第3話

文字数 5,497文字

「あっと、そろそろいいか」
 気付けば十二時を少し回っている。榎本からの連絡はまだないが、署に戻って捕まると色々と都合が悪い。ここで済ませてしまおう。
 冬馬へ電話をかける。呼び出し音を聞きながら、下平はわずかに眉を寄せた。今朝、紺野からの報告を聞きながら少し気になったことがある。伝えるべきだとは思うが、何せ確証がないため無駄に不安を煽ることにもなる。
 五回ほど呼び出し音を鳴らし、まだ寝てるかと切ろうとした間際で繋がった。
「もしもし」
 思っていたより元気そうな声に、思わず安堵の笑みが浮かぶ。
「おう、俺だ。起きてたか?」
「ええ」
 ばたんと冷蔵庫の扉を閉める音がした。
「お前、今何してんだ?」
「昨日の服の血を落としてました。さすがにあのまま捨てるのはちょっと」
「あー、誰かに見つかったら通報されるよな」
 ペットボトルの蓋を開ける独特な音に、冬馬の苦笑が重なった。下平もぬるくなったお茶の蓋を開けながら尋ねる。
「体調どうだ? ゆっくり寝られたか」
「熟睡でしたよ。まだちょっとだるいですけど」
「あの出血量じゃあな。つーか、仕事休めねぇのか」
「昨日いきなり休んだので無理です。それで、どうしたんですか?」
 言い切ってすんなり話題を変えた冬馬に、下平は嘆息した。責任感が強いのはいいが、倒れたら元も子もないだろうに。お茶に口を付けて気を取り直し、本題に入る。
「実はな、頼みがあるんだよ」
「頼み?」
 以前は思い浮かばなかった、冬馬のきょとんとした顔が浮かんだ。またずいぶんと印象が変わったものだ。
 ドリンクホルダーにペットボトルを戻しながら良親(よしちか)の携帯の件を伝えると、冬馬はしばらく無言のまま口を開かなかった。やがて、大きな溜め息が届いた。
「下平さん」
「分かる、分かるぞ。お前の気持ちはちゃんと分かってる」
 今から反論するぞといった色の声を遮り、うんうん、と一人頷く。昨日の今日で、あんな別れ方をしたにもかかわらず樹と間接的に関わることになるのだ、複雑だろう。しかも、自分を脅し殺そうとした人間の携帯を自宅に戻す手伝いをしろ、などと言われれば誰でも断りたくもなる。
「けどな、冬馬」
 下平は一転して真剣な声色で告げた。
「困ってんだよ」
 瞬時にイラっとした空気が電話の向こう側から伝わってきた。あの言質がこんな所で役に立とうとは。そして冬馬は、諭された相手から脅しまがいの協力を迫られるとは思いもしなかっただろう。悪いとは思うが、そうも言っていられない状況なのだ。
 しばらくして、冬馬はもう一度深々と溜め息をついた。
「分かりました、協力します。下平さんには恩がありますし、俺も頼みごとをしてますから」
「別に恩を売った覚えはねぇよ。けど助かる、悪いな」
「人を脅しておいて何言ってるんですか」
「人聞き悪ぃな。頼みごとっつったろ」
「どこをどう解釈しても脅されてるとしか思えませんね」
「ああ言えばこう言うなお前は」
 もしや樹の口の達者さは冬馬譲りか。呆れた口調で指摘してやると、冬馬は小さく笑い声を漏らした。
「それで、良親の家は分かってるんですか?」
「いや? お前知らねぇのか?」
「知ってるわけないでしょう」
 しばしの沈黙が流れた。
「……調べろと……?」
 さすがだ。信じられないと言いたげな声に、下平はへらっと笑った。
「どうにかならんか。過去に警察の世話になってたとしても今の住所とは限らねぇだろ。しかも正攻法が使えねぇから、俺たちは調べようがねぇんだ」
「開き直らないでください」
 冬馬から容赦ない指摘をされ、下平は喉の奥で笑った。以前の冬馬なら「結局は規則に則らないと何もできないんですね」などと嫌味を投げてきていただろうに。相変わらず可愛気はないが、以前と比べてずいぶんと柔和になってきたように思える。
「分かりました」
 冬馬は溜め息交じりに承諾し、まったくもう、とぼやいた。一般人にぼやかれる警察官も情けないが、ここは気にしないことにする。
「適当な理由を付けて(りく)さんに聞いてみます」
「陸ってのは誰だ?」
「ミュゲの古株で内勤の方です。時々遊びに来てくれていて、半年くらい前かな、うちにいたバイトの女の子と結婚したんです」
「おー、めでたいじゃねぇか。いいな、そういう話」
 事件の渦中にいるせいか、祝いの話題は余計めでたく思える。下平の浮かれた声に、冬馬もそうですねと笑った。
「で、内勤って、要は事務みたいなもんか?」
「はい」
「それなら良親の住所も分かるな。いつ頃になる?」
「六時頃には出勤されてるはずなので、それ以降になります」
「そうか。分かったら連絡くれ」
「分かりました」
 あとは紺野たちから携帯を受け取って、一人暮らしだろうが実家だろうが警察だと名乗れば対応してくれるだろう。行く前に冬馬と打ち合わせをしておくか。ひとまず携帯の件はこれで終わりだが――。
「あー……」
「何ですか?」
 下平は言いあぐねた後、覚悟を決めて続けた。
「あのな、冬馬」
「はい」
「龍之介の件なんだが、セクハラ以外の噂があっただろう。洒落にならねぇこともしてるってやつ。あれ、本当かもしれん」
 一瞬沈黙が流れ、冬馬が硬い声で尋ねた。
「それ、どこからの情報ですか」
 やはり気になるか。下平が無言を返すと、冬馬は「ああ」と察した声を小さく漏らした。
「樹ですか」
「樹っつーか、昨日一緒にいた奴らだ。色々繋がりがあるみたいでな」
「そうですか。それなら信用できる情報でしょうね」
 あっさり受け入れた冬馬に、下平は苦笑した。携帯の件を頼んでおいて今さらだが、あまり神経質にならなくてもいいようだ。
「ただ、龍之介の犯歴を調べても何も出てこねぇんだよ。それどころか被害届すら出されてねぇ」
「わざわざ調べたんですか?」
 当然の疑問だ。告げ口をするようで気が引けるが、どのみちリンとナナから聞くのなら同じことだ。
「実はな、リンとナナから調べて欲しいって頼まれてたんだよ。龍之介がアヴァロンに来た時、出禁になった理由があれば有利だからって。もちろん内容までは教えられねぇから、犯歴があるかどうかだけだけどな」
 また沈黙が流れ、やがて冬馬が深々と溜め息をついた。
「あいつら……」
「怒るなよ。あいつらなりに店とお前を心配してんだから」
「……ええ、分かってます」
 冬馬のことだ、頭ごなしに叱るようなことはしないだろうが、多少説教はするかもしれない。冬馬は気を取り直すようにもう一度息をついた。
「すみません下平さん、無理なことをお願いして」
「構わねぇよ、お前らなら他に漏らすことねぇだろ。でも、もしバレてクビになったらお前のところで雇えよ?」
 ははっ、と冬馬は軽快な笑い声を上げた。
「いいですよ。下平さんなら頼りになりますし、信用もできますしね」
「そりゃ光栄だ。でな、それともう一つ。昨日の黒幕――平良に誘拐の依頼をした奴のことなんだがな、龍之介の親父の一之介(いちのすけ)かもしれん可能性が出た」
「……は?」
 冬馬からしてみれば脈絡のない話に聞こえるだろうが、これがあながちないわけではない。
「まあ聞け。詳しい説明は省くが、あいつら陰陽師と一之介との間に確執があるみたいなんだよ。で、昨日の黒い煙みたいなやつ、お前も見ただろ」
「ええ……」
「あれな、悪鬼って言って、要するに悪霊みたいなもんだ。で、面倒なことに操れる奴がいてな、もし龍之介も事件に関わってるとしたら、あれを使ってくるかもしれん」
 今朝の紺野からの報告を聞いた時、一瞬動揺が走った。
 リンとナナから例の話を聞いたのは、外だった。路地ではあったが、誰にも聞かれていないと断言はできない。あの時にはすでにリンとナナは良親から狙われていたし、あの日も監視が付いていたとしたら、例の話を聞かれたかもしれない。もし一之介が依頼主だったとしたら、監視役から良親、平良(たいら)、そして一之介へ流れた可能性がある。一之介も息子の不祥事を探られたくはないだろう。自分を含め、確実にリンとナナを襲ってくる、と思ったのだ。
 しかしすぐに、誘拐を実行する日以外で、二人を監視する意味がないことに気が付いた。ならばあの話は伝わっていない。ただ、はっきり言ってあの親子は相当質が悪い。自分の欲望を満たすために手段を選ばない印象を受けた。だからもし、一之介だけでなく龍之介も一連の事件に関わっていたとしたら――。
 しばらく冬馬は口を開かなかった。詳しく説明した方がいいかと口を開こうとした間際、先に冬馬が言った。
「つまり、平良に依頼して、今度はあれでリンとナナを襲わせるかもしれない、ということですか」
 さすが、頭の回転が速い奴は助かる。
「あくまでも可能性の話だがな。昨日は何故か俺たちにも見えたが、本来は見えねぇもんなんだよ。リンとナナに霊感があるって話、聞いたことねぇか?」
「いえ、ありませんね」
智也(ともや)圭介(けいすけ)もねぇよな」
「多分。三年前も見えてなかったようですし」
「だよな……」
 下平は頭を掻きながら唸り声を上げた。いっそ紺野か樹たちに相談して協力してもらうか。しかし。
「どっちにしろ、憶測にすぎねぇんだよなぁ。一之介のことに関して、樹たちは乱暴な推理だっつってたらしいし、確証がねぇんだ。龍之介に関しても同じだ、似たもの親子だからもしかしてって思っただけだからな」
 紺野たちも樹たちも、今は事件で忙しいだろう。何の確証もないことに時間を割かせるわけにはいかないが、警戒するに越したことはない。せめて相談くらいするか。冬馬も悩みどころなのだろう、しばらく二人して沈黙し、やがて冬馬の方が先に口を開いた。
「下平さん、智也と圭介にその話をしても構いませんか」
「ん、ああ、別に構わねぇぞ。あいつらなら話も通じるだろうし、実感できるだろ」
「龍之介の犯歴は、もうリンとナナに?」
「ああ、今朝ナナに」
「なら、下平さんの個人的な情報網からということにして、情報源は伏せましょう。噂は本当である可能性が高いことを伝えて、しばらく夜は出歩かないように言い聞かせておきます。ただ、彼女たちも付き合いがありますし、無理強いはできないので、夜に出歩く場合は連絡するように言って、智也と圭介に迎えに行かせます。悪鬼の対策にはなりませんが、生身の人間なら牽制にはなります」
 述べられた対応策に下平は逡巡し、そうだなと頷いた。
「それしか方法がねぇか。智也と圭介はどれだけ危険か分かるだろうし、悪鬼対策はこっちで何とか考えてみる」
「お願いします」
 いっそリンとナナに全部話ができればいいのだが、無駄な心配をかけたくない。それでなくても冬馬を半ば巻き込んでしまっているのだ。
「特にリンの方は気ぃ付けてやれよ。あいつ一人暮らしなんだろ、戸締まり徹底させて、できれば部屋の中をチェックしてから入らせろ。鍵をかけるまで離れるなって伝えとけ。最近はどんな手で忍び込まれるか分からんからな」
「分かりました、伝えておきます」
 よし、と下平は頷くと、あと何かあったかと思案する。ふと、冬馬が口を開いた。
「下平さん」
「うん?」
「ありがとうございます」
 静かに礼を告げた声は酷く穏やかで、しかしどこか悲しげだった。つい今しがた流暢に対応策を説明していた人物とは思えない。
 昨日の今日で、情緒が不安定なのだろうか。
「別にいいって、気にすんな。それより、俺が言うのもなんだけど、病院行かねぇんなら仕事までしっかり休んどけ、動くな、寝てろ」
 少し語気を強めた命令口調に、冬馬がくすくすと小さく笑った。
「分かりました、そうします」
「おう。それじゃあな」
「はい」
 下平はよしと一人で満足して通話を切った。とたん、またすぐに着信が来た。榎本だ。
「おう、俺だ。お疲れさん、似顔絵できたか?」
 開口一番尋ねると、無言が返ってきた。首を傾げる。
「おい榎本、どうした?」
 返事はない。代わりに何やらごそごそと音が聞こえた。徐々に不安が頭をもたげる。榎本が女を見ているということは、逆も然りだ。しかし榎本は署にいるはず。いや、似顔絵作成が終わってから何かあったのかもしれない。
「おい、えの……っ」
 緊張を含んだ下平の声を、初めて聞く榎本の爆笑が遮った。ぎょっとして携帯を遠ざける。何なんだ一体。しばし唖然として、はたと気付いた。まさか。
「おい喜多川(きたがわ)! お前榎本になに話した!」
 警察学校時代からの同期の喜多川には、部下には知られたくない失態を握られている。しまった油断した。携帯に噛み付く勢いで怒鳴ると、電話口に出たのは榎本ではなく喜多川だった。
「お疲れ様ぁ、下平くん」
「なんか腹立つなその言い方、お前なに話したんだ!」
「何って、ただの女子トークよ?」
 なにが女子トークだ、女子って年じゃねぇだろ、と言いたいがここは我慢だ。何とかハラなどと言われて非難されるのがオチだ。そもそも、大人の女がなんで女子と言われたいのか分からない。女性だろう。
 下平は喉まで出かかった反論を根性で飲み込んだ。
「つか何言ったんだよ、あいつがあんなに大笑いするなんて初めてだぞ!」
「やだ、そうなの? 笑いのない職場なんて嫌ねぇ。榎本さん、鑑識に来ない? 楽しいわよー」
「失礼だな、うちほど笑いが絶えない班はねぇぞ! あと堂々と人の部下勧誘すんな!」
「鑑識は猫の手を借りたいくらい忙しいの。それより、似顔絵できたから榎本さん戻すわね、じゃあね」
「おい喜多川待て……っ」
 言いたいことを言うだけ言ってぶつっと切られた。通話が切れた液晶を唖然と見つめ、下平は握る手を震わせた。
「喜多川――――ッ!」
 昼下がり、烏丸通に停められた警察車両の車内に下平の怒声が響き渡った。
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