第19話
文字数 2,494文字
耳に当てていた携帯がわずかに離れ、小さな子供が母親を求めるように、ゆらりと身を乗り出す。
「おかあさ……」
「美琴」
強い語気に美琴ははっと我に返り、目を何度もしばたいた。まるで夢から覚めたように、頭がはっきりしない。
今、何を考えていた? 何をしようとしていた?
「ねぇ美琴。お母さんの声、聞こえてるわよね?」
「美琴。聞かなくていい。僕の声だけを聞きなさい」
二人の声が混じって集中できない。
「美琴は、いつもお母さんの言うこと聞いてくれたわよね」
「いいかい、美琴。君を迎え入れる準備はできている」
虚をつかれたのは、明の言葉。あの話は、まだ活きているのか。
「だから、一緒に死のう?」
「あとは、君次第だ」
意識の中に、一陣の風が吹いた。明の言葉は絡み付いた無数の糸を断ち切り、心を浸食した濃い闇を一気に薙ぎ払った。そして目の前に広がったのは、はるか遠くまで続く、真っ白な眩しい空間。そこにはまだ何もなく、何の色にも染まっていない。だからこそ――生きているからこそ、今から自分の手で何かを築いていける。母のためではなく、自分が選んだ道を自分のために、進んでゆける。
自然と、涙があふれた。堪え切れない嗚咽が部屋に小さく響く。
どうして、もっと早く決断できなかったのか。マフラーを巻いてくれた。優しく抱きしめてくれた。貴重な存在だと言ってくれた。道を示してくれた。自分がどうしたいか、もう分かっていたのに。
四カ月も悩んだ自分が、馬鹿みたいだ。美琴は手の甲でぐいっと涙をぬぐった。
「明さん、あたし……」
「返事くらいしなさいよッ!」
業を煮やしたらしい。母が爆発したように声を荒げ、扉がドンッ! と一層大きく揺れた。びくりと体を震わせ、肩を竦める。
「あんただけ生きて幸せになんかさせないから。絶対に道連れにしてやる……ッ!」
ゾッ、と全身が粟立ったのは、憎しみがこもった低い声と言葉のせいだけではない。扉越しでも分かる。禍々しい気配が、強くなっていく。
ガタガタと何かを漁る音がする。鍵を壊す道具を探しているのか。落ち着いていた恐怖に再び襲われた。これは、明が到着するまでもたないかもしれない。
そう思った直後、
「着いた。切るよ」
え、と問い返す間もなかった。通話が切られ、不意に背後に気配を感じて振り向いた。窓のカーテン越しに、黒くて長い影が勢いよく横へ流れて行く。
何だろう。つい興味を引かれて眺めていると、ガンッ! と甲高い音が響き渡った。肩を跳ね上げて扉を振り向く。ガンッ、ガンッと甲高い音に合わせて、ドアレバーが揺れる。硬い物を力任せにぶつけているような音。
「この……ッ」
「失礼する」
母の苛立った声を遮ったのは、玄関扉の蝶番が軋む音と、聞き覚えのある声だった。閃だ。
本当に来てくれた。本当に間に合った――助かった。
京都にいたはずなのにどうしてとか、鍵はどうしたのだろうなんて考える余裕はなかった。自然と安堵の息が長く漏れる。体から力が抜け、受話器が手の中から滑り落ち、ゴトンと鈍い音を立てて床に転がった。
「な……、え、は? 何? 何なのあんたたち。勝手に……っ、痛! 何すんの放して、誰よあんたたち警察呼ぶわよ!」
「騒ぐな。腕をへし折るぞ」
一体何が起こっているのか。金属が転がる音が派手な響き、閃の物騒な脅しを最後に、扉の向こうが静かになった。
「美琴」
次に届いたのは、明の声。
「僕だ。そこにいるね?」
扉のすぐ向こう側。優しく問いかけてくる声に、美琴は顔をくしゃりと歪ませた。
「明さん……っ」
四つん這いのまま床を這い、パイプベッドにしがみつくように上半身を乗せた。この向こうに、明と閃がいる。
「美琴、怪我は?」
「あ、ありません……っ」
「良かった。ここを開けられるか?」
「はいっ」
美琴は足を踏ん張って立ち上がり、ハンガーラックとタンスを元あった位置へ押しやった。異常な緊張と恐怖を強いられた果ての安心感だ。自分でも驚くほど力が入らず、けれど体全体を使って何とか移動させた。そしてパイプベッドを手前に引っ張って隙間を作り、そこを通って扉に辿り着く。鍵を開けると、こちらより先に向こう側からドアレバーが動いて、扉が開いた。
見えた明の姿に、心臓がぎゅうっと締め付けられた。胸の奥底から噴き出してくる、安心感。間違いない。明だ。スーツにコートを羽織り、銀フレームの眼鏡。その奥の優しい眼差しは、あの日と同じ。
「おいで」
差し出された手にくしゃりと顔を歪ませて、ゆっくりと歩み寄る。すると、まるで綿を包むように、優しく抱き寄せられた。
「無事で良かった。よく頑張ったね」
間近で囁かれる声と、優しく頭を撫でる感触がさらに安堵感を連れてきて、一気に涙が溢れ出す。体をすっぽり包む腕の中は心地良くて、堪え切れない嗚咽が漏れた。
「へぇ……、そういうこと」
不意に、母がぽつりと呟いた。
顔を上げて涙をぬぐう。振り向いた明の向こう側では、床にフライパンが転がり、キッチンの作業台に包丁が置かれていた。フライパンでドアレバーを壊そうとしたらしい。そして、玄関の前で閃に後ろ手を拘束された母が、顔をニヤつかせてこちらを見据えている。侵入者に驚き、さらに落ち着きを取り戻したためか、あんなに大きかった邪気が小さくなっている。
「あんたたち、その子の客でしょ」
鬼の首を取ったような顔。
「正義の味方ぶってるけど、その子が未成年だって知ってて買ったのよね。犯罪よ、犯罪。あんたたちは全員犯罪者。こんなにタイミング良く現れたのは、またその子を買いに来たからでしょ? よっぽど気に入ったみたいね。ああ、もしかして約束してたのかしら。悪いわね、邪魔して。ところで美琴。あんた、こいつらと何回寝ていくらもらったの。聞いてないわよ? 何で黙ってたの!」
「黙れ」
低く強い声で一蹴したのは、明だ。母がびくりと肩を震わせて顔を強張らせた。空気が張り詰め、緊迫した沈黙が流れる。
見上げた明の眼差しはぞっとするくらい冷たくて、静かな苛立ちと憤りが滲んでいた。ホテルで見た、あの冷たい眼差しとは比較にならないほどの冷徹さだ。
「おかあさ……」
「美琴」
強い語気に美琴ははっと我に返り、目を何度もしばたいた。まるで夢から覚めたように、頭がはっきりしない。
今、何を考えていた? 何をしようとしていた?
「ねぇ美琴。お母さんの声、聞こえてるわよね?」
「美琴。聞かなくていい。僕の声だけを聞きなさい」
二人の声が混じって集中できない。
「美琴は、いつもお母さんの言うこと聞いてくれたわよね」
「いいかい、美琴。君を迎え入れる準備はできている」
虚をつかれたのは、明の言葉。あの話は、まだ活きているのか。
「だから、一緒に死のう?」
「あとは、君次第だ」
意識の中に、一陣の風が吹いた。明の言葉は絡み付いた無数の糸を断ち切り、心を浸食した濃い闇を一気に薙ぎ払った。そして目の前に広がったのは、はるか遠くまで続く、真っ白な眩しい空間。そこにはまだ何もなく、何の色にも染まっていない。だからこそ――生きているからこそ、今から自分の手で何かを築いていける。母のためではなく、自分が選んだ道を自分のために、進んでゆける。
自然と、涙があふれた。堪え切れない嗚咽が部屋に小さく響く。
どうして、もっと早く決断できなかったのか。マフラーを巻いてくれた。優しく抱きしめてくれた。貴重な存在だと言ってくれた。道を示してくれた。自分がどうしたいか、もう分かっていたのに。
四カ月も悩んだ自分が、馬鹿みたいだ。美琴は手の甲でぐいっと涙をぬぐった。
「明さん、あたし……」
「返事くらいしなさいよッ!」
業を煮やしたらしい。母が爆発したように声を荒げ、扉がドンッ! と一層大きく揺れた。びくりと体を震わせ、肩を竦める。
「あんただけ生きて幸せになんかさせないから。絶対に道連れにしてやる……ッ!」
ゾッ、と全身が粟立ったのは、憎しみがこもった低い声と言葉のせいだけではない。扉越しでも分かる。禍々しい気配が、強くなっていく。
ガタガタと何かを漁る音がする。鍵を壊す道具を探しているのか。落ち着いていた恐怖に再び襲われた。これは、明が到着するまでもたないかもしれない。
そう思った直後、
「着いた。切るよ」
え、と問い返す間もなかった。通話が切られ、不意に背後に気配を感じて振り向いた。窓のカーテン越しに、黒くて長い影が勢いよく横へ流れて行く。
何だろう。つい興味を引かれて眺めていると、ガンッ! と甲高い音が響き渡った。肩を跳ね上げて扉を振り向く。ガンッ、ガンッと甲高い音に合わせて、ドアレバーが揺れる。硬い物を力任せにぶつけているような音。
「この……ッ」
「失礼する」
母の苛立った声を遮ったのは、玄関扉の蝶番が軋む音と、聞き覚えのある声だった。閃だ。
本当に来てくれた。本当に間に合った――助かった。
京都にいたはずなのにどうしてとか、鍵はどうしたのだろうなんて考える余裕はなかった。自然と安堵の息が長く漏れる。体から力が抜け、受話器が手の中から滑り落ち、ゴトンと鈍い音を立てて床に転がった。
「な……、え、は? 何? 何なのあんたたち。勝手に……っ、痛! 何すんの放して、誰よあんたたち警察呼ぶわよ!」
「騒ぐな。腕をへし折るぞ」
一体何が起こっているのか。金属が転がる音が派手な響き、閃の物騒な脅しを最後に、扉の向こうが静かになった。
「美琴」
次に届いたのは、明の声。
「僕だ。そこにいるね?」
扉のすぐ向こう側。優しく問いかけてくる声に、美琴は顔をくしゃりと歪ませた。
「明さん……っ」
四つん這いのまま床を這い、パイプベッドにしがみつくように上半身を乗せた。この向こうに、明と閃がいる。
「美琴、怪我は?」
「あ、ありません……っ」
「良かった。ここを開けられるか?」
「はいっ」
美琴は足を踏ん張って立ち上がり、ハンガーラックとタンスを元あった位置へ押しやった。異常な緊張と恐怖を強いられた果ての安心感だ。自分でも驚くほど力が入らず、けれど体全体を使って何とか移動させた。そしてパイプベッドを手前に引っ張って隙間を作り、そこを通って扉に辿り着く。鍵を開けると、こちらより先に向こう側からドアレバーが動いて、扉が開いた。
見えた明の姿に、心臓がぎゅうっと締め付けられた。胸の奥底から噴き出してくる、安心感。間違いない。明だ。スーツにコートを羽織り、銀フレームの眼鏡。その奥の優しい眼差しは、あの日と同じ。
「おいで」
差し出された手にくしゃりと顔を歪ませて、ゆっくりと歩み寄る。すると、まるで綿を包むように、優しく抱き寄せられた。
「無事で良かった。よく頑張ったね」
間近で囁かれる声と、優しく頭を撫でる感触がさらに安堵感を連れてきて、一気に涙が溢れ出す。体をすっぽり包む腕の中は心地良くて、堪え切れない嗚咽が漏れた。
「へぇ……、そういうこと」
不意に、母がぽつりと呟いた。
顔を上げて涙をぬぐう。振り向いた明の向こう側では、床にフライパンが転がり、キッチンの作業台に包丁が置かれていた。フライパンでドアレバーを壊そうとしたらしい。そして、玄関の前で閃に後ろ手を拘束された母が、顔をニヤつかせてこちらを見据えている。侵入者に驚き、さらに落ち着きを取り戻したためか、あんなに大きかった邪気が小さくなっている。
「あんたたち、その子の客でしょ」
鬼の首を取ったような顔。
「正義の味方ぶってるけど、その子が未成年だって知ってて買ったのよね。犯罪よ、犯罪。あんたたちは全員犯罪者。こんなにタイミング良く現れたのは、またその子を買いに来たからでしょ? よっぽど気に入ったみたいね。ああ、もしかして約束してたのかしら。悪いわね、邪魔して。ところで美琴。あんた、こいつらと何回寝ていくらもらったの。聞いてないわよ? 何で黙ってたの!」
「黙れ」
低く強い声で一蹴したのは、明だ。母がびくりと肩を震わせて顔を強張らせた。空気が張り詰め、緊迫した沈黙が流れる。
見上げた明の眼差しはぞっとするくらい冷たくて、静かな苛立ちと憤りが滲んでいた。ホテルで見た、あの冷たい眼差しとは比較にならないほどの冷徹さだ。