話を聞こう」
 言うや否や刑事の顔つきへと変わった下平を見て、紺野と北原も姿勢を正す。
「先に言っておきますが、非現実的な話です。信じてもらえないかもしれません。俺たちも初めは全く信じていませんでした。ですが、全て事実です」
 そう前置きをして、紺野は洗いざらい話した。
 発端となった鬼代事件の詳細から、大戦、会合、紛失した文献、鬼の復活、公園の襲撃事件、犬神事件、舞鶴の玖賀家、現代に存在する陰陽師たち、寮に住む陰陽師たちの中に甥である昴と樹がいて、彼らと警察内部に内通者がいるかもしれない可能性。自分たちは彼らの過去を探っている最中だということ。さらに、アヴァロンでの出来事、少年襲撃事件において明たちが下した判断、そこから噂と少年襲撃事件が鬼代事件と繋がっている可能性が高いことまで、包み隠さず全て。下平は、途中でさすがに関係者の多さに焦ったのか、手帳を取り出して走り書きをしつつ、終始怪訝な表情を浮かべていた。
 長い時間をかけて話が進むごとに、下平は眉間の皺の数を増やした。話し終えるとテーブルにペンを転がして肘をつき、片手で顔を覆って大きな溜め息をついた。
「それ、マジで言ってんのか……」
「本気です」
 再び長い溜め息をついた。こんな話しを聞いて、すぐに信じる刑事がいるとは思っていない。けれど信じてもらわなければ困る。
「俺たちも、犬神に遭遇するまでは信じていませんでした。ですが実際、犬の形をした煙に襲われたのは事実です」
 うーん、と下平は両手に増やして顔を覆って低い唸り声を上げた。
「お前らが嘘をついてるとは思ってねぇし、確かに鬼代事件についての不可解な謎は解ける。けどなぁ……」
 気持ちはよく分かる。初めは同じだった。鬼が関わっているとすれば辻褄が合う。けれど刑事としては受け入れ難い。証拠もない非現実的な話と現象を、一体誰が信じるかと。
 ふと、下平が顔を上げた。
「いや、待てよ……」
「どうしました?」
 下平はテーブルをじっと見つめ、顎に手を添えた。
「カメラ映像を確認した時、ガキ共が変な動きをしてるなって話になったんだよ。犯人は、まあ一発殴りはしたが、その後は突っ立ってるだけだし、ガキは何もねぇのに逃げ回ってんだ。酒も入ってたし、もしかしてクスリでもやってんじゃねぇかと思ったんだが、所持品もその手の症状も見られなくてな。でもガキ共のうち二人は黒い煙がどうのって証言してる。さすがに信じてなかったが、その悪鬼とかいう奴がいたと考えれば、確かに辻褄は合うな……」
 自分を納得させるかのような説明を聞いて、紺野は口を開いた。
「実は今日、明から報告を受けた後、近藤に頼んで映像を確認しました。はっきりとは映っていませんでしたが、一部分だけがモザイクのようになっていて、あちこち動いていました」
「マジか……ってことは、里見くんの証言は嘘だったってことになるな」
「何も見ていないと言ったんですか?」
「ああ。答えたのは里見くんだけだったらしいがな。樹は隣で黙って聞いていたらしい」
 嘘をつきたくなかったんだろうな、と呟いた下平は、少しずつ信じているように見える。
 怜司は、悪鬼がどうの哨戒がどうのと説明する必要はないと判断したのだろう。あの状況だ、証言が食い違っても少年らが幻覚を見たのだろうと判断されて薬物検査を受けるくらいで、何の支障もない。
 下平は長い息を吐きながら天井を仰ぎ見た。
「非現実的だが、それを受け入れれば事件の辻褄が合い、突破口が見つかる可能性がある。受け入れないと事件は暗礁に乗り上げる。てことは――」
 言葉を切り、下平は紺野と北原を交互に見比べた。
「刑事として選択すべきは一つだ。お前らの話、信じよう」
 にっと口角を上げた下平に、紺野と北原は安堵の息を吐いた。非現実的であろうと、事件を解決に導くためにはあらゆる可能性を探る。やはり、信じて間違いはなかった。
「ありがとうございます。心強いです」
 これで一歩前進だ。紺野が素直に告げると、下平は照れ臭そうに笑った。
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