第8話

文字数 2,749文字

 阪急三宮駅・西口。ここはあくまでも待ち合わせスポットとして有名で、ナンパスポットではない。場所を変えた方がいいだろうか。母に言われた生田神社の北側を含め、周辺を見て回ったが、生田神社の東側にある「東門街」や、その前を走る「生田新道(いくたしんみち)」の道路沿いには、たくさんの雑居ビルに飲食店が入り、カラオケ店や薬局が軒を連ねていた。JR三ノ宮の南口広場も人が多かったが、近くに交番があった。となると、やはり東門街の方か。
 それに、このままじっとしていると凍死しそうだ。通学用のマフラーは持っているが、小学校から使っている物で少し子供っぽく、服と合わないので巻いていない。コートのボタンを全て閉めているとはいえ、首は晒されているも同然だし、制服で慣れているとはいえ生足にスニーカーはやっぱり寒い。
 美琴はぶるっと一つ身震いをし、移動しようと柱から背を離した。直後、目の前から歩いてきた男に目が止まった。
 黒のロングコートにマフラー、仕立ての良さそうなスーツ。磨かれた革靴。細い銀フレームの眼鏡の奥の、優しげな目。整った顔立ちは、派手さはないが周囲の視線を集めている。誰もが身を縮め、足早に家路に向かう寒さの中、彼だけは歩調がゆっくりで、余裕があって――どう表現すればいいのだろう。こう、俗世から隔離されたような、不思議な空気を纏っている。
「僕だ。お疲れ」
 携帯を耳に当て、不意に発したその声に我に返った。優しい、聞き心地の良い声。
 ふと目が合って、逃げるように視線を逸らした。何だか妙に恥ずかしくなり、足元に目を落とす。
「うん。無事に終わったよ」
 落ち着いた話し声が近付いてきて、すぐ右隣りで足音が止んだ。離した背中を、こっそり柱にくっつける。
「先方との会食が終わって、三宮にいる」
 仕事終わりに、家族への連絡だろうか。
「神戸牛のステーキ。美味しかったよ」
 ふふ、と声を殺して自慢げに笑う。いいなぁ、豪勢だなぁと頭の隅で羨みながら、美琴はさらに聞き耳を立てた。
「僕に言われてもね。これも仕事のうちだ。それより、明日は予定通り確認のためにいくつか回るから、帰りは夜になる。うん、分かってるよ。そっちは? 陽はどうしてる?」
 明日、帰り。出張だろうか。ハル。男でも女でもおかしくない名前。今話しているのが奥さんだとしたら、子供。
「もう少し寂しがってくれてもいいのになぁ。うん? ……そうか」
 不意にトーンが変わった。愛しげで、嬉しそうな声。思わず横目で盗み見た横顔は、微かだが、とても柔らかな笑みが浮かんでいた。
「じゃあ、早く仕事を片付けないといけないな。それと、晴。今夜は仕事が入っていただろう。宗史くんに迷惑をかけるんじゃないよ」
 セイとソウシ。男の名前、仕事、たしなめるというよりは、少しからかい気味の口調。仕事をしている子供がいる年齢には見えないし、よく見れば指輪をしていない。ということは、弟あたりだろうか。ハルは、死別か別れた奥さんとの間の子供。出張中だけ弟夫婦か実家に預けている、あるいは同居しているのなら、先程の会話も腑に落ちる。
 ははっと軽い笑い声を聞きながら、美琴は視線を足元に落とした。
 ――こうやって、慈しめる家族がいるんだ。
 自分で稼ぐと決めた。でもせめて、初めては優しい人がいいと思った。矛盾していると分かっている。そもそも優しい人が買春なんてしない。でも、一度だけでいい。初めだけ優しくしてくれれば、もう選り好みなんてしない。生きていくためだと割り切るから。だから――十三仏様、七福神様。
「じゃあ頼んだよ。また連絡する。おやすみ」
 ――初めては、この人がいいです。
 考えるより先に、体が動いた。気が付けば、追いすがるように一歩踏み込んで腕を伸ばし、黒いコートを指先で掴んでいた。
 男が、ポケットに携帯をしまう手を止めて振り向いた。
「何か?」
 眼鏡の奥の瞳に見下ろされ、一瞬覚悟が鈍った。何もかもを見透かすような、真っ直ぐな目。ぐっと唇を噛んで、萎えかけた覚悟を奮い立たせる。断られると分かっていても、万が一の可能性もなくはない。そう自分に言い聞かせ、口を開く。
「さ……、三万、で、どうですか……」
 覚悟とは裏腹に、何度も練習したセリフは情けないほどたどたどしかった。急に恥ずかしくなってきて、コートを掴んでいた指がするりと離れ、同じく視線も落ちた。
 顔が熱い。家族をあんなに大切にしている人からすれば、売春なんてやるような人間はもれなく軽蔑の対象だろう。猛烈に後悔の念に襲われた。やっぱりやめておけばよかった。こんなちゃんとした人。
 ごめんなさい、冗談です。そう告げようと薄く唇を開いた時。
「いいよ」
 同意の返事が降ってきた。空耳だろうか。
「え……?」
 目を丸くしてゆっくり顔を上げると、彼はくすりと笑った。
「どうして君が驚くのかな」
「あっ、す、すみません」
 絶対に断られると思ったのに。こんなに優しそうできちんとした人でも、やっぱり男、ということなのだろうか。
 自分から誘っておいて落胆するなど、ずいぶんと身勝手な話だ。そもそも、自分にそんな感情を抱く資格はない。美琴は拳を握って頭を切り替えた。
「えっと、じゃあ……」
 必死に笑顔を浮かべて促すと、男はにっこり笑ってついてきた。
 夏休みの終わりに覗いた時は驚いてすぐに踵を返した、「大人の店」が多い路地。その手の店ばかりなのかと思ったが、焼き肉屋、カラオケ店、ステーキハウス、すし屋と普通の飲食店も多く看板を掲げていて、カップルや女性二人組も平然と素通りしている。慣れた人からすれば、ただの抜け道らしい。そう気後れする場所ではなかったようだが、子供には少々刺激が強い。
 加えて、目的地までの時間。何を話せばいいのかさっぱり分からない。名乗った方がいいのか、それとも何も聞かない方がいいのか。
「そういえば」
 こちらの気恥ずかしさと困惑を見透かしたように、男が沈黙を破った。
「名前を聞いてもいいかな?」
 聞いてもいいんだ。
「あ、はい。ひ……」
 ついフルネームを名乗りそうになって、慌てて飲み込む。本名はさすがにまずい。と思うものの、とっさに偽名なんて思いつかない。別段変わった名前でもないから、フルネームでなければいいか。
「美琴です」
「ミコトちゃん。……美しいに、お琴の琴かな?」
「はい」
 漢字まで確認するなんて。細かい人なんだろうか。男はこちらを見下ろしたまま、ふわりと笑った。
「いい名前だね。君によく合ってる。僕は、明るいと書いて、明。よろしくね」
「明さん。よろしくお願いします」
 歩きながらぎこちなく会釈をする。何だろう。この状況でこのやり取りは普通なのだろうか。それとも、彼もこういったことは初めてで、よく分かっていないのだろうか。
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