第9話

文字数 3,938文字

 微かに届いた悲鳴は、確かに双子のものだった。聞き間違えるはずがない。
 大河は飛び込むように鳥居を抜け、薄暗い参道を駆けた。
 入口から数メートルは直進だが、その先はつづら折りになって右斜め奥へと伸びていた。急いでいる時にこの形態の道はかなりもどかしい。大河は参道を進むことなく直進した。
 雑草や大木の低い位置の枝葉などは刈り取られているが、まだ若い成長途中の木々は放置されている。しかも、茂った枝葉はちょうど視線の高さで、奥まで見通せない。地面の水捌けは良いようでぬかるんではいないが、濡れているせいで蹴るたびに砂が撥ねてジーンズの裾にこびりつく。
 大河は途中の大木に片手をついて足を止め、荒く息を繰り返す。唾を飲み込むと喉が痛んだ。もうどのくらい走っているだろう。ふくらはぎがぱんぱんに張っているのが分かる。ぐっと唇を噛み、顔を上げて再び走り出す。
 休憩などしている暇はない。紫苑のあの意味深な言葉に加えて悲鳴が聞こえたということは、双子の側に誰かいて、何かしようとしている証拠だ。それに、しばらく聞こえていた泣き声が聞こえなくなっている。浮かんだ最悪の事態に、大河は小さく頭を振った。
 駄目だ、それだけは絶対に。もう二度と誰かを失うのはごめんだ。それに、皆にあんな思いをさせたくない。あんな思い知らなくていい。家族を殺された悲しみや絶望なんて知る必要ない。もし誰かが過去にそんな思いをしていたのだとしたら、もう二度と味わわせたくない。
 木々の隙間から、社の屋根がちらりと確認できた。真正面の位置、もう少し。視界を塞ぐ若い木の枝を払う。
「っ!」
 遠目に見えた光景に、大河は目を見開いた。
「何やってんだお前ッ!!」
 怒声を響かせると、社の三段しかない階段の前で背を向けていた人物が勢いよく振り向き、振り上げていた腕を下ろした。体格からして男だ。向こう側に、賽銭箱の前で抱き締め合っている双子の姿がちらりと見えた。男はすぐさま双子を引き剝がし、藍を引き摺るように階段から下ろして、襟首を掴んだまま再度こちらを振り向いた。そして、藍の首元にカッターナイフを添えた。蓮が階段から下りながらすがるように男の服を掴んだが、邪魔だと言わんばかりに蹴り飛ばされた。蓮は顔を歪ませて横に倒れ込んだ。
「てめ……ッ!」
「動くなッ!」
 鋭く命じられ、大河は参道に足を数歩踏み入れた場所で滑るように足を止めた。蓮が体を起こして男を見上げ、藍は唇を噛んでじっとこちらを見つめている。
 乱れた呼吸を整えながら、落ち着け、と自分に言い聞かせる。動揺すると不利だ。いつものように本能だけで動くと藍と蓮の命に関わる。冷静に判断しろ。
 声は若かった。Tシャツに黒のジャージ、目深に被ったキャップで顔は見えないが、Tシャツが張り付いた華奢な体躯はおそらく同じ年頃か、あるいは下。子供を人質に取るくらいなら喧嘩慣れはしていないだろうが、カッターナイフは厄介だ。対凶器の訓練は受けていない。だからと言ってこのまま対峙しているわけにもいかない。地天の霊符はポケットに入れたままだが、おそらく濡れているだろうし、もし無事でも人間相手にあんな術を仕掛けるわけにはいかない。独鈷杵だってそうだ。仮に具現化できたとしても、宗史のように寸止めできるわけではない。危険だ。どうすればいい。
 選択肢が、少なすぎる。
 大河は唇を噛んで、藍と蓮に視線をやった。
 あの時もそうだった。公園で鬼に襲われた時も、二人は泣き声一つ上げずに堪えていた。今もそうだ。カッターナイフを突き付けられているにも関わらず、蹴り倒されたにも関わらず、しゃくり上げてはいるが泣き喚くようなことをしない。
 強いな。
 大河は大きく息を吸って、長く吐いた。一文字に唇を結び、男を見据える。
「お前、何でこんなことしてんの?」
 雨音に負けないように声を張る。
「なんか嫌なことでもあったの?」
 だからと言ってやっていいことと悪いことがある、と付け加えたいがここは我慢だ。
「何があったのか知らないけどさ、せめてその二人は放してくれないかな。そいつら関係ないだろ?」
 真っ直ぐに見据えて語りかけながら、じわじわと近寄る。それに男が気付いたのか、数歩横へ移動した。
「動くなって言ってんだろ! こいつ殺すぞッ!」
 首筋に当てられたカッターナイフに藍が大粒の涙をこぼしてギュッと目をつぶり、大河がぴたりと足を止めた。
 雨音が響く中、こちらにまで聞こえるほど息が荒い。かなり興奮している証拠だ。多分、説得は無理だろう。だとしたら実力行使しかないが、しかし藍が人質に取られている以上、近寄ることもできない。
 不意に砂を蹴る音が届き、男の視線が大河の背後へと注がれた。
 一人ではない、二人。晴とあと一人は誰だろう、と思いながらも男から目を逸らすわけにはいかず、大河は前を見据えたまま待った。
「え……っ」
 驚いた声は弘貴と春平だ。どこかで合流したのか。
「お前ら動くな! 動いたらこいつ殺す!」
 同じ台詞を吐いた男に二人が大河の背後で足を止めた。
「え、何、何でこんなことになってんの?」
 緊迫したこの状況にそぐわない、少々気の抜けた声で弘貴が尋ねた。
「分かんない。来たらあいつが双子襲ってたんだよ。手ぇ出せない」
「マジかよ、誰だあいつ」
「知らないよ」
 即答した。子供を人質にするような卑怯な知り合いはいない。
「そこの二人、傘地面に置け。早くしろッ!」
 興奮しているが判断は冷静だ。弘貴と春平は男を注視したまま、ゆっくりと傘を地面に置いた。すると、あれ? と春平が何かに気付いた。体勢を戻しながら小声で告げる。
「あの人、小学校の路地で見た人じゃない?」
「え?」
 大河と弘貴が改めて見やると、男は警戒したように若干下がった。キャップでよく見えないが、そう言われると似ているような気もする。
「なあ、お前あの時の奴か? ほら、小学校のところで会った」
 弘貴が尋ねると、男は「あ」と察した声を漏らした。
「マジか。お前、何やってんだよ。自分がいじめられたからってこんなことしても意味ねぇだろ、やめろよ」
 やめるのはお前だ! と心で突っ込んだのは思わず振り向いた大河だけではない。春平もぎょっとして弘貴を見上げた。煽るようなことを言って逆上したらどうする。と思った矢先、案の定神経を逆撫でしたらしく、男が喚き散らした。
「うるさい、意味ならある! やっとあいつらの気持ちが分かったんだよッ!」
 三人は一様に眉を寄せた。顔を隠す意味がないと思ったのか、男はカッターナイフを握った手で素早くキャップを脱ぎ捨て再び藍の首に当てた。現れた顔は、確かにあの時怯えて、逃げるように走り去った少年だった。
 少年は目を見開き、にやりと口角を上げた。ずぶぬれになりながらも恍惚に浸った表情に不気味さを覚えた。同時に、少年の体から黒い煙がわずかに立ち昇った。邪気だ。藍と蓮が怯えたように顔を引き攣らせた。
「自分より弱い奴をいたぶる快感ってやつだよ。泣き喚いて、助けを乞う怯えた目ぇされると確かにいい気分だ。強くなった気になる」
 少年の一言一言に反応するように邪気は質量を増し、色も濃くなってゆく。ぞわぞわと黒い虫が集合し蠢いている様に似ている。
 弘貴が尻ポケットに手を突っ込んだ。邪気が剥がれた瞬間は一瞬隙ができるから、と春平が小声で告げ、大河は小さく頷いた。
「あいつらも俺を脅しながらこんな気分になってたんだって分かったよ。今なら共感できる! 理解できる! あんな顔されちゃやめられねぇ!! たまんねぇよなぁ!?」
 虫唾が走る言い分を吐き出したと同時に、脱皮するように少年の体から大量の黒い煙が吐き出され、一瞬苦しげに呻いて顔を歪ませた。
 その一瞬を、三人は見逃さなかった。
「藍! 蓮! 来いッ!」
「オン・マヤラギランデイ・ソワカ!」
 大河が叫びながら春平と一緒に弾かれるように飛び出したのと、弘貴が真言を唱えたのが同時だった。
 蓮が立ち上がりながら少年に体当たりした。少年は苦しさで力が入らないのか、よろめいた拍子にカッターナイフを持っていた手が蓮の頭上すれすれに弧を描き、藍の襟首を掴んでいた手が離れた。蓮が藍の手を取って駆け出したが、何とか踏ん張った少年は鬼の形相で藍に向かって左腕を伸ばした。一方悪鬼は空高く浮上し、まるで状況を確認するかのように蠢いている。
「帰命したてまつ……っ」
 弘貴の真言が不自然に詰まった。
 大河は少年を注視したまま蓮の右腕を右手で掴んだ。右後ろに引き寄せ春平に押し付けるようにしながら、さらに少年と藍の間に体を滑り込ませ、左手で藍の背中を押しやる。春平が蓮を引き寄せ、双子の背中を押しながらその場から遠ざかった。
 空を掴んだ少年が、くそっ! と悪態をつき大河に向かってナイフを振り上げた。咄嗟に後方へ飛び退きながら両腕を交差して顔を庇ったが、左腕をナイフの切っ先が掠り、ピリッと痛みが走った。
「大河避けろッ!」
「大河くんッ!」
 突然弘貴の妙な指示と春平の切羽詰まった声が耳に飛び込んできて、同時に頭上を何かが覆った。見上げると、悪鬼が大きな口を開けて降下していた。
「えっ!」
 悪鬼が見えていないらしい、少年が訝しげに眉を寄せた。
「うわっ!」
 この距離で逃げろと言われても無理だ、間に合わない。大河は交差させた腕で頭を庇い、顔を伏せた。凄まじい勢いで二人に襲いかかった悪鬼が、周囲の湿った砂を巻き上げながら、二人まとめてすっぽりと覆い尽くした。
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