第7話

文字数 3,925文字

 紺野と北原は彼らを横目で通り過ぎ、一人かろうじて起きていた先輩に声をかけた。昨日、深町仁美をロビーで連行した刑事だ。
「おはようございます。どうしたんですか?」
「おう、おはよう」
 コーヒーをすすっていた先輩は、それがなぁと重苦しい溜め息をついた。
「昨日のロビーの件だよ」
「今朝のニュースでやってましたね」
「俺驚きました、四十六って」
「いやそこかよ」
 先輩の間髪置かない突っ込みに、紺野は決まりが悪い顔を逸らした。北原と同じとは屈辱だ。
「ほら、あんな状態だっただろ。まともに調書取れなくてな。所持品も一切なくて、名前を聞き出すの苦労したぞ」
「何も持ってなかったんですか?」
「ああ、自宅から徒歩で来たらしい。目撃者も多数出た。でも、物的証拠を揃えようにも指紋採取で大暴れするし、身体検査に当たった女性警官も痴漢呼ばわりして触らせようとしねぇし、かなり手こずったんだよ。罵詈雑言すごかったぜ」
 うわぁ、と紺野と北原は渋面を浮かべて疲労満載の刑事らを見やった。お疲れ様です、と北原が合掌した。
「被疑者は今どんな状態なんですか?」
「うーん、あの時よりはマシって感じだな。支離滅裂な部分はあるけど、状況証拠も物証も揃ってるから今日中に送検する。でも起訴前鑑定(きそまえかんてい)になるかもな」
「そうですか……」
 起訴前鑑定は簡易鑑定と本鑑定の二つがある。今回の場合は後者になるだろう。
 起訴前本鑑定とは、警察から検察へ送検され、検察官が被疑者の言動などから責任能力に問題があると判断した場合、精神科医に診察を依頼することだ。検察庁内で一度切り行われる簡易鑑定と違い、二、三カ月にわたって医師の診察を受けるため、被疑者は病院や拘置所に鑑定拘留されることになる。精神科医によって作成された鑑定書を踏まえて、検察官は起訴、不起訴を決定する。犯行当時、精神喪失状態だったとされた場合は無罪、精神耗弱状態とされた場合は減刑となる。
 昨日、亀岡市で遺体となって発見された田代基次(たしろもとつぐ)と同じパターンだ。
「ただなぁ、一つ問題があってな」
 先輩は缶コーヒーを傾けながら溜め息をついた。
「何ですか?」
「一人娘がいるんだけど、連絡がつかねぇんだよ。今所在を確認してる」
「ニュース見てないんですかね?」
「さあなぁ」
 遺体の引き取りや母親の現状など、家族に伝えなければならないことは山積みだ。仕事で忙しいのか、知らない番号には出ないようにしているのか、どんな理由にしろ、娘からしてみれば受け入れ難い現実が待っている。
 沈痛な面持ちを浮かべる二人に、先輩は気を取り直すように尋ねた。
「お前らの方はどうなんだよ、鬼代事件。かなり難航してるって聞いてるけど、進展あったか?」
「ええ、まあ……」
 苦笑いを浮かべて濁した紺野に、彼は苦笑いを返した。
「難しいって顔だな。ま、頑張れよ」
 俺も寝たい、と一つぼやき、先輩はパソコンに向き直った。
 紺野と北原は出勤簿にハンコを押しながら、一瞬、昨日のあれは残業に入るのか? という考えが頭をよぎったが、もう面倒なので書き込まずにおいた。
 車の鍵を手に一課を後にする。
「うお」
 駐車場で昨日と同じ車両のドアを開け、紺野は躊躇した。砂だらけだ。帰宅して風呂場に直行した時、かなり薄汚かったためもしやと思ったが。元々捜査用の車両は小汚いけれど、他の刑事に見られなくて助かったという安堵以上に、まずい、掃除心がうずく。今は時間的に無理だから捜査会議のあとガソリンスタンドか右京署の洗車場で掃除機を借りる、あるいは戻ってくるか。
 助手席のシートを凝視し思案する紺野とは逆に、北原はさっさと手で砂を払って乗り込んだ。
「紺野さん、捜査会議遅れますよ。あとで掃除機借りましょう」
 三年も相棒をしているだけのことはある。的確に思考を読まれ、紺野はむっと口をへの字に曲げた。
「分かってる」
 言いながら砂を払い乗り込む。さっそくコンビニの袋を漁り、缶コーヒーのプルタブを開ける。
「紺野さん、ちょっと聞いていいですか」
「うん?」
 缶に口を付けながら横目で見やると、北原は何やら真剣な面持ちで前を見据えていた。
「昨日の着信、確認しました……?」
 神妙な口調に、紺野はうっと声を詰まらせた。
「……した」
「かけ直しました?」
「……いや、限界だった」
「実は俺もです……怒ってますかね……?」
「……間違いなくな」
 紺野が肯定すると、二人同時に深い溜め息をついた。捜査会議サボりたい、と願う二人の気持ちとは裏腹に、車は順調に右京警察署へと進んでゆく。


 右京警察署に到着し、重い足取りで捜査本部へと向かった。
 亀岡署の捜査員らしい刑事らと一緒に乗り込んだエレベーターの中で、紺野と北原は傍から見ても分かるほどの緊張感を漂わせていた。鬼代事件の捜査員だよな、ああ何かあったのか、とこそこそ話す声すら今の二人の耳には入らない。
 目的の階に到着して開いた扉を前に、二人は覚悟を決めて一歩を踏み出した。とたん。
「紺野ッ! 北原ッ!」
 廊下に響いた鋭い怒声に、紺野と北原は大仰に肩を竦めて硬直した。一緒に到着した捜査員たちが何事かと足を止め、ぎょっと目を剥いた。声がした方へ同時に顔を向けると、般若のような顔で腕を組んだ熊田(くまだ)が廊下の真ん中で仁王立ちしていた。
「く、熊さん……」
「お前らぁ……っ」
 怒りに満ちた声を絞り出した熊田が、足早というよりは小走りに近い速度で二人に駆け寄り、後ろから慌てて佐々木(ささき)が追い掛けてくる。北原が、ひっ、と引き攣った悲鳴を上げて紺野の背中に隠れた。
「あっ、北原お前……っ」
 先輩を盾にするなどなんて後輩だ。自分が盾になりますくらいの気概はないのか。お前せこいぞ、だって怖いじゃないですか、俺だって怖いわ、と揉み合っていると、二人の頭に順に平手が降ってきて小気味の良い音が廊下に響いた。
「お前ら昨日どこで何してた、捜査会議出られないならなんで連絡入れねぇんだ、つーか電話出ろ着信見たなら折り返せこの馬鹿!」
 矢継ぎ早の質問と叱咤に、結局盾にされた紺野は「いや、その、あの」としどろもどろになり、後ろでは北原が念仏のように「すみませんすみません」と繰り返している。熊田の変貌を初めて目にした捜査員たちが、慄きながら廊下の端っこをすり抜けていく。
 昨日――日を跨いでいたため本日深夜になるのか。帰宅してシャワーを浴びたあとで、携帯の着信ランプに気付いた。確認すると、熊田の名が列を成していた。折り返せねばと思いつつも体が強制終了し、倒れるようにベッドに沈み込んだ。そして目が覚めるとあの時間だったのだ。
 紺野は冷や汗をかきながら、つぶらな瞳がどうしたらそんなに吊り上がるのかと思うほど吊り上がった熊田の目から視線を逸らし、声を絞り出した。
「しょ、所用で、どうしても、時間が……すみませんでした……」
 尻すぼみの説明に、熊田は納得していないらしい。目を据わらせてじっと紺野を見据えている。嘘じゃない、嘘じゃないぞ、と自分に言い聞かせつつも視線は泳ぐ。
「まあまあ、もういいじゃないですか熊さん」
 笑顔で助け船を出したのは、佐々木だ。
「二人とも、朝ごはんを食べ損ねるほど疲れていたみたいだし、この辺で」
 佐々木の言葉に、熊田は二人の手にぶら下がっているビニール袋に目を落とした。
「もうすぐ会議始まりますし、それに自炊派の紺野くんがコンビニなんて、よっぽどですよ」
 昔から紺野を知っているがゆえのフォローだ。熊田はしばらくむっとしたままビニール袋を睨み、やがて諦めた様子で嘆息すると、再び二人を見据えた。
「報告、連絡、相談、報連相は基本中の基本だと学んだだろう。俺たちは組織で動いてんだ、怠るな。特に紺野、先輩のお前がおろそかにしたら後輩に示しが付かねぇだろ。ちゃんと頭に叩き込んどけ」
 般若は収まったが真っ直ぐな眼差しで諭され、二人は姿勢を正して頭を下げた。
「はい。すみませんでした」
「すみませんでした」
 よしと頷く熊田の側で、佐々木がにこにこと笑みを浮かべている。
「……お前、何でそんな嬉しそうに笑ってんだ」
 怪訝な顔で尋ねた熊田に、佐々木は小さく笑い声をもらす。紺野と北原が頭を上げた。
「だって、久しぶりに熊さんが紺野くんを叱ってるところ見たら、なんだか懐かしくて。昔よく叱られてたわよねぇ」
 余計な記憶を掘り起こしてしまったらしい。紺野が顔を引き攣らせた。北原がいるのにやめてくれ。
「熱血って言うよりはただの向こう見ずで猪突猛進だったからな、こいつ」
「ちょっと、二人ともやめてくださいっ」
「そのお話、もっと詳しく」
 ずいっと興味津津な顔で前に出てきた北原に、紺野が渋面を浮かべた。ついさっきまで半泣きで人の背中に隠れていたのに、なんて現金な。
「おい北原、てめぇな」
 がっしりと頭を鷲掴みにすると、北原は至極真剣な顔で振り向いた。
「だって普通先輩の昔話なんて貴重じゃないですか。いざという時のために」
「いざという時のために何だこら。ものっすごいいい顔で人を貶めるためのネタ収集しようとすんな」
 人を盾にしたことといい、やはり最近の北原の成長は生意気だ。というよりふてぶてしくなってきた。教育を間違えただろうか。
「はいはい、五分前よ二人とも。行くわよ」
 腕時計を確認し、学校の教師よろしく一拍して踵を返した佐々木と熊田の後ろを、紺野と北原が返事をしながら続く。
 大体お前俺を盾にしやがって、頼りにしてるんです、のうのうとよく言えるなお前は、と未だ後ろから聞こえてくる後輩二人の喧騒に、熊田が脱力した息を吐いた。
「あいつら、反省してんのか……?」
 朝から疲労気味の熊田のぼやきに、佐々木が楽しげな笑い声を上げた。
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