第1話

文字数 4,978文字

 店に到着してフロアに顔を出し、事務所に入るとすぐ戸籍謄本をシュレッダーにかけた。自宅にシュレッダーはないし、個人情報満載のものをあちこち持ち歩きたくない。どこかに置き忘れたらそれこそ本末転倒だ。機械音が止み、封筒をゴミ箱に放り込む。
 冬馬(とうま)はジャケットを脱ぎながら自己嫌悪の息をついた。デスクの後ろにあるコートハンガーに足を向ける。
 不覚だった。まさか人前で泣くなんて。廃ホテルの時は耐えられたのに。下平(しもひら)が突然あんな話をするからだ。心の準備ができていれば、あんなに泣くことは――。
 ジャケットをハンガーにかける手を止め、もう一度息をつく。
 下平の言う通りかもしれない。いくら心の準備ができていても、後悔しているところにあんなことを言われては。
 当時、(いつき)は携帯を持っていた。あの日からしばらくは呼び出し音が鳴っていたが、一週間も経たずに「電源が入っていないか電波の届かないところにいるか」とアナウンスが流れ、ひと月経つ頃には不通になった。死んでいれば家族が、生きていれば自分で解約したのだろうと思っていたが。今は新しい番号に変わっているだろう。データ移行をせずに、しかし下平の番号だけは自分で登録して。
 もし下平の言うことが本当なら、あの期間、迷っていたと思ってもいいのだろうか。あれからずっと、下平を介して繋がっていてくれた、会いたいと思っていてくれたと、自惚れてもいいだろうか。
 冬馬はジャケットのポケットから新しい携帯を取り出した。廃ホテルの騒ぎで液晶に罅が入ったため、陽たちへの礼を買いに行ったついでに買い替えたのだ。電話帳を開き、スクロールする。
 女々しいと、自分でも思う。
 繋がらないと分かっておきながら、いつまでたっても消せなかった、樹の以前の番号。残しておくことで、生きていると思いたかった。
 けれどもう、必要ない。
 冬馬は、消去のボタンをタップした。消去しました、の文字を確認し、時間を見て液晶画面をオフにする。
 さあ、仕事だ。
 気持ちを切り替え、開店準備中の店内の様子を映したモニターに目を向けた。店外やフロアの各所で、スタッフたちが和気あいあいと、だが真面目に掃除や備品確認を行う様子が映っている。いつもはチェックに行くのだが、今日は昇に全て任せているため、棚からファイルを取り出して椅子に腰を下ろした。
 店に到着した時には、出勤時間を少し過ぎていた。昨日、貧血を押して出勤したため顔色が悪かったようで、スタッフに散々心配された。そして今日は遅刻だ。現在、「事務所から出ないでください。いいですね」と目を剥いた(のぼる)から気迫たっぷりに脅され、軟禁状態なのだ。貧血はほとんど収まっているし、心配しすぎだと思うが、やらなければならないことは山積みだ。この際、甘えさせてもらおう。
 それにしても、ずいぶん頼もしくなった。
 冬馬は口元を緩めて納品書を確認し、在庫のファイルを開く。ノンアルコール類とソフトドリンク類の減りが早い。昔と比べれば確かに酒類の注文は減ってきていて、それに合わせノンアルコール飲料の数を増やしたが、試しにあと何種類か増やしてもいいかもしれない。
 そろそろノンアルカクテルの新しいメニューも、と考えたところで、扉が鳴った。
「どうぞ」
 ファイルに目を落としたまま返事をすると、失礼しますと返ってきたのは智也(ともや)の声だ。顔を上げる。後ろに圭介(けいすけ)の姿も見えた。
「どうした?」
 二人は扉を閉め、どこか気まずそうな顔でデスク前に歩み寄った。何かやらかしたか。
「えっと、あ、これ預かってきました」
 圭介は持っていた白い封筒を手渡した。
「ああ、例の護符か。ありがとう」
 受け取り、さっそく中を覗いて目をしばたいた。護符と聞いていたから長細い和紙を想像していたのだが、何故か青地に白い星がちりばめられたお守り袋が一つだけ残っている。わざわざ入れてくれたらしい。取り出して目の前に掲げ、まじまじと眺めた。
「手作りか? 可愛らしいな」
「リンは、下平さんの別れた奥さんが作ってくれたものだって聞いたみたいですけど……」
 智也と圭介が、違うよな、と目線を交わす。
 もちろん嘘だ。誰が作ったのかとリンに聞かれて咄嗟に出たのだろう。廃ホテルにいたのは椿(つばき)以外全員男だった。他に女性の仲間がいる、と思いたい。冬馬はそうかと言って苦笑した。
「もしかして、全部こんな感じなのか」
「あ、はい。俺らは色違いの迷彩です。リンとナナも色違いのストライプ」
 圭介が答えながら、二人は尻のポケットからお守りを引っ張り出した。緑とグレーの迷彩。
「冬馬さんは、下平さんと色違いみたいですよ。赤だそうです」
 圭介の余計な情報に思わず噴き出した。こんな可愛らしいお守りを、あの下平が肌身離さず持ち歩くのか。事情を全て知っているらしい(はる)の兄は、なかなかお茶目な人のようだ。
 くくっと喉を鳴らす冬馬に、智也がお守りをしまい、改まった顔で話を切り出した。圭介も倣う。
「あの、冬馬さん。リンとナナのことなんですけど」
「うん?」
 笑いを収めて視線を上げると、智也が「その……」と言い淀んだ。何だ。ひとまずお守りを置いて、二人を真っ直ぐ見上げる。
「冬馬さんも、一緒に、迎えに行ってくれませんか……」
 恐縮した様子で語尾を小さくした智也に、圭介が即座に助け船を出した。
「忙しいのは分かってるんです。毎日じゃなくていいんです。ただ、リンが……」
 圭介は頼りない顔をする智也をちらりと見やった。昨日、あれだけ使命感に燃えていたのに。冬馬は背をもたれた。
「何かあったのか」
 智也が答えた。
「そういうわけじゃないんですけど、リンが……時々、すごく不安そうな顔をするんです。だから、冬馬さんがいてくれたら、と、思って……。その、あいつ……」
 ごにょごにょと口ごもった智也の言いたいことは、すぐに察した。
 リンの気持ちには気付いていた。というより、あれだけあからさまにアピールされては気付かない方がおかしい。あの明るさと素直さは確かに可愛いと思う。けれど、リンには悪いが恋愛対象に入らない。こんな妹がいれば可愛いだろうなとは思うが。一方で、智也の気持ちも知っていた。少々頼りないが優しくて真面目な智也と、天真爛漫なリンはお似合いだと思う。
 しかし智也からしてみれば冬馬はライバルだ。それでも慕うのは、仕事と恋愛を分けて考えているからだろう。とはいえ、ライバルに好きな女の側にいてやって欲しいと頼むことに屈辱を感じないわけがない。
 正直に言うと、打算がなかったわけではない。もちろんリンとナナの安全が最優先だが、これをきっかけにと考えなかったと言ったら嘘になる。
 だがここは、男のプライドよりも、リンの心情を優先した智也の優しさを無碍にするわけにはいかない。
「分かった」
 智也がぱっと顔を明るくした。
「けど、さすがに毎日というわけにはな……」
 リンが早番の時はいいが、遅番だとどうしても遅刻する。スタッフに事情を説明するにしても、店長が毎日遅刻するわけにはいかない。
 冬馬は口元に手をあてがい、逡巡した。
「リンのシフトはどうなってる?」
「あ、それなら」
 智也が携帯を取り出して表示したのは、リンのシフト表だ。店に掲示してあるものを写真に撮って送ってきたらしい。携帯を受け取りざっと目を通す。明日は早番で、一日休みを挟んでから一週間、遅番のシフトが続いている。うち二日は休み。冬馬の休みの日と被っていない。油断は禁物だが、残り三日なら智也と圭介だけでも大丈夫だろう。
 だが万が一のために、場所と周辺の環境を確認しておいた方がいいか。冬馬は顔を上げて携帯を返した。
「とりあえず、明日と俺が休みの日は一緒に行く。他はお前たちに任せる」
「ありがとうございます」
 二人はほっと顔を緩めた。
「車は俺が出してもいいが、どうする?」
「あ、じゃあすみません。お願いしてもいいですか。うち、家族全員が使うんで、しょっちゅう使ってるとうるさくて」
 実家暮らしゆえの不便さだ。中古で買おうかなぁ、と智也が苦い顔でぼやいた。
「分かった。じゃあ、そうだな……お前ら、先に迎えに行って待ってろ。拾いに行くから」
「了解です」
「ところで、自宅は住宅街にあるのか? どんな様子だった?」
「あ、住宅街でした。ちょうど帰宅時間だったんで、人通りは結構多かったです」
 智也が答えた。となると、遅番の時間帯は人通りが少なくなる。
「マンションか?」
「いえ、三階建てのアパートです。リンああいう性格なんで、隣近所の人とちょっと交流があるみたいです。部屋の確認する時に俺も会ったんで、挨拶しました」
「そうか。あいつらしいな。どういう人か聞いたか?」
「はい。隣は若い新婚夫婦と大学生の女の子で、彼氏と半同棲してるみたいだって言ってました」
 管理人がいないのは不安だが、隣は夫婦と半同棲のカップル。交流があるのなら、不審な物音がした時は気付いて教えてくれそうだ。近所付き合いが廃れたと言われて久しいが、こんな時は改めて必要性を感じる。かくいう冬馬も隣近所とはほとんど付き合いがない。顔を合わせれば挨拶くらいはするが、生活時間がずれているため回数はかなり少ない。
 はきはき答える智也に、冬馬は満足そうに頷いた。さすが気合いが入っていただけのことはある。変に浮かれることなく、きちんと必要な情報を収集したようだ。
「分かった」
 笑みを浮かべた冬馬に、二人が嬉しそうにはにかんだ。
「ああそれと、リンが遅番の時、どうしても智也が間に合わないだろ。だから皆に話して協力してもらおうと思ってる。龍之介のこともリンとナナのことも全員知ってるし、店での危機感も持てるだろうから」
「あ、そうか。しょっちゅう遅刻すると聞かれますもんね」
「ああ」
 冬馬は腕時計を確認して腰を上げた。龍之介の話をしなければならない。
 連れ立って事務所を出て、フロアに下りる。
 営業中は目が痛くなるような色とりどりの照明が照らすフロアは、今は普通の照明が点けられている。この時間、ミキサーの前でパソコンをいじっているDJ、エントランス・フロントスタッフ、セキュリティ全員を抜けさせるわけにはいかない。セキュリティ数名を交え、バーカウンターの前で一列に並んだホールスタッフ全員と向き合い、冬馬は口を開いた。
「開店前に悪いが、皆に話しておきたいことがある」
 改まって話を切り出した冬馬に、スタッフたちは小首を傾げた。悪鬼がどうのという話はできないが、リンとナナのこと、龍之介(りゅうのすけ)の噂は噂で留まらないかもしれないこと、下平に相談済みであることを伝えると、皆一様に渋面を浮かべた。
 うわ最低、マジかあいつ、金持ちだからってふざけんな、リンとナナ大丈夫なのかな、心配だよね、いっそ現場押さえて警察に突き出せばいい、絶対に店に入れられないな。苦言と心配を口々に言い合うスタッフたちに、冬馬は小さく笑みをこぼした。
 続けてリンとナナを迎えに行くことと、日によっては智也がどうしても就業時間に間に合わないことを伝えた。
「分かりました。智也、こっちのことは気にしなくていいから、リンのことしっかり守ってやれよ」
 鼓舞するように肩を叩いた昇に続いて、他のスタッフからも激励の言葉が飛ぶ。智也が力強く頷いた。
 本当に、良いスタッフに恵まれた。
「以上だ。今日休みのスタッフにも伝えておいてくれ」
 はーい、と返事を聞きながら冬馬は腕時計を確認し、スタッフたちを見渡す。
「開店五分前だ。最終チェックは終わってるな?」
 はい、と気合いの入った声が上がる。パソコンをいじっていたDJもミキサーの前で親指を立てた。
「では、アヴァロンの名に恥じることのないよう、スタッフ一丸となって業務に当たってくれ。今日も一日よろしく頼む」
 よろしくお願いします! スタッフの元気な声がフロアに響いた。
 時間ぴったりに開店しあらかた客が入ると、冬馬は事務所へ戻った。いつもならしばらく様子を見てから戻るのだが、事務所に戻れと言外に訴えてくる昇の視線が怖くて早々に引き上げることにしたのだ。店長を追い出すとはいい度胸をしている。
「あいつ、心配しすぎだろ……」
 有り難いが、これでは本当に病人扱いだ。冬馬は嘆息して椅子に腰を下ろし、中途半端になっていた仕事に取り掛かった。
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